ナポレオンの息子だから 2
フランソワは、すっかり元気を取り戻していた。
「それにお前、僕に、あんなことを言っておいて、タダで済むと思っているのか?」
「あんなこと? どんなことです?」
フランソワは、顔を赤らめた。
「さっき、僕が苦しかった時に、お前は言った。これ以上悪くならない、とか」
「ああ!」
アシュラは、ぽんと手を打った。あの時のことについては、彼の方でも、言いたいことがあった。
自分の顎をくいと上げ、窓からの光に
「ほら、ここ。殿下が引っ掻いたんです。殿下だって、私のことを、ぶったり蹴ったり、やりたい放題だったじゃないですか」
「お前は、僕に、
「急いでたんです! 丸薬に付いた埃を払う余裕はありませんでした!」
「その上、僕の唇をつねって、」
「貴重な解毒剤を吐き出させない為です!」
「お前、言ったぞ。丸薬を飲んだら、何でも言うことを聞くって」
「え? そんなこと、言いましたっけ?」
アシュラは、きょとんとした。
まるで覚えがない。
苦しんでいるフランソワを見て、なんとかしなければと、その一心だった。ただただ、夢中だった。
フランソワは、重々しく頷いてみせた。
「言った。もし丸薬が毒だったら、死んでお詫びをするとも言ってた」
「嘘でしょ……」
「嘘なものか。とにかく、」
フランソワは、ベッドの上に起き上がった。
「僕はお前を信じて、丸薬を飲んだ。だから、お前は、僕の言うことを、何でも聞かなくちゃならないんだ。お前は、密偵を続けろ。クビになるようなことは、しゃべるな」
アシュラはためらった。
「せめて……せめて、厨房に、毒物混入の注意喚起を。もちろん、怪しい人物がいなかったかどうか、調査もしなければなりません」
「ダメだ」
「殿下。無気力も大概になさい」
アシュラも負けてはいなかった。
「このまま自分が黙っていれば、ことは穏便に済むと思ったら、大間違いですよ。敵は必ず、次の機会を狙ってきます。ブルボン家にとって、あなたは脅威なんです。あなたが生きている限り、彼らは決して、安心することができない。あなたがいては、邪魔なんです」
「……邪魔」
「特に、皇太子妃……アングレーム公妃は、ひどくあなたを嫌っているらしいと、モーリツ・エステルハージが言っていました。なぜならあなたは、彼女が実の子どものようにかわいがっている
「ひどいことを言う」
ぼそりとフランソワが言った。
「僕は、そんなにも憎まれているというのか? 会ったことさえない人たちから?」
「……」
アシュラははっとした。言い過ぎたと思った。だが、一度口から出た言葉は、取り戻せない。
「あなたのせいじゃない。あなたの父親のせいです」
なおも言葉を重ね、アシュラは墓穴を掘った。
「父の悪口は言うな」
きつい声が、低く飛んできた。
睨みつけている顔は、血の気を失い、唇が震えている。
「父を憎む人がいることは、僕だって知っている。だが……」
フランソワは言葉を切った。
ためらいがちに続けた。
「アングレーム公妃は、僕と似ている。少なくとも彼女が、理不尽な仕打ちを仕掛けてくるとは、思えない」
「似ている? あなたとブルボンの皇太子妃が? 何言い出すんですか? 頭に虫が湧いたのと違います?」
「黙れ、アシュラ。お前にだってわかるだろう? 辛い思いをして生きてきたなら、人を自分と同じ目に遭わせようなどとは、金輪際、思わないものだ」
「お人好し!」
アシュラは叫んだ。
「そうじゃない人だって、たくさんいます。むしろ、そっちの方が、多いくらいだ!」
「でも、お前は違う」
青く澄んだ瞳が、じっと、アシュラの黒い目を覗き込んだ。金縛りにあったように、アシュラの体が固まった。
少なくともアシュラは、人を自分と同じ不幸に引きずり込もうとは思わない。だが、人からひどい仕打ちをされると、つい、瞬間的に、その人の不幸を願ってしまう。
決して、フランソワが言うような、上等な人間ではない。
その自覚がある。
……いい人でありたい。この人に、認められたい。
だがなぜかこの時、青い目に引きずり込まれるように、強く、そう思った。
「
ためらった末、しぶしぶ、アシュラは答えた。
「……ええ、まあ」
「つまり、アングレーム公妃が、解毒剤の存在を教えてくれたわけだ。それは彼女が、親切だからだ。彼女は僕に、毒を盛ったりはしない。それに……」
青い目が煙った。
「ブルボン家の人たちは僕を恐れていると、お前は言うが、それは、間違いだ。僕には、何の力もない。ウィーンから出ることさえ許されない。そんな僕を殺して、何になるっていうんだ? 僕は、彼らに、毒を盛られたなんて、思えない」
「殿下!」
……この人には、自信がなさすぎる。
アシュラは思った。
……私達は待ち望んでいるのだよ。ナポレオン2世が、この国に帰ってきてくれることを!
パリで出会った、ユゴーという男の言葉が、耳元で蘇る。
フランスは、明らかに、彼を、待ち侘びている。
彼らの存在を、フランソワに伝えることができたら、どんなにいいか!
強く、アシュラはそう思った。
彼らのをこと話すのは、明らかな職務違反だった。アシュラは、彼らのような存在を、プリンスに近づけないために、配属されている。
もちろん、アシュラは、政府のイヌなどではない。
もっと悪い。
彼は、フランソワの……自分を救ってくれる魔王の為なら、なんでもするだろう。アシュラが誠実でないのは、フランスのナポレオン支持者に対してだけではない。最後の土壇場で、
……いつの日か必ず、彼を迎えに行く。そのことを、殿下に、伝えてくれないか。
今はまだダメだ、と、アシュラは自分を諌めた。
フランソワの食事に、毒を盛った刺客がいる。そいつを、捕まえ、黒幕を白状させ、排除するまでは。フランソワの身の回りから、ブルボン家の脅威を、完全に取り除くまでは!
彼にユゴーやエミールら、フランスの期待を告げるのは、あまりに危険過ぎる。
決然と、アシュラは言い放った。
「私は、全く、賛成ではありません」
アシュラの考えの流れについていけず、フランソワは、きょとんとした。
「何?」
「あなたがフランスに帰ることです」
「……」
フランソワの目の色が、すうーっと白くなった。
アシュラには、確かに、そう見えた。
冷たく、彼は言った。
「わかっているよ、そんなこと」
アシュラには、納得できなかった。フランソワが理解しているとは、とても思えない。なおも、彼は、言い募った。
「フランスのやつらこそ、あなたを、あなたとして見ていない。『ナポレオンの息子』としか、みていないんだ」
「そうだ。僕は、ナポレオンの息子だ」
煌めく瞳をアシュラに据え、フランソワは答えた。
*
……自分の価値も知らないで。ナポレオンの息子だからじゃない。人は、彼自身の魅力に、惹かれるんだ。
……
鬱勃とした怒りを胸に、アシュラは、フランソワの部屋を出た。
「アシュラ・シャイタン」
宮廷在留の官吏に呼び止められた。
「早馬が来ている。お前宛だ」
「早馬?」
秘密警察の本部からだろうと、アシュラは思った。緊急の事件が起きて、人手が足りなくなったとか?
くるくると巻かれた紙の、中央を結んであった紐を解いた。筒状の紙の、端を持って振る。
白い紙面には、要件のみが簡潔に書かれていた。
「
宮廷資材横領の件は、捜査終了に付すべし。
これ以上の調査を禁ずる
」
ライヒシュタット家の薪が、黴たものとすり替えられた件だ。
署名を見て、アシュラは驚いた。
優雅な飾り文字で、宰相メッテルニヒの名が、記されていた。
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