黄金の籠の高貴な囚人


 「全く、君か、アシュラ。皇室警備の官吏に捕まるなんて、一体、何をやってるんだ?」

 小柄な上司が、薄暗い部屋の中に、ひょいと姿を現した。

 ここは、官警の一時留置所だ。


「ノエ警察官……」

 いつもは煙たく思っていた上司の姿が、とても懐かしく、頼もしく見える。窓もない、じめじめした牢獄に閉じ込められていた黒髪の少年……アシュラ・シャイトは、安堵の余り、涙が出そうだった。


 部下を見下ろし、ノエは頭を振った。

「もう少しで、むち打ちか、島流しか、まあ、死刑にはならないだろうけど、危ないところだったぜ。なぜもっと早く、秘密警察官だって、名乗らなかったんだ?」


「言いましたよ!」

力いっぱい、アシュラは答えた。

「でも誰も、信じちゃ、くれなかったんですっ!」


 14歳と、年は若いが、アシュラは、オーストリア秘密警察の情報員だった。



 ウィーン体制下のヨーロッパは、全力で、王政復古の道を歩んでいた。時計の針を巻き戻し、ナポレオン以前、フランス革命以前の君主制を、復活させたのだ。


 だが、一度、己の権利に目覚めた市民たちは、簡単には引き下がらなかった。

 様々な反抗の芽が、ヨーロッパ各国で、芽吹いていた。ウィーン体制のお膝元、ここ、オーストリアさえ、例外ではない。


 反逆を早期に摘み取る為に、オーストリアが主導するドイツ連邦では、厳しい検閲体制を敷いた。


 秘密の計画を暴き、お互いに監視させる為に、市民の協力が必要だった。

 老いも若きも、子どもを含め、あらゆる者が、密告者として活動した。

 彼らを取りまとめる、ウィーンの最上位の検閲機関役が、秘密警察だ。



 ノエ警察官は、じろりとアシュラを見た。

「君にも非があるぞ。ライヒシュタット公のケープなんか、被っていたからだ」


「ライヒシュタット公? あの子、自分の名は、フランソワだって、言ってましたが?」

「『フランソワ』は、『フランツ』の、フランス語読みだよ」

「へえええ」

「あの子は、皇帝の孫だよ」

「えっ!」


鋭い目を、ノエは、部下に向けた。

「君、なんでまた、そんな高貴な人のケープを、所持してたんだ?」


 アシュラは、もう何度も話している(そして信じてもらえなかった)経緯を説明した。



 ノエは、ため息をついた。

「ライヒシュタット公の方が、君より、一枚上手だったわけだな。秘密警察にスカウトしたいところだ。」

「悪賢いんです!」

「素晴らしい資質だ」

「あの子、護衛を巻いてましたよ?」

「かわいそうになあ。あの二人の官吏は、降格処分になるぞ」

「いい気味だ。人をこんな目にあわせやがって」

ぶつぶつとアシュラがつぶやく。


 思わず吹き出し、ノエが言った。

「ライヒシュタット公の警護は、厳しいんだ。だが彼も、遊びたい盛りだろうからな。四六時中、見張りに張り付かれてたんじゃ、気詰まりだろう」

「だったら、人に迷惑をかけずに遊べばいいじゃないですかっ! 高貴なお方のお遊びのせいで、警備の官吏は降格されるし、」

「いい気味なんじゃないのか?」

「いい気味です。……俺は無実の罪でとっつかまるしっ!」


 宥めるように、ノエは続けた。

「ライヒシュタット公ご自身も、ろくに遊べなかったみたいだが。すぐに、宮殿にお戻りになられたそうだ。お前が捕まったと聞いて、ケープを賜られたぞ」

「ケープ?」


「ほら、これ」

深緑色のケープを、ノエは差し出した。昨日アシュラが、金髪の少年に、頭から被せられたものだ。

「帽子は、記念に貰っておくって」


「交換じゃないですか! くれたんじゃなくて!」

「だって、お前の帽子だろ? あのボロボロの。それがこんなに立派なケープに化けたんだ。大儲けじゃないか」

「ケープごときで、うーーーーー、まるで、重罪人のように、うーーーっ、くそっ、俺は、尋問されまくってっ!」

「いいじゃないか。さすが皇族だけあって、これ、随分いいものだぞ。売って、女遊びにでも行けばいい」

「おんなあそび?」

「あ、お前、まだ子どもだったな。失敬、失敬」


ノエは含み笑いを浮かべた。アシュラは激怒した。


「子どもじゃありません!」

「あ? あの公爵様と、あまり変わらないだろ?」

「僕のほうが、年上です!」

「いくつ上だ?」

「……1つ」

「どっちも、女遊びはまだ早いな。要らないならそのケープ、俺が貰ってやろうか?」

「ダメです!」

素早くアシュラは、ケープをひったくった。全くこの上司は、油断がならない。


 手近な椅子を、ノエは引き寄せた。足を組んで座る。

「ライヒシュタット公の警護は、差し迫った任務なんだ。フランスは今も、政情不安が続いているからな」

「えと、ルイ18世が、今にも死にそうなんでしたっけ?」

「保って一年、ってとこかな。何にしても、あの王様は、太り過ぎだ。後を継ぐはずの弟のアルトワ伯も、いまひとつ、人気がないし」


「フランスの王様が死にそうなのはわかります。次の王様が、ダメダメなのもね。でも、なぜそれで、オーストリアの子ども公爵の警護を厳しくする必要があるんです?」

「ナポレオン・ボナパルトの息子だからだよ」

「ああ……」

今更ながらに、アシュラは思い出した。


 ナポレオンがウィーンを占領した時、彼はまだ、生まれていなかった。だが、二度目のウィーン占拠……彼が生まれる前の年だ……の折りの、激しい爆撃を、まるで昨日のことのように語る人は多い。


 「でも、ナポレオンは死にましたよね。確か」

アシュラが眉を寄せると、上司は頷いた。

「死んださ。だが、フランスには、まだ、彼の信奉者が大勢いる。ブルボン家の王様より、ナポレオンの息子に王になって欲しいと望む人間は、大勢いるんだ」

「そういえば、去年は、秘密警察も、随分、忙しかったですよね……」



 去年、1823年の夏、二人のフランス人将校が、ライヒシュタット公をさらいにウィーンへ向かったという情報が齎された。

 また、「ローマ王は、すでにスペインにいる」、という偽情報デマも流れてきた。曰く、「彼がピレネー山脈を越えるとすぐに、軍隊が現れるであろう」。

 すでにフランスには、「ライヒシュタット党」なる党派もできているという。


 いずれも、実体のない噂が独り歩きしたものだった。

 それでも、ライヒシュタット公の身辺警護は、厳重になった。



 「なんだか、キリスト降臨みたいな騒ぎでしたよね」

アシュラが言うと、真顔で上司は頷いた。

「実際、ある種の人間たちにとって、彼は、救世主なんだろうよ」

「オーストリアに、大勢のナポレオンの残党が入り込んだとかで、僕ら下っぱまで、てんやわんやでした」


「今年の秋には、叔父上の、F・カール大公の結婚式が行われれる。奥方は、バイエルンからのお輿入れだ。諸外国から、たくさんの来賓が訪れて、人の出入りも活発になる。また、忙しくなるぞ」


ノエが言うと、アシュラはため息をついた。


「これ以上忙しくなる? この給料で? 冗談じゃない!」

「全くだ。年俸を、倍にしてもらいたいところだよ」

「『フランソワ』が、払ってくれないものでしょうかね。彼が、フランスの王様になったら」


「あの子は、何も知らない」

静かに、ノエは言った。

「自分がどんなに求められているか、外の情報は、あの子は何一つ、教えてもらえない」


 ……自分の運命を変えるような情報から閉め出されているなんて。それはいったい、どんな気分なんだろう。

 アシュラには、想像もつかないことだった。


 静かに、上司は続けた。

「フランスには、ブルボン王家のやり方に不満を持つ者は多い。ルイ18世は、今にも死にそうだ。民衆は、次は、ブルボンの王ではなく、ナポレオンの息子を求めている。今が、絶好のチャンスなんだ。ライヒシュタット公の……ナポレオン2世の、フランスの王位継承の! 今、この時が!」

ノエは、大きく息を吸った。にわかにクールダウンする。

「だが、あの子には、何も、知らされない。決して!」


「なぜ?」

「籠の鳥だからさ。黄金の籠に囚われたね。あの子は、高貴な囚人なんだ」


「やれやれ」

アシュラは頭を振った。

「だって、皇帝の孫でしょ? 食べるに困らないじゃないですか。着るものだって住むところだって、贅沢なものだ。籠の鳥? いいじゃないですか。いっそ、うらやましいくらいだ」


「小さな頃から、自分の食い扶持を稼がなくちゃならなかった君が言うと、重みがあるけどね、」

ノエはため息を吐いた。


「なんです?」

「いや、いい。ライヒシュタット公のお口添えもあって、君の容疑は晴れた。だから、俺が迎えに来たんだ。いつまでも牢屋にいることはない。出ようぜ」

 先に立って、さっさと歩き出した。

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