思春期特有の病



 つめたく冷やしたスープに、2匙、3匙、口をつけ、フランソワはスプーンを置いた。サラダには、手もつけようとしない。

「どうしたの、フランソワ」

向かいの席に座っていた皇妃が尋ねた。


 食卓についていたのは、皇妃とフランソワの二人だけだ。


 フランソワが顔を上げた。真っ青な顔をしている。

「少し気分が……」

「まあ、大変」

「いいえ、お祖母様。大したことはありません」

「でも、お顔の色が悪いわ。少し休んでいらっしゃいな」

「お言葉に甘えて、中座します。申し訳ありません、皇妃様」


 ふらりと、フランソワは立ち上がった。

 だが、テーブルの前に立ったまま、動こうとしない。眉間を抑え、うつむいている。

「大丈夫? フランツェン?」


「だい、」

言いかけて、今度は、口を抑えた。

 ふらふらと、よろめくように、フランソワは、食堂を出ていった。





 新しくライヒシュタット公の侍医に就任したシュタウデンハイム医師は、首を傾げた。


 吐き気。

 目眩。

 これらに伴う、一般的な衰弱。


 症状は激烈ではない。

 思春期の一過性の不調であろうと、思った。


 だが。

 ……似ている。


 昨年3月に、皇帝が罹られた病と、そっくりなのだ。

 悪心を訴えられた皇帝は、熱もなく、始めは、たいした病気ではないと思われた。

 だが、3月13日から14日の晩にかけて重篤となられ、死線を彷徨われた。

 幸い、半月ほどで病は癒えたが、一時は、最悪の事態も予想された。


 ……もしや、ライヒシュタット公も、同じ病に?


 遺伝性の病であったなら、祖父と孫とで、同じ病に苦しむこともありうる。

 公は、皇帝よりも遥かにお若いが、油断はならない。



 「ご心配には及びません。思春期には、よくあることです」

 安心させるような笑みを、医師は浮かべた。

 若い公爵は、青白い顔で頷いた。


 今のところ、なんとも言いようがない。

 本当に思春期特有の不調かもしれないし、あるいは、皇帝と同じ病かもしれない。

 シュタウデンハイムは、悪心を抑える薬を処方した。

 しばらくは、対処療法で、様子を見るしかない。





 「よう、アシュラ、久しぶり。この頃、見なかったな」

 グラーツの城の中庭では、顔見知りの従者が、割れた皿を片付けていた。


 ルカスという名のこの従者は、厨房付きの若者である。

 厨房と食堂の間を、料理を運ぶ仕事をしている。



 温かいものを温かいうちに。

 冷たいものを、冷たいうちに。

 料理運搬係には、重いものを運ぶ体力と同時に、機敏な動作が要求される。

 ルカスのような若者でなければ務まらない仕事だ。


 ルカスは、アシュラと年齢が近かった。

 アシュラが秘密警察官だというのは、従者達の間に、知れ渡っていた。

 アシュラ自身、隠すことはしなかった。また、ライヒシュタット公にも、なんとなく、スパイの存在を受け容れている雰囲気があった。


 ルカスは、始め、アシュラに敵意を向けていた。自分達の皇族への敬意が、疑われていると思ったからだ。だが、年齢が近いこともあり、また、もの珍しさもあって、次第に、打ち解けていった。



 「ちょっと出張」

アシュラは答えた。ルカスは、にんまりと笑った。

「その筋の仕事か?」

「まあな」

「ああ、いいって。詳しく教えてくれなくても。わかってる。守秘義務ってやつだろ」


 アシュラはいらいらしていた。


 旅の途中で、モーリツ・エステルハージからの早馬のせいで遅れを取らされ。

 セドルニツキ伯爵の憤激と、それに続く愚痴に、延々とつきあわされ。

 ようやく終わったと思ったら、官吏に呼び止められ、迷惑な仕事をふられ。

 今また、ルカスに話しかけられている。

 これでは、いつまでたっても、フランソワのところへたどり着けない。


 ……特に会いたいわけではないが。

 ……でも、ずいぶん長く、姿を見ていないわけだから。



 ルカスは、鮮やかな緑色の、陶器の破片を、箒で掃き集めていた。

 「秘密警察官のお前に比べて、俺は、気楽なもんだ。知りたいんなら、教えてやるよ。このスープ皿を割ったのは、料理人のオッフェンバックだ」


「別に知りたくもないが」


 アシュラの苛立ちに気づこうともせず、ルカスは、呑気にルカスは話し続ける。

「古くからいるベテランでよ。フランス料理担当なんだ。ベテランでも、手を滑らせることがあるんだね。問題は、それを片付けるのが、俺様だってことだ……」


 アシュラは、露骨に、辺りを見回した。

「皇族方の食事は終わったのか? 少し、時間が早いようだが」

「終わったよ。実は、食事の途中で、ライヒシュタット公の具合が悪くなってな」


「何だって!」

 思わず、アシュラは息を飲んだ。


 のんびりと、ルカスは答えた。

「なに、たいしたことじゃないよ。ご自分で歩いて、部屋まで戻られたし。この暑さで、参っちゃったんじゃないか?」

「医者は呼んだのか?」

「呼んださ。思春期特有の病だってよ」

「思春期特有の……なんだ、それは?」

「だから、デリケートなんだよ、皇族方は」

「……」

 アシュラはためらった。

「なあ、ルカス。まさか、プリンスは、毒を盛られたなんてことは……?」

 ルカスは目を丸くした。

「何言ってんだ? 宮廷の管理体制は、万全だぜ?」



 毒物混入については、宮廷料理長官の下、幾重ものチェック体制が敷かれていた。

 この宮廷料理長官は、高位の貴族が務めている。

 長官の下には、専属料理長がいて、毒味はもちろん、微細な味のチェックまで、厳しい管理下においていた。



「不可能だよ。毒なんか盛るのは」

「そうだな。……知ってる」



 フランソワの指が時折黄色くなると聞かされた時、アシュラは、真っ先に毒を疑った。

 ベートーヴェンの最後の主治医、ヴァブルフ医師は、肝臓が弱っているせいだと言った。

 肝臓は、毒物の摂取で弱った可能性も否定できない。


 厨房付近をうろつき、アシュラは、毒物混入の機会を調べてみた。

 結果、不可能だという結論に達した。

 それほど、監視体制が、厳格だったのだ。

 部外者のアシュラは、危うく、不審者扱いされるところだった。



「第一、毒なら、医者が気づくだろ?」

「医者に気づかれないような毒だったら?」

「お前、考え過ぎ!」

面倒臭そうに、ルカスは叫んだ。

「大丈夫だ。シュタウデンハイム医師は、名医だから」


「シュタウデンハイム医師?」

聞いたことのある名前だった。


「そうだ。医師せんせいは、なんとかいう伯爵の重い病気を治して、1万グルテンも、もらったんだぜ! 1万グルテン……」

ルカスは、遠くを見つめている。

「俺の給料の、何千倍?」


「思い出した! ベートーヴェンの主治医だ!」

アシュラは手を打った。



 患者が言うことをきかないという理由で、ベートーヴェンと訣別した医師だ。その意思は固く、音楽家ベートーヴェンの死の床を訪れることもなかった……。



「へえ。そうなの? ベートーヴェンも診てたんだ。去年、皇帝がご病気の時も、診察に来たんだぜ」

 なぜか胸を張って、ルカスが言った。


 不意に、その顔が曇った。

「あの晩……皇帝がご病気になられた晩……、夕食を運ぶ係は、俺だった。だから……物凄く、心配だった」


「心配? 君が?」

思わず、アシュラはオウム返した。むっとしたように、ルカスがアシュラを睨む。

「失敬な奴だな。これでも俺は、自分の仕事に誇りを持ってるんだ。でも……でも、もし、皇帝が、俺が運んだ料理のせいで、具合が悪くなられたかもしれないと思うと……」


「料理のせいで?」

「食中毒とか。運んでいる間に、料理が傷んじまったとか?」

「ありえないだろう。そんな短い間に」

「そうだけど……」


 煮え切らないルカスの態度を、アシュラは不審に思った。

「なにか心当たりでもあるのか?」


「ねえよ。さっき言ったろ? 俺は、プロだ。自分の仕事は、完璧にこなす。ただ、あの晩……」

ルカスは、何かを思い出すような目をした。

「皇帝は、プリンスの残された肉料理を召し上がったんだ。料理は手付かずだったけど、ずっとプリンスの前に置かれていた。きっと、すっかり冷めてしまっていただろう……。なぜ、一度厨房へ下げて、温める手間をかけなかったんだろうと思うと……俺は……、俺は!」



 皇帝の肉には、グレーヴィーソースがかけられていた。プリンスの分には、ラズベリーソースが。

 料理長の配慮だった。

 風邪気味だというプリンスの体調を思いやって、甘ずっぱいソースに変えたのだ。


 だが、プリンスは、すっかり食欲をなくしていた。

 自分の分を食べ終えていた皇帝は、料理を残すことに罪悪感を感じていた孫の分も、平らげた……。



「プリンスの前から皇帝の前へ、ラズベリーソースのかかった肉の皿を運んだのは、俺なんだ!」

罪悪感いっぱいの声で、ルカスは叫んだ。


「冷めた料理を食べたからって、病気にはならないよ」

慰めるように、アシュラは言った。

「何より、皇帝は回復されたんだ。君の運んだ皿が、最後の晩餐ってわけでもないのだから……」


「縁起でもないこと、言うな!」

「……君がそれ以上、気に病む必要はないってことだよ」

「そうだな……。あれから、ご病気のぶり返しもないしな」

ほっとしたように、ルカスが頷いた。








※皇帝が病になった晩の経緯は、「4 孤独な魂」の「ゾフィーと呼んで」にあります。


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