ユゴーとエミール 1
フランスの空を馳せる日差しは、夏の日差しに変わっていた。
オーストリア大使館に数日通い、アシュラの仕事は終わった。
明日は、帰国という日。
宿舎へ変える道を歩いていると、後ろから近づいてくる者がある。
アシュラが足を早めると、そいつも早足になる。アシュラがゆっくり歩くと、途端にペースを緩める。
振り返ると巧みに姿を隠し、姿を見せない。
……つけられている?
フランスには知り合いはいない。いるとしたら、あのエステルハージ家の御曹司、モーリツくらいのものだが、彼は今、どこぞの城で、ブルボン王家の接待を受けている。
大使館から馬を借りて、明日は、アシュラ1人で帰国する予定だった。
大きな栗の木陰へ入った。そのまま前へ進むと見せかけて、木の裏側へ回る。
慌てた足音が、ぱたぱたと駆けてきた。
……体重は重くない。
格闘になっても、なんとかなる、と、アシュラは思った。
木の前を通過した頃を見計らって、その前へ姿を現した。
「僕に何か用かい?」
木靴の踵から煙が出そうな勢いで、相手は立ち止まった。
栗色の髪に、焦げ茶の目。思ったとおり、小柄な体躯をしている。同じ年頃か、少し上くらいの青年だった。
「ああ、あ、あ」
「あ」しか言わない。驚いたように口をぱくぱくさせている。
「名乗れ」
鋭く、アシュラは命じた。その気迫に気圧されるように、青年は答えた。
「エミール。エミール・マドレー」
「俺は、……」
「君の名前は、アシュラ・シャイタン。オーストリアから来た」
予想がついていたことではあったが、改めて自分の名前を口にされ、アシュラは不快を感じた。
「なぜ、知ってる」
「大使館からつけてきたから」
堂々と言い放つ。アシュラは呆れた。
「つけてきた? なぜ?」
「君が、ローマ王の付き人だからだ」
「お前……」
ローマ王とは、ライヒシュタット公フランソワの、かつての呼び名だ。
まだフランスの王子だった頃、帝国の跡取りという意味で、こう、呼ばれていた。
「怒らないで、アシュラ」
発音しにくそうに、エミールは叫んだ。
「大使館の使用人に聞いたんだよ。ウィーンから、ローマ王の付き人が来てるって」
人の良さそうな顔が、焦りでいっぱいになっている。その顔を見ていると、さっき心に湧いた不快さが、みるみる消えていった。かわりに、無性におかしくなってきた。
だが、まだ、心を許すわけにはいかない。アシュラは、こみ上げてくる笑いを噛み殺した。
「別に怒ってはいない。それから、誤解があるようだから言っておくが、俺は、ライヒシュタット公の、付き人などではない」
「え? 違うの?」
「違う。俺は、秘密警察の者だ。ライヒシュタット公の密偵をしている」
「密偵?」
「つまり、公の身の回りを探っているのさ。怪しいやつが接触してこないように」
見るからに、しまった、という表情を、エミールは浮かべた。
「忘れて。僕のことは、すっかり忘れちゃって」
「はあ?」
「だから、今の会話は、なし。君と僕は、出会わなかった。じゃね」
言うだけ言うと、返事も待たずに、アシュラに背を向けた。もと来た道を、すたすたと歩き出す。
猛スピードで離れていく背中を、アシュラは、呆れて見送った。
*
確かにパリの一画であるのだが、ひどく物寂しく、村のようでもあり、しかし、背の高い建物や街路があって、町のようでもある。
高い壁で遮られた菜園の前を過ぎ、汚い土蔵の壁を通り過ぎると、人気のない廃工場の前に出た。その工場のすぐ脇に、2つの庭に挟まれて、一軒の家があった。
人が住んでいるとは信じられない、あばら家である。
粗末な木の扉を開け、エミールは入っていった。狭く急な階段を登りきると、この廃屋には不似合いな、丈夫なドアが現れた。軽くノックをすると、内側から開いた。
「早かったな、エミール」
額のあたりに青春の気配を残した男が、顔を出した。
エミールの後ろを窺う。
「どこだ? その人は」
「ごめん、ユゴー」
エミールは身を縮めた。
「勘違いだった」
「勘違い?」
「つまり、彼は、ローマ王の付き人なんかじゃなくて……」
「……密偵だった」
階段の途中の暗がりから声が聞こえ、2人は、飛び上がった。
ゆっくりと、アシュラが、階段を上ってくる。
「げ」
喉の奥から、エミールが変な声を出した。その彼を、ユゴーが睨む。
「エミール、お前、つけられていたな」
「ああ、なんてことだ。ごめん。ごめんよ、ユゴー」
「さあ、話してもらおうか」
階段を登りきり、アシュラは言った。
「あんたら、ライヒシュタット公に、何をしようとしてるんだ?」
「ライヒシュタット公? 汚らしい響きの名前だな」
ユゴーと呼ばれた男が言った。
アシュラの顔が、不快そうに歪む。
「畏くも、わが国の皇帝が賜った名だ。侮辱すると、許さないぞ」
「汚いから汚いと言ったんだ。ナポレオン2世。これでいいだろ?」
「よくない! ライヒシュタット公は、オーストリアのプリンスだ」
「プリンス! よく言う!」
ユゴーが鼻で笑った。
「ウィーンから、一歩も出さないで。偉大なる父親のことを、悪しざまに罵って。それで、プリンス?
「うるさい!」
アシュラは怒鳴った。
反撃できないからだ。事実を指され、彼は、言い返すことができない。
代わりに、喚き散らした。
「だいたい、お前らは何だ! フランソワに何をしようというんだ!」
「フランソワ?」
すばやくエミールが聞きとがめた。
「君は彼を、そう呼ぶのかい?」
しまった、と、アシュラは思った。
アシュラは、彼から、フランス語で呼ぶよう、言われた。
文法はハチャメチャなくせに、発音だけは美しいフランソワは、本当は、ドイツ語よりも、フランス語を愛していた。そのことを、アシュラは知っていた。
エミールの焦げ茶の瞳が輝いた。
「君は、ローマ王の友達か?」
「友達? 馬鹿な。身分が違う」
「なら、聞き直そう」
ユゴーが口を出した。
「君は、ローマ王の味方か」
「……」
相手の意図がわからない。アシュラは唇を噛み締めた。
「違うよ、ユゴー。こう聞くんだよ」
エミールが、年上の男を押しのけた。
「アシュラ。君は、彼のことが、好きかい?」
「へ?」
アシュラは、口を半分開けたまま、黙り込んだ。
しつこく、エミールが繰り返す。
「好きか嫌いかと、聞いているんだ」
「すすすす、」
嫌いではない。だが、好き?
好きとは?
「知るか!」
アシュラは叫んだ。
「うん、わかる」
ユゴーが頷いた。
「君は、彼が、大好きなんだな」
「ど……どうして、そうなる」
ユゴーが首を傾げる。
「嫌いなのか?」
「いや、そうでは……」
「うむ。本当に好きな人のことは、人前では言いにくいものなのだ」
「いや、ユゴーって言ったっけ? あんた、おかしい」
「おかしいだと? 失礼な。恥ずかしがらなくていい。いやしくも、男が、その一生を捧げる
一人頷く。
「私も、よもや自分が、ナポレオンに心酔するようになるとは、思いもよらなかった。うちは、母上が、根っからの王党派だったからな。しかし、父上は、筋金入りのボナパルニストだ。ナポレオンの軍人でもあった。主義主張の違う2人のせいで、家庭内は常に、風雲急を告げ……」
「ねえ、階段のてっぺんで話してると危ないよ。入ったら?」
一人さっさと部屋に入り、エミールが呼んだ。
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