ファニーの手柄 2
背もたれ一面にNの文字が散らばる椅子をマリー・テレーズは、モーリツに勧めた。
「今は亡き
言いながら、彼女も、Nの文様が踊る椅子に腰を下ろした。
「でも、私には、とてもじゃないけど、そんな雅量は持てなかった。だから、あの男がセント・ヘレナに幽閉されて、今度こそ、目の前から消えてなくなった時、あの男が居住した全ての城から、ボナパルト家の紋章や、『N』の文字を、一つ残らず取り除くことを命じたの」
ブルボン王朝が除去したのは、蜂や鷲やNの字だけではなかった。
ワーテルローでのナポレオンの副官は銃殺され、アヴィニョンで暗殺された元帥の死体は、ローヌ川に投げ込まれた。他にも、二人の元帥が銃殺された。うち一人の妻が涙の嘆願をしたが、マリー・テレーズは、恩赦を拒んだ。このため彼女は、「
さらに、ナポレオンに追随した大臣たちは次々と罷免され、貴族たちは、階級を剥奪された。また、二五〇人を越えるボナパルニスト達が禁錮刑に処せられている。こうした一連の復讐路線は、「白色テロ」と呼ばれている。フランス王家の象徴、白百合に因んだ命名だ。
自分も椅子に腰掛け、マリー・テレーズが首を傾げた。
「あなた、ナポレオンの一族が、ローマに住んでいるのをご存知?」
「はい」
フランスを追われたボナパルト一族は、当時、ローマに移り住んでいた。
「相変わらず、母親のレティシアが、女家長を務めているのかしら。妹のポーリーヌは、男をとっかえひっかえしているのかしらね」
「さあ……そこまでは、存じません」
しどろもどろと、モーリツは答えた。
意地悪く、マリー・テレーズは続けた。
「あなた、ボナパルト家のパーティーに招待されたことはおあり?」
「!」
思わず、不快の表情が、モーリツの顔に浮かんでしまった。
これは、良家の貴公子として、全く、ふさわしくない。
モーリツは慌てた。
さり気なく、マリー・テレーズが次の矢を放った。
「ウィーンではあなた、あの男の息子と、懇意にしているのかしら」
モーリツは、はっと息を呑み、身を固くした。
ふと、マリー・テレーズの顔に、ためらいが浮かんだ。何気ない口調で、彼女は付け足した。
「その子のことを、カール大公が、とても可愛がっているって、聞いたけど」
「僕は、素行が悪いのだそうです。だから、ライヒシュタット公に近づくことを、警戒されています」
「そう! あなたは、カール大公の、信用がないのね!?」
マリー・テレーズは、ぷっと吹き出した。本当におかしそうに、彼女は笑い転げた。
モーリツは少し、むっとした。
「カール大公の信頼がないですって? そんなことはないです。僕は、主に、ライヒシュタット公の家庭教師から、嫌われているんです」
「家庭教師?」
上の空で、マリー・テレーズは繰り返した。そわそわと、ドレスの襞をなでる。上目遣いになって、尋ねた。
「カール大公は、今、どうしているかしら」
公妃が、さっきから、カール大公の名前を繰り返していることに、モーリツは気づいた。
大公と、
従兄ということなら、真っ先に皇帝の近況を尋ねそうなものだと思いつつ、彼は答えた。
「カール大公なら、お元気ですよ。この春にも、男の子が生まれました。僕も拝顔の栄誉を得ましたが、元気で、お可愛らしい赤ちゃんでした。きっと、お父さんに似て、勇敢な軍人になることでしょう。ご長男のアルブレヒト
公妃は、うつむいた。
「奥様は、大層、お若いと聞いたわ」
「ええ! ヘンリエッタ大公妃は、素晴らしい女性です! わが国で、初めて、クリスマスツリーに蝋燭をつけられたんです。暗い中に静かに煌めく小さな炎は、まったくもって、幻想的で、美しい。ついその下で、若いご婦人に、愛を囁きたくなってしまう。あれは、本当に、ロマンティックですね!」
クリスマスツリーの蝋燭に火をつけるという習慣は、プロテスタントのものである。カソリックのオーストリアには、なかったものだ。
カール大公の妻、ヘンリエッタは、オーストリア・ハプスブルク家が初めて迎えた、プロテスタントの配偶者だった。
マリー・テレーズの唇が、微かに震えた。
「でも彼女は、カプチーナ教会に埋葬されることはないわ」
「え?」
「だって、ハプスブルク家の墓所に、プロテスタントが葬られるわけがないでしょ」
「……」
怪訝な目を、モーリツは上げた。
公妃の発言は、ひどく不穏当に思われた。
カプチーナ教会は、ハプスブルク家代々の墓所である。当然、カール大公も、そこに葬られる。
マリー・テレーズは、持っていた扇子を、ぱちんと閉じた。
「1814年、長い亡命の果に、ようやくフランスに戻ってきて、テュルリー宮に足を踏み入れた時……」
当時を思い出しているのか、青い瞳が、けぶるようになった。
「わんわん群れ飛ぶ蜜蜂の大群が、それはそれは喧しくて、目眩がするほどだったわ。でもね。蜂や鷲やNの字よりも、もっとずっと目障りなものがあったの。何だかわかる?」
「いいえ」
マリー・テレーズは、大きく息を吸った。
「兵隊の人形。木馬。ラッパ。積み木。チュルリーやサン・クルーの宮殿には、子どもの玩具が、いっぱい、散らばっていたわ。それらはほんと、不愉快で邪魔だった」
「……」
火をつけぬままの葉巻を弄んでいたモーリツの手が止まった。
「もし、無事に生まれていたら、私にも、子どもがいたの。その子は、あの男の息子より、2つ、年下だった……」
1813年の初め頃。マリー・テレーズは、かなり進んだ妊娠を、流産している。
これが、タンプル塔にいた時に盛られた薬の影響なのかどうかは、わからない。
「それは……」
モーリツは言った。
だが、後が続かない。
20歳の若者に、
「いいのよ」
にっこりと、マリー・テレーズは笑った。
「もう、吹っ切れているから。私は、
シャルル10世には、マリー・テレーズの夫、アングレーム公の下に、ベリー公という息子がいた。
ベリー公は、1820年、劇場から出てきたところを、刺殺された。
ナポレオン派の馬具屋によって。
ナポレオンの亡くなる前年のことである。だが、ナポレオンには、全く、預かり知らぬ出来事だった。
ルイーズとアンリは、このベリー公の子である。
マリー・テレーズにとっては、姪と甥に当たる。
甥のアンリは、ベリー公殺害当時、まだ、母マリー・カロリーヌのお腹のなかにいた。目の前で夫を刺され、半狂乱になる妻に、ベリー公は、お腹の子に差し障りがあるから、あまり泣くなと諭したという。
この時まで、彼女の2回目の妊娠は、内緒にされていた。
月満ちて、マリー・カロリーヌは出産した。黒で覆われた息詰まるような喪の部屋で、たった一人で。
へその緒で繋がった母と子を、最初に発見したのは、マリー・テレーズだった。
つい先日の食卓での出来事を、モーリツは思い出した。
6歳のアンリは、自分でパンを切ることができなかった。生真面目な顔で、いじればいじるほど、柔らかいパンは、ぐしゃぐしゃに潰れていく。見かねた祖父のシャルル10世が、自ら手を出して、パンを切ってやった。
……ありがとうございます、陛下。
そう言った男の子は、無邪気で素直だった。
「あの子達がいれば、私は、何も怖くない。あの2人は、私の全てなの。私は……私も夫も、王位には、全く執着していない。でも、もし、誰かが、アンリが王位に着くことを妨げようとしたら……」
公妃は、しっかりと、モーリツに目を据えた。
その目の色が、誰かと同じであることに気づき、モーリツは、はっとした。
ライヒシュタット公だ。
フランソワというフランス名を持つ貴公子と、この女性は、本当に、よく似た瞳をしていた。
静かな口調で、マリー・テレーズは続けた。
「私はその者を、生かしてはおかない」
……あんた、ブルボン王室に招かれたんだろう? 奴らに言ってやれ。
……ライヒシュタット公の命を狙うな!
馬車で同乗した密偵の言葉が、さっきからしきりと、モーリツの耳元に繰り返されていた。
しかし、今、彼に何が言えるだろう。
何が、できるだろう。
「ライヒシュタット公は、」
せいいっぱいの力を込め、モーリツは言った。
「彼は、優しい、純粋な性格です。あなたがボルドー公(アンリ)を可愛がるのなら、同様の愛を、彼にも注げる筈です」
ライヒシュタット公の母、マリー・ルイーゼは、
ライヒシュタット公もまた、マリー・テレーズとは、血が繋がっているのだ。
「私がウィーンにいた時、
マリー・テレーズの目が、意地悪くきらめいた。
「彼女は、ナポレオンとの間の子どもを、あまり顧みることがないと聞いたわ。だから、子どもは、
言いかけて、マリー・テレーズは、ぴたりと口を鎖した。いくら待っても、続きは出ない。
たまらず、モーリツは叫んだ。
「ですが、ナポレオンはすでに亡くなっています!」
マリー・テレーズは、親友の息子の目を見据えた。乾いた唇から、激しい言葉の奔流があふれ出た。
「母親に愛されているのなら、まだ、私にも我慢ができた。けれど、彼は、そうではない。彼は、ナポレオンの息子でしかない。オーストリア宮廷に、あの男の血が流れている限り、私がかの国の土を再び踏むことはないでしょう」
「アングレーム公妃。それは、どういう……」
「ここにいたの、モーリツ。公妃様とお二人で、何をお話ししていたの?」
彼の母親が姿を現した。
よく休んだのか、すっきりとした顔をしている。
「ちょうど良かったわ、ファニー。そろそろお茶にしましょう」
顔を輝かせ、マリー・テレーズが立ち上がった。
親しげに、友の腕を取った。
モーリツを置き去りに、2人は、喫煙室を出ていった。
※
マリー・テレーズ(アングレーム公夫人)とライヒシュタット公の血縁関係については、私のホームページに系譜がございます。
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#therese
ついでに、ブルボン家の系図もございます。
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#bourbon
(ページトップは
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html
恐れ入りますが、下にスクロール下さい。
「5 マリー・テレーズとは?」「10 ブルボン家系図です。)
なお、マリー・テレーズが登場するサイドストーリーとして、「カール大公の恋」がございます。2章「スィート・フランツェン」と3章「『第九』と『魔王』」の間に、サイドストーリーとして、4話、挟まっています。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます