ユゴーとエミール 2


 埃だらけの、汚れた部屋だった。煤けたガラス窓から差し込む西日が暑苦しい。


「僕は、ローマ王の、遊び友達だったんだよ」

 エミールが、縁の欠けた陶器に入った生ぬるいワインを勧める。



「パリで、僕の両親は、マリー・ルイーゼ皇妃様の付き人だった。父が従僕で、母がお針子だったのさ。ナポレオン皇帝陛下が連合軍に敗戦した時、父と母は、皇妃様とローマ王について、ウィーンへ行くことに決めた。当時、僕はまだ、幼かった。一人で生きていくことはできない。それで両親は、僕も連れていくことにした」


当時を懐かしむように、穏やかな表情で、エミールは続けた。


「ウィーンでは、フランス人の子どもは僕しかいなかった。それで僕は、ローマ王の遊び友達になる栄誉を担った。でも、あまり長くは一緒にいられなかった。マリー・ルイーゼ様がパルマへ行くことになって、僕の両親も、一緒に行かなくちゃならなかったんだ。もちろん、僕も」


エミールはため息を付いた。


「ローマ王は、気の毒だった。大好きだった養育係バロネスがいなくなってしまって。ママ・キューは、生まれた時からずっと、片時も離れず、彼のそばにいた人なのに! それから、おつきのフランス人が、どんどんいなくなってしまって……」


「ついに、君もいなくなったというわけか」

アシュラが言うと、エミールは頷いた。


「パルマに着いてすぐ、僕ら一家は、パリへ帰ってきた。イタリア語ってやつが、さっぱりわからなかったしね。それにやっぱり、自分が生まれた所が、一番だ。でも、殿下は……ねえ。殿下は、どうしてる?」


「彼は、まじめになって、努力している」

「まじめ?」

エミールは笑いだした。


「僕ら、家庭教師のおじさんたちをからかうのが、大好きだったんだよ! 僕が、絨毯の上をごろごろ転がると、殿下は椅子によじ登るし。殿下は、口うるさいおじさんを、言い負かすことだって、できたんだ!」



「エミール。思い出話は、そこまででいい」

無言でグラスを口にしていたユゴーが言った。

「アシュラといったな。もうわかったと思うが、私達は、ボナパルニストだ。革命の精神を重んじ、ナポレオンの遺訓がこの国に蘇ることを悲願としている。我々は、ナポレオン2世の帰還を、心待ちにしているのだ」


「ナポレオン2世? 帰還?」

とんでもないことだと、アシュラは思った。

「あんたら、それだけの準備ができているのか? 中途半端に、フランソワをフランスへ返せるものか。下手に動いたら、ブルボン家の連中に暗殺される危険だってあるんだぞ。それに、ボナパルニストは、急進的な共和派と組んでいると言うじゃないか……」


 もはや、純粋なナポレオン派というものは、存在しないのでは、というのが、ウィーンの識者たちの見解だった。ブルボン王朝へ不満を持つ者に、ボナパルニストが利用されている可能性も否定できない。


 「準備ができているかと聞かれると、まだできていない、としか答えようがない」

堂々と、ユゴーが答えた。

「ボナパルニストの中には、共和派と組んでる連中がいることも事実だ。だが、それでも、私達は待ち望んでいるのだよ。ナポレオン2世が、この国に帰ってきてくれることを!」


「それが、ローマ王自身の為なんだ」

傍らからエミールが口を出す。

「君の国は、彼を、政治利用している。彼を差し向けるぞ、と言われると、どの国の君主も、オーストリアに逆らえない。欧州は今、どこの国も、民族運動の情熱が、熾火のように燻っている。ナポレオン2世の存在は、革命の精神、そのものだ。彼を迎えることができたなら、民族運動の炎は、一層激しく、燃え盛るだろう」


「だが、もし、彼に、そうした政治的価値がなくなったら、どうなる?」

ユゴーが引き継いだ。

「君主の力が、民族主義を鎮圧することに成功したら。でも、民衆を永遠に、完璧に抑え込むことなんか、できるものか。ナポレオンの息子は、どこの国にとっても、脅威だ。君主政治にとって、彼は、厄介な邪魔者でしかない。現に今、ナポレオン2世の存在は、ウィーン体制の、重大な綻びとなっている」


 ……宰相は、プリンスのことを……ひどく嫌っておられる

 アポニー大使の言葉を、アシュラは思い出した。

 オーストリア宰相、メッテルニヒは、フランソワを憎んでいる……。


 「ローマ王は、フランスへ帰ってくるのが、一番だ。どうしたって、この国は、彼が生まれた国だ。彼の母国はフランスなんだよ。僕たちは、彼の帰還を、心待ちにしている」

 エミールが言った。


 うつむき、アシュラは答えなかった。

 答えられなかった。


「まあ、いいさ。今はまだ、その時ではない」

ユゴーが肩を竦める。次いで、鋭い目でアシュラを見つめた。

「君は、我々との会見を、秘密警察の上司に告げるのか?」


「言わない。口が裂けても」

 それは、フランソワの可能性を潰すことになると、アシュラは考えた。


 ユゴーは頷いた。

「信じよう。お前はどう思う、エミール」

「僕は、最初からだ」

「……だそうだ。なあ、アシュラ。ナポレオンの部下達は、相応に年を取ってきた。もはや、戦いを好まない者も多い。だが、革命は未だ、未完成だ。だから私達は、私達の世代の革命をやり遂げる。君の言う、準備も、整えていくつもりだ。ナポレオン2世を連れ戻す為のね! いつの日か……、いつの日か必ず、彼を迎えに行く。そのことを、殿下に、伝えてくれないか」


「約束はできない」

アシュラは言った。


 とりもなおさず、それは、フランソワの危険に繋がるからだ。

 彼は、外からの情報を、完全に遮断されている。それなのに、フランスの事情を知っていたら、外部との接触を疑われる。祖父の皇帝の信頼を失い、大公方も、もはや味方にはなってくれまい。

 そうなったら、メッテルニヒの思う壺だ。フランソワは、彼の喉に刺さった棘、ウィーン体制の邪魔者なのだ。


 ……それに。

 アシュラは思うのだ。


 フランスへ帰る可能性は、あってもいい。

 だが、父親の影を引きずって生きることが、本当に、フランソワにとって、幸せなのだろうか……。


 黙り込んでしまったアシュラをユゴーが見下ろした。

 「ウィーンでは、君の仲間の秘密警察は、検閲を敷いているのだろう? だが、私達に連絡を取るのは、簡単だ。レオポルシュタットの裏通りに、シャラメ書店という、小さな本屋がある。そこの親父に、メッセージを預けるといい」


 「ローマ王、万歳!」

不意にエミールが叫んだ。

「これ、僕らの暗号パスワードだったんだ。夜、寝る前の。僕が退出しても、安心して眠れるようにね! 殿下がフランスへ帰ってきたら、僕らは喜んで、彼の元へ、馳せ参じる」


 不覚にも、熱い塊が、喉の奥からこみ上げてきた。

 立ち上がり、アシュラは帽子を被った。力いっぱい、その縁を、下におろした。







エミールは、2章「お別れ」に登場しています。彼については、子ども時代の記録しか、残っていません。

ユゴーのファーストネームは、ヴィクトルです。そして、かの文豪と、かなり共通点があります。こちらのユゴーは、実在のユゴーと、パラレルの人物だと、ご理解下さい。

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