1824年 第九初演



おお友よ、このような旋律ではない!

もっと心地よいものを歌おうではないか

もっと喜びに満ち溢れるものを


歓喜よ、神々の麗しき霊感よ

天上楽園の乙女よ

我々は火のように酔いしれて

崇高なる者(歓喜)よ、汝の聖所に入る


汝が魔力は再び結び合わせる

時流が強く切り離したものを

すべての人々は兄弟となる

汝の柔らかな翼が留まる所で


ひとりの友の友となるという

大きな成功を勝ち取った者

心優しき妻を得た者は

自身の歓喜の声を合わせよ


そうだ、地球上にただ一人だけでも

心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

そしてそれがどうしてもできなかった者は

この輪から泣く泣く立ち去るがよい


すべての存在は

自然の乳房から歓喜を飲み

すべての善人もすべての悪人も

自然がつけた薔薇の路をたどる


自然は口づけと葡萄の木と 

死の試練を受けた友を与えてくれた

快楽は虫けらのような者にも与えられ

智天使ケルビムは神の前に立つ


天の壮麗な配置の中を

星々が駆け巡るように楽しげに

兄弟よ、自らの道を進め

英雄が勝利を目指すように喜ばしく


抱き合おう、諸人(もろびと)よ!

この口づけを全世界に!

兄弟よ、この星空の上に

聖なる父が住みたもうはず


ひざまずくか、諸人よ?

創造主を感じるか、世界中の者どもよ

星空の上に神を求めよ

星の彼方に必ず神は住みたもう


  (「歓喜によせて」 翻訳 wikipedia)






 舞台は、楽器と奏者で、溢れんばかりだ。オーケストラの後方には、これも合唱隊が、男女に別れ、みっしりと並んでいる。


 弦楽器の奏者だけでざっと50人、合唱団に至っては、60~70人もいようか。

 オーケストラに合唱が合わさるなどというのは、演奏史上、類を見ないことだった。ウィーンの人たちが、今まで、見たこともない迫力だ。


 指揮者は二人いた。

 舞台中央には、みすぼらしいフロックを着た、初老の男が、タクトを振っていた。その指揮は情熱的だった。だが、彼の指揮は、時に早く、時に遅れ、演奏とズレることが多かった。


 演奏者達が実際に従っていたのは、彼の隣にいる副指揮者の方だった。練習の時に指揮棒を振っている副指揮者は、自身も唇だけで歌いながら、楽器と人の声をまとめあげていく。


 舞台中央の初老の男は、白髪交じりの蓬髪を振り乱し、狂ったようにタクトを振り回していた。時折、楽団員たちの目が、この男に向けられる。実際に指揮を執る副指揮者に対するより、ずっと深い敬意が、彼らの目には、こもっていた。



 ……星の彼方に必ず神は住みたもう


 壮大な人の声の和が、ぷつっと途絶えた。競うように、弦楽器が最後の調べを駆け上がっていく。舞台の上では、弦も切れよとばかりに、ボウが激しく行き来した。

 鳴り響く音の重なりが、クライマックスを迎えた。


 一瞬の静寂。

 続いて、割れるような拍手。


 「ブラボー!」

 真っ先に声を上げたのは、一般市民席にいた男だった。洗いざらしの白いシャツの上に季節外れの毛織物のベストを重ね、せいいっぱいの礼装をしている。

 続いて、一段高いところに設えられた貴族席からも、歓声が飛んだ。

 富める者も、そうでない者も、鳴り止まない拍手を送り続けた。


 副指揮者が振り返り、一礼した。

 にこやかに笑いながら、中央の男に向けて、大きく手を広げた。観客は一層大きな拍手と声援を送った。


 だが、初老の男は、観客に背を向けたままだった。

 頭を垂れ、まるで、深い憂愁に沈んでいるように見える。


 拍手は鳴り止まない。男の頭はますます深く前へ傾き、背は曲がり、身長さえ縮んで見えた。

 聞こえていないのだ。この、割れるような拍手と、熱い称賛の声が、彼には、何ひとつ。

 たった今、人生で9つ目の交響曲の初演を終えた男は、耳を塞ぐ完全な沈黙の中、己の失敗を確信し、怯えていた。


 アルト歌手の一人が、指揮台まで進み出た。

 彼女は男の手を取り、優しく後ろへ振り向かせた。

 固く閉じていた男の瞼が開いた。

 彼は、狂喜する聴衆を見た。

 その目から、涙がこぼれた。







 「おい、待てよ」

ケルントナートーア劇場(ウィーンにあった歌劇場。貴族や庶民など、あらゆる階層に開かれていた)を出て歩き始めた少年を、もう少し年かさの、黒髪の少年が呼び止めた。

「待てったら!」

後ろの少年は、先を歩く少年の腕を、ぐいとつかんだ。


 はずみで、被っていた深緑色のケープが、ずるりと外れた。豪華な金色の髪がこぼれ落ちる。

 黒髪の少年は、息を呑んだ。


 「……」


 少年は、無言で、黒髪の少年を睨んだ。薄青色の、鋭い目だ。きつい目線に、黒髪の少年は、わずかに気圧されたようだった。

 だが、彼の憤慨は、大きかった。一気にまくしたてた。


「君、演奏が終わらないうちに、ホールを出ていっただろう。あんな素晴らしい演奏を! 一生に何度聞けるかわからない……、それなのに、途中で退出するなんて、一体君は、何を考えてるんだ?」


「『交響曲第9番』は、終わったろ?」

金髪の少年はつぶやいた。声変わり前の、澄んだ声だった。


 黒髪の少年は、激高した。彼の声は、すでに低く変わっている。

「終わってない! 神の降臨の如き素晴らしい音楽には、余韻が必要なんだ! アンコールまでちゃんと聴いて行け!」


「聴いた」

「はっ! 君には、あの怒涛のような拍手が聞こえないのか? アンコールはまだまだ続く! 素晴らしい演奏には、当然のことだ!」


「アンコールは、すでに2回、行われた。3回以上の追加を求めて、喝采することが許されるのは、皇帝に対してだけだ」

金髪の少年は、乱暴に相手の手を振り落とした。黒髪の少年を見て、不敵に笑った。

「ここにいるってことは、君だって、拍手の途中で劇場を出てきてるってことじゃないか」


「僕は、いいんだ。僕は、何度も練習を聴かせてもらってるから。リハーサルも聴いた。だから……」

言葉とは裏腹に、残念そうな色が、黒い瞳に浮かんだ。金髪の少年の目に、憐れみが浮かんだ。今までとは打って変わった、深い共感に満ちた優しさが覗く。

「気の毒に。入場料が払えなかったんだな」


「違う! 変な同情をするな!」

奮然と、黒髪の少年は、叫んだ。

「一人でも多くの人に、新しい交響曲を聴いてもらいたかったからだ! 僕の席を譲ってでも、他の誰かに、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽を、楽しんでもらいたかったから、」

「僕は、軍のラッパと鼓笛隊以外、音楽には魅力を感じない」


 黒髪の少年は、目を丸くした。

「なんだって? 君の耳はおかしいのか。あの素晴らしい楽曲と、……よりによって、軍のラッパだって? そんなの、騒音以外の何ものでもないじゃないか」


「うちの家庭教師と同じことを言う」

じろりと金髪の少年は、相手を睨んだ。

「さてはお前、年寄りの気難し屋だな」

「とっ、年寄りっ?!」

「石頭とも言う」

「俺はまだ、14歳だっ!」


「なんだ。僕より1歳上なだけか」

金髪の少年は、露骨に相手を眺め回した。

「随分、老けてるね」

「余計なお世話だ!」


「あっ!」

不意に、小さな叫びをあげた。

「ほらみろ、見つかっちゃったじゃないか。。お前のせいだぞ! 責任をとってもらうからな」


じろりと相手を見た。

「うん、ちょうどいい。その帽子を寄越せ!」

「ちょうどいい? ちょうどいいって、なんだよ……」


 相手の言うことに耳を貸さず、金髪の少年は、飛び上がった。自分より背の高い頭から、帽子を奪い取る。

 黒髪の少年は、思わず、帽子のなくなった頭を抑えた。

「わっ! 何をする!」


 金髪の少年は、満足そうに笑った。そして、帽子の、みすぼらしい生地が破れそうになるほど、深く被った。

「代わりにこれをやる」

肩まで落ちていたケープを脱ぎ捨て、相手の頭に被せた。

「よく似合ってる。髪と顔が見えないところが、素晴らしい」

そう言うと、上着の襟を立て、自分の顔を隠した。


「なんだよ、その失礼な言いぐさは!」

「言葉通りさ。後は頼んだ」

立ち去りかけ、振り返った。

「お前、名は?」


「アシュラ・シャイト」

思わず答え、黒髪の少年は地団駄踏んだ。

「お前、それ、人の名前を聞く態度じゃないだろ。まず最初に名乗るのが礼儀ってもんだ!」


すると、無表情なまま、金髪の少年は答えた。

「フランソワ」

「きれいな響きだな。フランス人か?」

「……」

青い目に、色のない表情を浮かべ、金髪の少年は、じっとアシュラを見つめた。

 不意にくるりと後ろを向いて、無言で立ち去っていく。


「お、おい、ちょっと待て……」

頭からケープを被ったまま、アシュラは、帽子を奪った少年を追おうとした。



 「殿下!」

そこへ、二人連れの男が駆けてきた。

「またお一人で抜け出されて! 出し物の途中で!」

丁寧な言葉とは裏腹に、男の一人が、乱暴な仕草で、ケーブを被った少年の進路を塞いだ。


「あっ!?」

「お前っ!」

ケープの下から覗く顔に、男たちは仰天した。

「いつの間にっ! そのケープはどうした!」

「ことと次第では、タダじゃ置かないからな!」

血相を変え、口々に叫ぶ。


 「いや、ちょっと、」

両側から腕を捕まれ、アシュラは身を捩らせた。

「帽子と取り替えただけだってば! ちょっと! 離してくれよ!」




 劇場から、聴衆が、外へ出てきた。

「軍の兵士が入っていたとはな」

「これ以上のアンコールは、皇帝への不敬になるそうだ」

「拍手もだめ、万歳もだめ。演奏したら、楽団もだめ」

「ただでさえ、ベートーヴェンは、官警から目をつけられてるからな」

口々に話している。


 不満顔で外に出てきた人々は、新たな見ものお楽しみに、好奇の目を輝かせた。

 高価そうなケープを被った少年が、二人の官吏に取り押さえられている。

「万引きかな」

「バカだな。こんな人目のあるところで」


 大勢の人が見守る中、アシュラは、二人の屈強な男に引っ立てられていった。


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