ナポレオンの息子だから 1


 「医師には、本当のことを言った方が、いいのでは?」

シュタウデンハイム医師が帰り、侍従も部屋を出た後、アシュラは言った。

 「あなたは、毒を飲まされたのです。恐らくそれに、ナポレオンの解毒剤が、効いたんだ」


「解毒剤? 父上の? 何、夢のような話をしているんだ?」

「本当の話です! あの丸薬は、ナポレオンが、チュルリー宮殿の、ルイ18世のテーブルから持ち帰ったものです。ナポレオンは、あれが、ブルボン家の毒薬の、解毒剤であることを知っていたんだ!」


「そんな突拍子もない話……、だいたいお前は、なんだ! 急に僕の前から姿を消して!」

その声に含まれるある響きに、はっと、アシュラは胸を衝かれた。

 ……寂しさ? 弱さ?


「フランスへ行っていました」

静かな声で答えた。


「フランス! だって!?」

「今まで、私は、パリの大使館に行っていました。父上があなたに遺された遺品を調べに行っていたのです。殿下。貴方は知っている筈だ。『息子が16歳になったら、彼に渡すように』……。ナポレオンがそう言って、遺言執行人を指名したことを」


 フランソワはうつむいた。

 身の回りの誰からも、教えられることは、なかった。ナポレオンの遺書を、彼は、印刷された本で読んだ。


 かすれた声で、彼は言った。

「く……詳しく話してくれないか? 父上の残されたものは、どんなだった?」


 フランソワの具合は、すっかり良くなっているように見えた。

 頬は元通りバラ色に戻り、唇も、ぷっくりと、瑞々しく戻っている。

 青い瞳が、切望するように、アシュラを見ていた。



 武器。衣類。洗面用具。

 メダル、双眼鏡、時計。

 銀の食器。磁器。

 馬具。

 本。

 思い出せる限り詳しく、アシュラは、ナポレオンが息子に残した品々を語った。



「第一侍従のマルシャンが託された、3つのマホガニー製の収納箱のひとつに、武器や小型望遠鏡なんかと一緒に、4つの小箱が入っていました。箱には、覚書がついていました。1815年3月20日に、テュルリー宮殿の、ルイ18世のテーブルの上から持ち帰った、と」



 ナポレオンがエルバ島を脱出し、パリに入城した日だ。

 臆病なルイ18世は、いち早く、国外へ脱出していた。



「パリの大使館で、私は、その、4つの箱を調べました。3つは空でしたが、最後の箱に、たった一粒だけ、丸薬が残されていたんです」


「空箱が3つ……」

 フランソワの目が、冥く沈んだ。

「そんなに頻繁に、父上は、毒を盛られたんだろうか。それなのに、最後のひと粒を、僕に残してくれた……」

「……!」


 アシュラは、そんなことは、考えもしなかった。箱が空なのは、最初からだと思っていた。

 だが、フランソワは確信を持っているようだった。


「3つの箱の中身は、飲み尽くされていたんだ。だから、空だった」

「じゃ、ナポレオンの死は……」

「僕を殺そうとするくらいだ。当然、父上は、邪魔な存在だろう。まず、第一に、父上を殺そうとするさ。でも」


目の青さがぼやけた。

「伝えられているように、父上の死は、胃癌のせいだったと信じたい。そして、僕も、父上と同じ病で死にたい……」


「あなたは、戦場で死ぬのでしょう!」

たまらなくなって、アシュラは叫んだ。

「あなたは軍人だ。小さい頃から、軍事訓練を受けてきた。低い位のままなのに、とても熱心に、頑張ってきたじゃないですか!」



 11歳で軍曹になったきり(正式にはその翌年から)、フランソワは、一度も昇進していない。

 それでも黙々と、フランソワは、軍務に励んできた。もちろん、理論だけではなく、体を酷使する教練もある。



 なおもアシュラは、言い募った。

「それにあなたは、ベートーヴェンに言った筈だ。……国を守って死にたい、と!!」



 1818年、グラーツの城に招かれたときのことを、ベートーヴェンは、アシュラに語ってくれていた。


 7歳のフランソワは言った。

 ……『英雄』は、戦争で死ななければならない。自ら盾となって、祖国を守るのです。僕は、そういう風になりたいと思っています

 ……父がやりたくてもできなかったことを、僕がやります。



「僕の軍服は白い(注:オーストリア兵の軍服の上着は白)」

 絶望的な眼差しを、フランソワはアシュラに向けた。

「だが、僕は、父の遺訓を守る」



 ……決して、フランスと戦ってはならない。どんなことであれ、フランスを傷つけることなかれ。父の座右の銘を、心に刻んでおくように。



「僕は、フランスとは戦えない」



 ……全ては、フランスの人々のために。


 これは、ナポレオンの常套句だったという。

 それが、彼の本心だったのか、あるいは、単なる人気取りだったのかは、わからない。

 だが、息子への遺書に、ナポレオンは、この言葉を書き記した。

 しかしこの父は、2歳の息子までしか、知らない。息子が、どのような環境で、どういう人間に育ったか、全く無知だった。


 ……全ては、フランスの人々のために。


 父が残した言葉が、今、フランソワを、がんじがらめにしている。

 フランスと、オーストリアの間で。

 父の国と、母の国。

 生まれた国と、育てられた国の間で……。

 彼は、身動きがとれない。


 そして、フランソワをこのような状態に陥れたのは、他でもない、ナポレオン自身だ。



 アシュラは、見ていられなかった。

 傲慢で、一途で、生意気で……。

 それがフランソワであった筈だ。

 それなのに、今の彼は、気力を失って、打ち沈んでいる。


 アシュラは、立ち上がった。

「とにかく、毒の可能性を、シュタウデンハイム医師に進言してきます。宮廷警護にも報告して、一層の警戒を……」

「お前は馬鹿か!」


 久しぶりで、フランソワから、「馬鹿」と呼ばれた。

 心なしか、青い目に生気が戻ったように見える。


「そんなことしたら、お前が、パリの大使館から丸薬をくすねてきたことが、バレるだろ? 父上の遺品は、なにひとつ、僕に届けちゃいけないんだ。そういう風に、決まっている。それなのに、父上の遺した丸薬を飲ませたなんてことがバレたら、……お前、僕の密偵を、クビになるだろ?」


「構いません」


「いや、僕が困る。後釜に、どんな奴が来るか、わかったもんじゃないからな。どうせ、メッテルニヒの息のかかった奴が来るに決まってる」

「そんなことをおっしゃられましても。私だって、秘密警察官ですよ? ざっくり言えば、メッテルニヒ侯の下で働いてます」

「だが、少なくともお前には、ベートーヴェンの推薦があった。シューベルトという音楽家も、推していた」










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