若君からの手紙
パリの大使館の貸してくれた馬は、少なくとも、アシュラの駄馬よりはマシだった。だが、夏の日差しは、動くものに、過酷だった。体中に汗をかき、鼻から荒い息を吐き出している。
ウィーンまでは、もう、わずかだ。
休憩所で馬に水を飲ませ、すぐに出発した。埃っぽい街道を、次第に速度を上げていく。だが、やはり、馬は、バテ気味だった。思うように走ってくれない。
なんとか、もう少し速度を上げさせようと、馬の脇腹を、両脚で挟んでぎゅっと締め上げた時、背後から蹄の音が聞こえてきた。
息詰まるような暑さの中、軽快に走ってくる。
思わず振り返った。
毛並みの良い馬が、ぐんぐん近づいてきた。
「アシュラ・シャイタン!」
エステルハージ家の馬だった。アシュラの馬に追いついた馬は、全身から湯気を立てている。が、まだまだ、血気盛んだ。
馬には、見覚えのある従者が乗っていた。
「やっと捕まえた。随分飛ばしたんだな。こんなに暑いのに、馬が、かわいそうじゃないか」
「そんなことを言いに、後を追いかけてきたのか?」
「違う。若君から、手紙だ」
「わかぎみ……?」
エステルハージ家の息子、モーリツだ。
従者は馬を滑り降りた。アシュラの乗った馬に近づいてくる。アシュラも馬を下りた。
「パリの大使館へ行ったら、すでにお前は、ウィーンに発った後だった。それで、モーリツ様は、俺に、手紙を託されたのだ。いくらも行かないうちに追いつけるだろうと」
それが、こんなに遠くパリを離れるまで、追いつけなかったというわけだ。
「何を、そんなに馬鹿みたいに急いで……。せっかくだから、あちこちに寄って、遊んで帰ればいいのに。きっとそうするはずだと、モーリツ様も、言っておられたぞ」
「お前んとこの、遊び人のドラ息子と、一緒にするな」
「……」
その点に関しては、従者も、言い返す気はないようだった。
「お前が寄り道してたら、俺も、こんなにたくさん、馬を走らせなくて済んだのに」
顔面から噴き出る汗を、煮染めたような色の布で拭う。
なおもぶつぶつ言いながら、従者は、くるくる巻いた手紙を手渡してきた。
汗で湿気り、真ん中に結んだ紐が、項垂れたようになっている。
「早急に目を通せとのお言付けだ。ライヒシュタット公に関する、重大な知らせだそうだ」
思い出したように、従者は言った。
「ライヒシュタット公?」
ずっと考えていた人の名前を口にされ、アシュラははっとした。
従者はうなずいた。自分の馬に戻り、その背に跨る。
「確かに渡したぞ」
一言残し、アシュラと馬を追い越して、走り去っていった。
どうやら、パリに引き返すことはせず、一足先にウィーンに帰るつもりらしい。
アシュラの馬は、疲労と暑さで、殆ど、泡を噴かんばかりだった。
このまま、無理をさせてでもウィーンまで走らせるつもりだった。だが、モーリツからの手紙も気になる。
モーリツは、
ひどく胸騒ぎがした。
アシュラは馬を、木陰に連れて行った。手綱をつなぎ、少し離れたところで、手紙を広げた。
▼
時間がないから、要件だけ書く。
アングレーム公妃のことは、知っていると思う。母と僕を、招待してくれた方だ。ご夫君のアングレーム公は、皇太子、つまり、次のフランス王と目されている。
公妃は、ご夫君は、フランス王を継ぐ気はないと仄めかしておられてた。だが、それは今は、問題ではない。
アシュラ。
ブルボン家は、ナポレオン人気の再燃を恐れている。彼らにとって、ナポレオン2世は、脅威以外の、何者でもない。
更に悪いことに、我らがライヒシュタット公に対して、公妃は、個人的な憎しみを抱いておられる。
公妃ご自身、ナポレオンのせいで、ロシアやイギリスを初め、ヨーロッパ諸国を放浪する羽目に陥られた。ロシアでは、雪の中、馬車が横倒しになり、美しいお顔に、痣を作られたこともあったそうだ。
アングレーム公夫妻に、お子様がいらっしゃらないことは、お前も知っているな? 長く苦しい逃亡の果て、やっと戻られたテュルリー宮殿には、玩具が、いっぱい、散らばっていたそうだ。
ナポレオンの息子……つまり、ライヒシュタット公の。
詳しいことは書かないが、また、僕にはよくわからない感情だが、つまりは、そういうことだ。
アングレーム公妃は、プライベートな感情で、ライヒシュタット公を、嫌っておられる。
何より、彼女が案じておられるのは、甥の
フランス国民にとって、ナポレオン人気は絶大だ。そして、ブルボン王室の人気は、日増しに落ちていく一方だ。
我らがライヒシュタット公は、たとえ、彼自身にその気がなくとも、
僕はここに断言しておく。
ナポレオン2世が王位につくことはあっても、ボルドー公がフランス王になることは、永遠にないだろう。
あの国の民は、それだけ我儘で、凶暴だということだよ。彼らは、ブルボン王家に、うんざりしている。
なあ、アシュラ。
ブルボン一家は、以前、毒を盛られたことがあるそうだよ。未然に防がれ、誰も毒を摂取することはなかったというが、それでも、彼らは、逃亡中、そして今も、常に、毒殺の危険を、身近に感じている。
彼ら自身も、また、敵に毒を盛ることを、決して躊躇わないだろう。
アングレーム公妃もね!
彼女が、ネイ元帥ら、ナポレオン派の臣下たちにした仕打ちを考えると、僕は、凄く不安な気持ちになる。
いや、僕は、何を言っているのだろう。彼女は、魅力ある、驚嘆すべき女性だ。僕は彼女に、畏敬の念を抱いている。
ただ、彼女は、未だに、ナポレオンを憎んでいる。
もちろん、彼女が憎むべきは、彼女のご両親を殺害した、フランス革命そのものだ。
だが、なんとも間の悪いことに、ナポレオンは、「フランス人民の皇帝」なんだよ。革命の、正当な後継者なのだ。
そういえば、公妃が、妙なことを言っていた。
ナポレオンが、ルイ18世から、何かを盗んだというんだ。だから、ナポレオンには、息子を守ることができる? とか。
よくわからない。王党派の決起書でも、持ち去ったのか。
あるいは、ローマ王誘拐計画書とか?
いずれにしろ、昔の話だ。ナポレオンは死んだ。息子を守ることのできた筈の父親は、今はもう、いない。
母が一緒だから、僕らの帰りの旅は、往路と同じく、長引くと思う。
お前は、帰路についたそうだな。
まったく、恩知らずなやつだ。この僕に一言の挨拶もなしに、先に帰るとは、何事か。おかげで、早馬を飛ばさなくちゃ、ならなくなったじゃないか。
まさか、約束を忘れたわけではあるまいな?
お嬢ちゃんに紹介してもらう手筈は、まだ何も、整ってないんだぞ? 相談も、全然、できていない。
問題は、どうやって、あの口うるさい家庭教師を出し抜くか、だ。
……。
▲
最後の方を、アシュラは読み飛ばした。
胸が、ざわざわした。
パリ滞在中、一度だけ、アングレーム公妃の姿を目にした。馬車に乗って、目の前を通り過ぎていったのだ。百合の花の刺繍の入った、重そうなドレスを着ていた。
百合。フランス王家の紋章だ。
同じ紋章が入った葉巻入れを、アシュラは、ウィーンの場末の酒屋で見た。その葉巻入れの所有者は、ライヒシュタット家の馬丁を取り込み、馬車の車軸を狂わせ、そして計画が失敗すると馬丁を殺してドナウ川に投げ込んだ……。
唐突に、アシュラは立ち上がった。
馬の背中に飛び乗る。
ぎらつく真夏の太陽の下、ウィーン目指して、猛烈な勢いで馬を駆った。
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