ナポレオンがルイ18世のテーブルから持ち帰った物


 プリンスは眠っていると、近侍の従者は言った。

 それでも、アシュラは、フランソワの部屋へ行った。

 顔が見たかったのだ。


 ……会ったからって、ただいま、なんて言える立場じゃないし。

 ……なにせ、俺は、彼のスパイだかな。

 眠っているのならちょうどいいと、アシュラは思った。

 今日は顔だけ見て、そのまま、監視体制しごとに入ればいいのだ。



 プリンスの居住区のある棟についた時、階段の上から、ばたばたという足音が聞こえた。

 侍従が、ものすごい勢いで、階段を駆け下りてくる。

 「大変だ!」

最後の数段を、殆ど転げ落ちるようにして、侍従は、階下に着地し、転んだ。

 いつもは、物静かな、中年の男である。


「いったい、どうしたっていうんですか?」

侍従を助け起こし、アシュラは尋ねた。

「プ、プリンスが……」

「プリンスが?」

「ひどく苦しんでおられて」

「えっ!」

「医者を!」

殆どろれつの回っていない声で叫ぶと、従者は、走り去っていった。




 フランソワは、ベッドの上でのたうち回っていた。

「苦しい」

かすれた声で叫ぶと、喉をかきむしった。

「殿下……」

 アシュラはぞっとした。


 ベッドの上で吐き散らし、喉をヒュウヒュウ鳴らしているフランソワは、明らかに、普通ではなかった。

 アシュラの膝頭が細かく震えた。心臓が、喉元までせり上がってきて、乱打する。


「あしゅら……苦しい」

 口から、緑色の液体が吹き出た。


 ……喉を詰まらせたらダメだ。

 アシュラは思った。

 ……とにかく、息を確保しないと。


 何をやるべきかわかると、体の震えが止まった。

 アシュラはうつ伏せに倒れ込もうとしたフランソワの体を掴んだ。

 力ずくで上半身を起こし、ベッドの柵にもたせかけた。

「直立してなければダメです。吐いたものが喉に詰まってしまう。息ができなくなってしまう!」

「苦しい。苦しいよ、アシュラ」

少し、声が、声らしくなった。


 だが、依然として、のたうち回ることをやめない。

 アシュラの腕の下で、フランソワは、激しく暴れた。

「殿下! 動かないで!」

 アシュラの声など、聞こえていないようだ。

 両手を振り回し、アシュラの束縛を逃れようとする。


「ちょっと、殿下!」

 右手がアシュラの顎をこすり、ひっかいた。

 思わずのけぞったところを、下から、左足で蹴り上げてくる。


「静かになさい! 殿下! 殿下ったら!」

 今度は右膝が、鳩尾みぞおちに当たった。ぐっと息がつまった。思わず、押さえつけた両手を放しそうになる。


 もはや、アシュラ自身、声も出ない。

 無言で、必死になって、フランソワを押さえつける。


 叩きつけられてくる左手を、体を左に捩って避けた。その拍子に、アシュラの上着がめくれた。丸めたハンカチが、ポケットからこぼれ落ちる。


 「あ」

 ハンカチの中には、フランス大使館から持ち帰った丸薬が入っている。

 その丸薬は、ナポレオンがルイ18世のテーブルから持ち帰ったという小箱の中から、失敬してきたものだ。



 ……彼ら自身も、また、敵に毒を盛ることを、決して躊躇わないだろう。

 ……アングレーム公妃もね。

 モーリツの手紙が、脳裏に甦った。

 ナポレオンが、ルイ18世から、何かを盗んだと、アングレーム公妃は、モーリツに言ったという。

 それによりナポレオンは、息子を守ることができる……。



 ……これだ!

 アシュラはハンカチの包みに飛びついた。

 一瞬遅く、ハンカチーフは、フランソワに蹴り飛ばされ、ベッドの下に落ちた。


「殿下! じっとしてて」

アシュラは叫んだ。


 転げ落ちるようにベッドの下に這いつくばり、ハンカチを探す。幸い、しわくちゃの布は、すぐ目の先にあった。落ちた衝撃で結び目が解け、中の丸薬がこぼれ出ていた。丸い粒は、転がって、ベッドの下の埃の中にあった。埃ごと拾い上げた。


 夢中だった。


「殿下! 薬! これ、きっと、解毒剤です!」

アシュラは叫んだ。


 フランソワは、うつ伏せに倒れ込んでいた。

 髪を掴むようにして顔を起こすと、真っ青なその頬を叩いた。

「これ! これ、飲んで!」


 低い唸り声が聞こえた。

 意識が混濁してる。

 これでは、飲ませることができない。

 ベッドの脇の水差しを、アシュラは取り上げた。

「間違いない! これは、解毒剤です。ブルボン家の解毒剤なんだ。だから殿下。飲んで!」


 水差しの水を、口に含ませようとした。水とともに、飲ませるのだ。

 だが水は、容赦なく、口の端からこぼれ落ちていく。


「たとえこれが毒だったとしても、殿下の容態は、これ以上、悪くなりゃ、しませんから!」

「……」

「飲んで下さいよう。違ってたら、死んでお詫びをしますから! 何でも言うことを聞きますから!」

「……」

「殿下! これ、お父さんの残した解毒剤ですよ! ナポレオンの、遺品です!」


「ちちうえの……?」

うっすらと青い目が開いた。


 すかさずアシュラは、手に握っていた埃まみれの丸薬を、フランソワの口に押し込んだ。

 もう一度、水差しの水を流し込む。

 喉仏が上下に揺れた。


「よし!」


 不意に、フランソワが咳き込んだ。その唇を、アシュラは両手でつまんだ。

「吐かないで! ナポレオンの遺品です!」


ぐっと飲み下すのがわかった。





 馬車に乗って帰りかけていたシュタウデンハイム医師を連れ、侍従が戻ってきた。

 フランソワは、すっかり平静に戻っていた。


 「毒だと? 馬鹿な!」

アシュラの訴えを、医師は一蹴した。

「毒を飲まされたのなら、そんなに短時間に、症状が治まるわけがない!」

「それは、解毒剤を飲ませたから……」

言いかけたアシュラの背中を、ベッドの中からフランソワがどんと小突いた。怖い目で睨む。


「毒とは申しませんが、さっきまで、殿下のお加減はひどくお悪く……」

医師の背後から、今度は、侍従が口を出した。

「この人たちは、大袈裟なんです、先生」

遮るようにフランソワは言った。

「僕は、ちょっと気分が悪かっただけなんだ。それも、すっかり良くなりました」


「ふむ。脈は安定している。顔色もいい」

フランソワの手を放し、医師は言った。

「だが、油断はなりませんぞ。去年、皇帝が、病に罹られた時は、夜中に、重篤な症状になられましたからな」


 ……ルカスが皿を運んだ時だ!

 アシュラははっとした。


 フランソワが、首を傾げた。

「お祖父様? なぜここで、お祖父様の話が? 思春期特有の、誰でもなる病気なんでしょ?」


「いや、」

ごほんと、医師は咳払いをしてみせた。

「最初、症状が似ていると思ったのです。でも、殿下のは、やはり、思春期特有の、神経の乱れでしょう。少し眠られたから、具合が良くなったのです」


 何かあったらすぐに呼びに来るようにと言いおいて、シュタウデンハイム医師は、帰っていった。

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