一目惚れ
ウィーン郊外。ドナウ川と運河に挟まれた、レオポルシュタットの大通りを、アシュラは歩いていく。南が、プラーター公園に続くこの辺りは、休日には、ピクニックへ行く、大勢の人々で賑わう。
レオポルシュタットの北には、ブリギッテナウが控えている。ここで行われるイベントは、5月1日の、聖ブリギッテの祭日だ。よほどの重病人でない限り、ウィーン市民の大半が出かけていくという。
聖ブリギッテの祭日には、怪しげな興行や見世物小屋が建ち並び、サルやイヌが、やんやの喝采を浴びて、芸を披露する。サーカスや巡回動物園もやってきて、いずれも、大入り満員だ。手回しオルガンや、流しのヴァイオリン弾きの奏でる調べが、どこからともなく漂い、チロルの娘たちが、スカートを翻して、くるくると踊る。
ドナウ河畔、南にプラーター、北にブリギッテナウに挟まれた地区が、レオポルシュタットだった。
アシュラは、レオポルシュタットの、カフェやレストランが立ち並ぶ表通りを歩いていた。街角の、樽の看板を目印に、裏通りに入った。途端に、生活感あふれる景色が、目に飛び込んできた。
路上には小さな子どもたちが走り回り、建物で狭く区切られた空には、洗濯物が、満艦飾に翻っている。
シャラメ書店は、その一画にあった。
小さな書店だ。表に出したブックスタンドがなければ、ただの住居だと間違われかねない、地味な店構えだった。
フランスで会った、ユゴーが言っていた書店だ。エミールや自分と連絡を取りたかったら、この書店を通すように言った。
よもや、ここに来るとは、アシュラ自身、思ってもいなかった。
フランソワを、フランスになんか、返したくない。フランスには、彼を殺そうとする
それに、……。
……その顔さえ知らない、アシュラの、生物学上の父は、あの国からやってきた……。
……。
フランスなんか、大嫌いだった。
だが、背に腹は変えられなかった。
……。
グラーツでのフランソワの「思春期の病」は、毒のせいだと、彼は確信していた。
フランソワは、毒を盛られた。
だから、パリから持ち帰った、ナポレオンの解毒剤が効いたのだ。
ナポレオンが、息子に残した丸薬は、ルイ18世のテーブルからぶんどってきたものだという。4つの箱のうち、3つは空だった。4つ目の箱に、たったひとつ、残っていたのを、アシュラが持ち帰り、フランソワに飲ませた。
……
そんな風に、アシュラは思っている。
ただ、毒を盛られたとすると、その方法がわからない。
アシュラは、厨房の監視を始めた。
チェック体制は、完璧だった。常に、チームを組んで作業に当たり、相互監視が行き届いている。
同じことが、盛り付け、運搬にもいえた。
若い運搬係のルカスもまた、同じような年齢の青年と組んで仕事をしていた。
厨房付近で、ふらふらしているスパイの姿は、そこで働く人々の耳目を引いた。
だが、毒殺未遂というアシュラの意見は、あり得ないことと、鼻で笑われた。中には、本気で怒り出す者もいた。危うく、彼は、厨房付近に、出入り禁止になるところだった。
そのアシュラに味方してくれたのは、意外なことに、モーリツ・エステルハージだった。
大貴族の、不良息子である。
気まぐれなのか暇なのか、彼は、アシュラの捜査に付き合ってくれた。
いくつかのことがわかった。
・昨年春の皇帝の病気も、毒を用いられた可能性がある。
・今回のグラーツには、ホーフブルク宮殿から、2名の応援が来ていた。フランス料理担当の料理人、オッフェンバックと、運搬係のルカスである。
・オッフェンバックは、長いこと、宮廷の料理人を務めていたが、つい最近、職を辞した。どこかへ引っ越し、住居は空き家となっている。
ここまでだった。
これから先へ行けない。
毒を盛った方法が、わからない。
しかし、このままにしておくわけにはいかない。フランソワのことが心配だった。自分は、そういつもいつも、厨房に張り付いて、料理人を監視しているわけにはいかない。
アシュラと同じく、フランソワの監視と護衛を務める3人の
暗殺の事実などなかったと、政府から通達が来たからだ。
宰相メッテルニヒが、そう言ってきたから。
……それなら僕が、カール大公に相談してくる。
モーリツは言った。
なぜここに、
しかし、モーリツには、何か、確証があるらしかった。
モーリツは、カール大公と話しに行って……そして、洗脳されて帰ってきた。
……ブルボン家の仕業ではないよ。だから、フランス料理担当のコックが辞職したのは、偶然だ。医者の言う通り、そもそもこれは、毒ではないのかもしれない。
……。
「ふざけるな!」
その時のことを思い出し、思わず、アシュラは、毒づいた。
「別にふざけてなんかいないわ」
直ぐ側で声がして、思わず飛び上がった。
ストロベリーブロンドの髪の、小柄な娘が立っていた。暗緑色のスカートに、縁飾りのないエプロンをつけている。アシュラより2つ3つ、年下に見えた。
「あなたこそ、うちの店の前で、何をしているの?」
「……」
「ねえ?」
「ぼぼ、僕は……」
思わずアシュラは口ごもった。
彼女に見惚れていた自分に気がついたのだ。
すっかり度を失い、彼は、口走った。
「僕は、フランスのユゴーさんと連絡を取りたくて……」
「しっ!」
少女は、前歯と舌をこすり合わせ、鋭い警告音を出した。きょろきょろと辺りを見回す。近くいる人はいなかった。
「入って」
がらがらと店の扉を開けた。
「え?」
「いいから、入って!」
アシュラの背を押し、店の中に押し込んだ。
*
「ほほう。それで君は、ユゴーに料理人を探すように、と」
店主のシャラメはそう言うと、大きく頷いた。
薄い金髪のこの男は、
「ユゴーなら、きっと見つけてくれるわ。彼は、とても顔が広いもの」
アシュラの前に、湯気の立つカップを置きながら、さっきの少女が言った。
「23歳で、レジオンドヌール勲章を貰ったのよ!」
「勲章!? そんな凄い人だったのか!」
パリ郊外の古い町で会ったユゴーという男は、傲岸不遜で、みすぼらしいなりをしていた。とてもじゃないが、そんな偉い人には見えなかった。
「……えと、君は」
どちらかというと、アシュラは、少女の方が、気になった。
「私は、エオリア。
「エオリア……」
かわいい名前だと思った。フランス風の響きが、こんなに愛らしく聞こえるとは、意外だった。
「どうしたの? 黙り込んで」
「いや……えと、その、君とパパは、あまり似てないね」
「小柄なところがそっくりだって言われるけど!」
エオリアは笑った。本に囲まれて、シャラメも苦笑している。
「ユゴーに関しては、娘の言うとおりだ。その上、彼は、熱烈なボナパルニストでもある。ローマ王の為なら、きっと、素晴らしい料理人をみつけてくるだろう」
モーリツが翻意してからも、アシュラは、厨房回りを探り続けた。
だが、一人で見張るには、限度がある。それに、アシュラが毒殺を疑っていることは、厨房スタッフにも知れ渡っている。彼が見張っている時には、ことを起こさないだろう。
専属で、監視をしてくれる人が、必要だった。
オッフェンバックが辞めて、ちょうど、フランス料理の料理人に、空きが出た。
フランス料理 → フランス → ユゴーとエミール、
と、アシュラの中で、繋がった。
ユゴーとエミールが探してくる人なら、信用できるのではないか。ナポレオンに心酔している人間なら、よもや、その息子に害をなそうとはするまい。
新しい料理人を宮廷に押し込む役は、モーリツに引き受けてもらおう。
そこまで、アシュラは考えていた。
父親のシャラメが、暗い目をした。
「それにしても、ローマ王暗殺計画なんて……。あの方も、数奇な運命を背負っておられる……」
「父親の負債を償わせようなんて、絶対に、ダメです」
強い口調で、アシュラは言った。
「彼は、ナポレオンとは、別の人間なんです」
シャラメとエオリア父娘が、目を見合わせた。
「私達は、ローマ王に期待している」
シャラメが言った。
「それは、彼が、ナポレオンの息子だからだ」
「その考え方、間違ってます。フランスは、彼に、何をしてくれましたか? 反対に、彼を排除しようとしているじゃないですか。今回の毒だって、
シャラメが眼鏡を押し上げた。
「見たところ、君も、生粋のドイツ人というわけではなさそうだが?」
「フランスの血を引いています」
短く、アシュラは答えた。
「けれど、そのことは、考えたくありません」
「君とは、もっとよく、話し合う必要があるな」
そっと、シャラメはつぶやいた。
「ねえ、あなたは、ローマ王のことをよく知ってるの?」
エミリアが寄ってきた。
「彼は、どんな人なのかしら? かっこいいって、評判だけど?」
「普通の男子ですよ。普通の、16歳の、男子です」
アシュラは答えた。
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