秘密警察
「で、ベートーヴェンの9番目の交響曲について、何かわかったか?」
明るい太陽の下に出ると、ノエは尋ねた。
アシュラは首を横に降った。
「ここ数ヶ月、先生は、公演関係者としかお会いになっていません」
ノエが眉を上げた。
「先生? お会い?」
アシュラは大きく頷いた。
「だって、尊敬してますもん。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン先生は、偉大だ。彼がいただけでも、俺は、この世に生まれてきた価値があるって、思うんです」
「……自分がスパイしててもか?」
「いや、それを言われると……でも、仕事と芸術は別だから……」
しどろもどろと言葉を濁す。
「いずれにしろ、あの先生は、シロですよ。音楽のことしか考えられない……天才です!」
「バカとも言うな」
軽く受け流した上司の言葉に、アシュラはムキになった。
「偉大な魂を冒涜することは、上司といえど、許しませんよ!」
ノエは、鼻で笑っただけで、相手にしなかった。
「実際に、楽譜を見てみたか?」
「はい」
アシュラは頷いた。
これこそが、まだ少年に過ぎないアシュラが、諜報員として雇われている理由だった。
彼は、かつて、コンヴィクト神学校で学んでいた。コンヴィクトは王立の寄宿学校で、アントニオ・サリエリの指導の元、全国から音楽に秀でた児童生徒が集められていた。
黒髪の少年、アシュラは、かつて、宮廷少年聖歌隊(後のウィーン少年合唱団)の一員でもあった。
とにもかくにも、彼は、楽譜が読めたのである。
なおも、ノエは質問を重ねた。
「
「ありえません!」
きっぱりとアシュラは言い切った。
「そもそも、ベートーヴェン先生は、お金がないから、楽譜も、必要な部数しか刷れないし、楽団関係者以外に渡った形跡はないです。国外持ち出しなんて、ありえません!」
「楽譜と、実際の演奏との食い違いはあったか?」
「皆無です。演奏は、忠実に楽譜通りに再現されました。練習でも、昨日の公演でも」
「ふうむ。セドルニツキ伯爵は間違えたわけか。楽譜に、国外の反逆者どもとの連絡を取る、暗号が仕込まれているとおっしゃっていたが」
セドルニツキ伯爵は、ウィーンの警察長官と、最高検閲官を歴任している。
……皇帝陛下への尊敬が感じられない。
……この表現は、皇室への侮辱である。
修正。
削除。
削除。
彼の握る赤ペンは、鋭利なナイフのように、文藝始め、あらゆる芸術作品をめった切りにした。それで、セドルニツキ伯爵は、「切り裂き伯爵」というあだ名で呼ばれている。
「最初から言ってるでしょ」
奮然と、アシュラは言い放った。
「ベートーヴェン先生は、素晴らしい音楽家です! 皇帝への反逆なんて、みじんも企てたりしていらっしゃいません!」
「だが、あちこちで、現体制への批判を言いふらしているじゃないか」
それは、事実だった。
ベートーヴェンは、新聞を熱心に読み、ヨーロッパ事情に詳しかった。彼は、メッテルニヒ体制下の、極端な言論弾圧と表現の抑圧を、舌鋒鋭く批判した。
それに、秘密警察が目をつけた。彼らは楽譜が暗号であることを疑った。ベートーヴェンが、諸外国の反乱分子と暗号を用いて連絡を取り合い、騒乱の主導を取ることを恐れた。
さっそく取り締まりたいところだったが、証拠がない。楽譜が読める人間は、秘密警察といえど、まだまだ少なかった。
それで、コンヴィクトで学んだことのあるアシュラを、諜報員として、ベートーヴェンの元へ送り込んだのだ。
奮然と、アシュラは続けた。
「先生の音楽に罪はありません。先生はむしろ、詩の内容が、検閲の対象になるんじゃないかと恐れていらっしゃいました」
ベートーヴェンの第九は、オーケストラと合唱を結びつけた、珍しいものだった。合唱は、シラーの詩をもとにした歌詞を歌う。
全人類が等しく結び合うことを歌った歌は、厳格な身分制を敷く王政社会への批判だと、とられられかねなかった。
ベートーヴェンの秘書は、歌詞を伏せて、演奏会の許可を取った。
「ああ、芸術のことはよくわからないが……歌詞は、問題ないんじゃないか?」
あやふやに言って、ノエは首を傾げた。
ノエが、あやふやにしか答えられなかったのには、理由がある。
件の詩人、今は亡きシラーは、熱烈な反体制詩人だった。それで、常に秘密警察の監視下におかれていた。
最初の戯曲『群盗』からすでに、シラーは、検閲官(「切り裂き魔」セドルニツキー長官の前任者)に目をつけられていた。
邪悪で陰湿な登場人物に「フランツ」という名をつけたからだ。
いうまでもなく、「フランツ」は、今上陛下の名である。(孫のライヒシュタット公の名は、この祖父からもらった)
「だが……、」
まだ未練がましく、ノエは、問いかけた。
「昨日の初演を聴いて、何らかのメッセージを感じ取った者はいなかったろうか……?」
部下の返事は素早く、ゆるぎなかった。
「至高の存在のメッセージをね! 人があの演奏を聴いて感じるのは、善なる調和の、生きる喜びです!」
「ううむ」
ノエは唸った。
「だが、音楽って、恐ろしいものだぜ? ほんの少しのメロディーが、大勢の人を動かし、戦いに駆り立てることさえある」
「ラ・マルセイエーズですね!」
アシュラは目を輝かせた。
フランスの工兵大尉ルージュ・ド・リールが作詞作曲したこの曲は、たちまち、フランスの革命歌、そして国家となった。
「おいおい。『ラ・マルセイエーズ』は、フランスが、我が国と敵対している時に作られた歌だぞ」
この曲は、1792年、ライン方面で戦う軍隊の為に作られた。フランス軍は、オーストリア・プロイセン軍と対峙していた。ちょうど、皇帝の弟、カール大公が活躍していた頃だ。当初は、「ライン軍の軍歌」と呼ばれていた。
「楽譜に暗号が仕込まれていないにしても、人の心を動かす楽曲というものには、引き続き警戒する必要がある。ベートーヴェンには、まだ、君の正体は割れてはいないね?」
「もちろんです。下働きとして、心から、先生にお仕えしていますから」
「スパイだけどね」
「う……」
ノエは、語調を変えた。
「で、もう一人の方も、うまくいっているか?」
「彼の方こそ、完全に、シロですよ。あの人は、小鳥が歌を歌うように、ただ音楽が、体から溢れてきているだけで……」
「だが、公権力に罵詈雑言を吐いた過去がある。それに、あの男には、人を集める力がある。引き続き、油断のないよう、監視せよ」
「……わかりました」
目を伏せ、アシュラは答えた。
※フリードリヒ・フォン・シラーの没年は、1805年、「今(1824年)」の、19年前です。1度目にウィーンが陥落し、ナポレオンとカール大公が、会談した年に当たります(詳しくは「カール大公の恋」、ご参照下さい)。
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