ファニーの手柄 1
「ファニー! まあ、ファニー!」
肩幅の広い、威厳ある女性が叫んだ。
「妃殿下……」
マリー・フランソワーズ……モーリツの母……の目に、涙が湧いた。
二人の女性は抱き合い、子どものように、声を上げて泣き出した。
パリに到着して以来、モーリツ・エステルハージにとっては、驚きの連続だった。
彼の母親が、彼にとって、全く知らない人になってしまったのだ。正しくは、ひどく若返ってしまった。
40歳も半ば過ぎの女性達が、これでは、まるで、10代の少女のようだ。
彼女らの会話には、「アンヌ・シャルロット」「マリー・ヴィルヘルミーネ」という女性の名前が、頻繁に出てきた。どちらも、モーリツの知らない名前だった。どうやら、母と公妃を含め、この4人は、大の仲良しだったらしい。
ド・シャンクロ夫人という名前もよく出てきた。この人は、母のおば……モーリツの、大おばに当たる。
シャンクロ夫人は、長くウィーンの宮廷に仕えていた。夫人は、後にアングレーム公妃となる女性の、世話係を務めた。
1796年。彼女が、初めてウィーンに着た時に。
タンプル塔を脱出して。
アングレーム公妃の名は、マリー・テレーズと言った。
フランス革命で斬首された、ルイ16世と、マリー・アントワネットの娘だ。
マリー・アントワネットは、オーストリア皇帝の叔母君に当たる。つまり、皇帝とマリー・テレーズは、従兄妹同士ということになる。
その縁で、フランスとオーストリアの間の人質交換の形で、マリー・テレーズは、ウィーン宮廷に引き取られてきたのだ。
3年間、彼女は、ウィーン宮廷に留まっていた。そして、父方の従兄のアングレーム公と結婚する為、オーストリアを出ていった。
その後も、マリー・テレーズと、ファニー……モーリツの母マリー・フランソワーズ……の友情は、続いていた。
ナポレオンが没落し、マリー・テレーズは、やっと、フランスに帰ることができた。
今の王、シャルル10世は、彼女の夫、アングレーム公の父君である。従兄妹同士の結婚のため、同時に、彼女自身の叔父にも当たる。
モーリツの母の親友は、今や、押しも押されぬ、ブルボン家の皇太子妃なのだ。
フランスに来る前、モーリツは、マリー・テレーズに関して、あまりいい噂は聞かなかった。
氷のように冷たい性格で、一緒にいても、退屈するばかりだというのだ。そのくせ、臣下のちょっとした失言が、身分の降格に繋がるという。
そんな女性のところへ母をやって大丈夫かと、父は随分、悩んでいた。
だが、母は、父の心配を、笑い飛ばした。
公妃のことなら、よく知ってる、あの方は、お優しい、天使のような女性だ、というのだ。
実際に会ってみて、モーリツも、そう思うようになった。
モーリツと母は、まるで、フランス王室の家族のような待遇を受けた。シャルル10世を始め、ブルボン家の人たちと食事をし、教会に行き、イル・ド・フランス(パリを中心とした地域圏)に点在する、あちこちの城を訪れた。
モーリツは、母の肖像画が、王妃の「宝物」と一緒に飾られているのを見て、温かい感動に満たされた。
手厚いもてなしのうちに、6週間が経過した。
モーリツと母は、パリから少し離れた、ベルサイユへと招かれた。
「でも、大丈夫かな」
ベルサイユへ向かう馬車の中で、モーリツは母にささやいた。
公妃は、別の馬車に乗っている。
「なにが?」
おっとりと母が尋ねた。
「だって、ベルサイユだろ? 公妃様にとっては、お父上とお母上との、思い出の詰まった……」
ルイ16世とマリー・アントワネットの末路、そしてマリー・テレーズ自身が経験した、恐怖。その後の過酷な幽閉生活。それらを彼女が克服できているとは、モーリツには、思えなかった。
人間に乗り越えられる運命だとは、到底、思えない。
母は、動じなかった。
「大丈夫。彼女は強い人よ? それに、ご両親や叔母上、未だ行方知れずの弟君……ああ、神よ。彼に祝福を……のことは、辛い思い出だけではなかったでしょう。そこには、懐かしさや喜びもいっぱい、あったはず。私達をベルサイユに招待して下さったのはね、モーリツ。そうした良い思い出を、私達にも共有してほしいという、彼女の深い愛情と、もてなしの心なの」
「でも、僕は心配だ。公妃は、泣き出したりなさらないだろうか」
「大丈夫よ。私がいるもん」
「母さん……」
母の能天気さに、モーリツは少し呆れ、少し、安堵した。
案に相違して、マリー・テレーズは、平静だった。
ベルサイユ宮殿の、ルイ16世が住んでいた部屋。マリー・アントワネットのベッド。そして、
「このバルコニーから、父は、私の弟……未来のルイ17世を、人々にお披露目したの」
そう言う彼女の声は、全く平静で、誇らしげだった。
ベルサイユでは、劇場に入り、庭園を散策し、ひなびた村落を眺め、礼拝堂も訪れた。
最後に、ベルサイユの離宮のひとつ、プティ・トリアノンへ案内された。
マリー・アントワネットが、静かな田園生活を楽しんだ離宮である。
モーリツの母が疲れてしまったので、一行は、休憩できる部屋へ通された。
「少し、横になるといいわ」
マリー・テレーズは優しく言うと、寝椅子を勧めた。
にっこりと笑い、母は、遠慮なく、寝椅子に近づいていった。
テレーズが、モーリツに目をやった。
「あ、僕、その辺を見てきます」
モーリツは言い、婦人たちの部屋を出た。
喫煙室を求めて歩いていたモーリツの目が、ふと、足元の絨毯の上に落ちた。
絨毯には、一面に、蜂の模様が織り込まれている。
「……!」
窓のカーテンを見ると、そこにも、息詰まるほどの蜂の大群が刺繍されていた。
そして、階段の踊り場には、大きな鷲の置物。また、家具に彫り込まれた、誇らしげなNのアルファベット……。
「ここには滅多に来ないから、わざわざ、取り替えることはしなかったのよ」
後ろからかすれた声が聞こえ、モーリツは、飛び上がった。
長かった、たった一人での幽閉生活のせいで、発声障害を起こしてしまった者の声だ。
「アングレーム公妃……」
「サン・クルー。コンピエーニュ。チュルリー。イル・ド・フランスの宮殿からは、あの男の痕跡は、ことごとく消し去ったわ。でも、
「公妃。感謝します。あなたにとってこの離宮は、やはり、辛い思い出を呼び覚ます場所だったのですね。それなのに、母と僕を連れてきて下さって」
驚いたように、アングレーム公妃は目を瞠った。
すぐに、柔らかく微笑んだ。
「ファニーは、息子さんを、とても上手に育てたのね。それは、彼女の手柄だわ。でも、私は、彼女が、羨ましい。あなたのような息子さんがいて」
アングレーム公夫妻は、子どもには恵まれなかった。
それは、公妃がタンプル塔に幽閉されていた時に、密かに、妊娠できなくなる薬を盛られたからだと、まことしやかに囁かれていた。
モーリツの手にした葉巻入れに、公妃は目をやった。
「それは悪習ね。ファニーの息子が煙草を吸うなんて、知らなかったわ」
「喫煙は、国の利益になりますから」
オーストリアでは、国が煙草の製造を独占している。その上、専売権を持ち、外国煙草の輸入も禁止していた。
「屁理屈を言わないで。今まで煙草を吸っている姿を見たことがなかったのは、我慢していたからなのね。いいわ。いらしゃい」
彼女はモーリツを、喫煙室に案内した。
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