セドル と ニツキ
ウィーンに帰り着くと、アシュラは、秘密警察の本部に立ち寄った。報告を済ませたら、すぐにでも、フランソワのところへ向かうつもりだった。
……ずっと姿を見せなかったけど、少しは気にかけていてくれたかな?
……案外、せいせいしてたりして。
妙に気恥ずかしく、そんな風に考えた。
長官の執務室に繋がる廊下を、向こうから、 身なりのよい男が、肩を怒らせて歩いてきた。
どこかで見たことのある男だ。近づいてきて、それが、ブルク劇場の脚本家、ナンデンカンデンだとわかった。
長官室の扉が乱暴に開いた(それは、ついさっき、脚本家自身の手で、叩きつけるように閉められたばかりだった)。秘密警察長官、セドルニツキが現れた。右手に赤ペンを握りしめている。金切り声で、彼は叫んだ。
「失せろ! 二度と姿を現すな!」
「台本は見せたはずだ! 見逃したのは、そっちのミスだ! 罰金は、1クローネだって、払わんからな!」
ナンデンカンデンが怒鳴り返した。
思わず壁に張り付いたアシュラに気がつくと、ナンデンカンデンは、歯をむき出して威嚇した。拳を握りしめ、中指を立ててみせる。
足音荒く、立ち去っていった。
「またあいつだ。くそ、また、あのクソ作家が……」
長官室では、右手に赤ペンを握りしめたまま、セドルニツキ(切り裂き)伯爵が、手負いの熊のように、部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。
「ちょっとくらい人気があるからって、いい気になりおって。あのクソ野郎が……くっそーーーーーーっ!」
「特大のクソですね」
思わずアシュラはつぶやいた。
いやしくも、言葉を商売とする検閲官が口にすることとも思えない。
「同じ言葉の繰り返しは、貴方が、最も侮蔑する文芸技法でしょ?」
「その通りだ。でも、あいつは、クソなんだ」
憤懣やる方ないといった風に、セドルニツキは繰り返した。
そういえば、あの脚本家は、アシュラがウィーンを発つ前も、
「今度は一体、何を?」
「あの野郎の新作劇だ! ドナウの川べりに、霧の晩に出没する、切り裂き伯爵の劇なんぞ上演しやがって!」
「切り裂き伯爵? ですって!?」
「そうだ! そいつが、赤いナイフで、娼婦ばかり襲うんだ! なんたる破廉恥! なんたる不道徳! これは、検閲以前の問題だ! 許しがたい、犯罪行為だ!」
観客保護の名のもとに、演劇には、さまざまな監視が行われていた。
恋人同士を演じる役者を、二人だけで残して、他の役者たちが退場した芝居に、検閲が入ったこともあった。観客がみだらな想像をするから、というのが、その理由だ。
「それなのに、娼婦! 切り裂き! 赤!」
伯爵は喚きまくった。
「しかも、探偵役の飼っている犬の名前が、セドルとニツキっていうんだ! おまけに、ひどく間抜けな犬という設定だ!」
「セドル(と)ニツキ……」
「お前まで繰り返すな!」
「すっ、すみません。でも、それだけの内容なら、台本を提出させた段階で、なんとかできたはずでしょ?」
思わずアシュラは口にした。
中には、台本にないセリフを即興で口にする俳優もいた。劇場には、監視の秘密警察官もいるのだが、彼らは、居眠りをしていることが多かった。また、たとえ起きていたとしても、咄嗟に反応ができない。
その隙に、役者や演出家は、好きなように、芝居を進めることができた。
後から逮捕されようが、罰金を取られようが、とにかく、舞台の上で、言いたいことが言える。
しかし、ここまではっきりした筋立ては、台本の段階で書き直させることができたはずだ。
「それが……あいつら、最低ランクの植字工に活字を組ませやがって……」
セドルニツキは、台本のゲラ(校正用の試し刷り)の束を、アシュラに放ってよこした。
印刷は、植字工が、アルファベットや数字、記号などを、1字1字組み合わせて、ページを作る。
植字工の腕の良し悪しによって、誤植が多かったり少なかったりした。
この台本を担当した植字工は、よほど腕が悪かったのだろう。
ゲラは、修正のペン入れで、真っ赤だった。触っているだけで、手が、赤く染まりそうだ。
全て、セドルニツキが入れた
ざっと一瞥して、それらが全て、単純な誤植であることを、アシュラは見て取った。
つまりセドルニツキは、言葉の間違いやスペルミスばかりに気を取られていて、肝心の内容を見逃したということだ。
「……自業自得」
思わずアシュラはつぶやいた。セドルニツキに聞こえない小声で。
「逮捕だ! 罰金だ!」
尽きることなく、セドルニツキは喚き続けた。
激高する上司に、なんとか帰着の報告を済ませ、アシュラは、長官室を出た。
罵詈雑言の合間に、セドルニツキ伯爵は、皇帝一家が、ウィーン郊外の、バーデンの城に滞在していることを教えてくれた。
引き続き、アシュラは、ライヒシュタット公の監視に入ることを許された。
「アシュラ!」
薄暗い廊下を足早に歩いていると、事務局の前で、呼び止められた。
顔見知りの官吏が、手招きしている。
「君に調べてほしいことがあるんだ」
「急いでるんですけど」
この官吏は、厄介な仕事ばかり振ってくる。アシュラは顔を顰めた。
「そんなことを言わないで。簡単な仕事だよ」
「本当に?」
「うん。実は、宮内庁長官からじきじきのご依頼で……」
「お断りします」
身分の高い人が絡むと、ろくなことはない。報告書だけで、山のように書かされる。
「断る? そんなことが言えると思ってるの?」
官吏がいやな目を向けてきた。
「君、大使館の馬を乗りつぶしたろ?」
「いや、あの馬は、まだまだイケます」
「でも、最低でも2週間は休ませなくちゃいけないって、馬丁が言ってたぜ。暑い中、君が無理をさせたからだ」
「……」
「あの馬の代わりの馬に支払われる2週間分の
「わかりました。やります。やればいいんでしょ」
やけっぱちで、アシュラは叫んだ。
「うん」
官吏はにっこり笑って頷いた。
「さっきも言ったように、大した仕事じゃない。なんでも、宮廷の資材を横領している輩がいるらしい。ライヒシュタット家の薪が、ひどい粗悪品とすり替えられていたというんだ。納品されたのが、ピンク色の黴だらけだったんだって、侍医が報告してきた。君、ライヒシュタット公回りの仕事だよね。ちょうどいいじゃないか」
「はあ」
この官吏は、だから自分を呼び止めたのだと、アシュラは気がついた。
「それにしても……薪ですって?」
今は、夏だ。いったいいつの話だというのだろう。
官吏は眉を顰めた。
「そうなんだよね。この仕事は、あちこちの部署をたらい回しになって、最終的に
「……まあ、頑張ってみます」
しぶしぶ、アシュラは請け合った。
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