ナポレオンの遺品 2
*
「何かあったか?」
日が落ち、大使館に
「全て、目録通りです」
アシュラは答えた。
嘘ではない。
「だろうな」
せかせかと、アポニー大使は頷いた。
「武器も馬具も陶器類も、何の異常は見当たらなかった。書籍は、400冊もあって、少し厄介だが、これも、順調に、調べが進んでいる。特に不審な点はないそうだ」
「僕の調べた雑貨も、目録通りでした。余分な品も、不足している品も、ありません」
「書き込みやメモなんかも?」
「ありませんでした」
「よろしい」
アポニーはため息をついた。
「英雄の考えることは、よくわからないな。彼は息子に、何を残したかったのだろう」
「お金じゃないことは、確かですね」
「ナポレオンは、財産といえるものは、全て、部下に託したからな」
アポニーは頷いた。
「皇帝としては立派かもしれないが、父親として、どうかと思うよ。息子の養育に対して、全く、無責任だ」
ナポレオンの息子、フランソワは、父からは、いわゆる「ガラクタ」の他に、何も相続しなかった。
母の
フランソワの養育は、全て、
ウィーン会議の前後、祖父の皇帝は、孫に渡されるべき資産を求め、辛抱強く、フランス政府と交渉を重ねた。
フランスに残されたナポレオンの私的不動産、及び、ルイ18世が払うとパリで合意した年に10万ポンドの年金などである。
この仕事は、本来、ナポレオンの妻であり、フランツの母である、マリー・ルイーゼの仕事だった。だが、彼女はこれを、自分の父親に丸投げしたのだ。
もちろん、ブルボン王朝は、ナポレオンの息子に、びた一文、支払わなかった。
祖父の皇帝は、意外にあっさりと、請求を諦めた。
そして、オーストリアにライヒシュタット公爵家を創設し、「大公」位に次ぐ身分と収入を、孫に授けた。
「殿下は、
アポニーは言った。
「ゆめゆめ、オーストリアに弓を引くようなことはなさらないだろう。……たとえ、フランス王となられても」
はっと、アシュラは目を上げた。
「そのような話が?」
「君は、ボヘミアについて、何か知っているか?」
アポニーが尋ねた。
「ボヘミア?」
「ライヒシュタットというのは、ボヘミアの地名なんだよ」
「そうなんですか!」
ライヒシュタットというのは、ボヘミアにある、ハプスブルク家の領土(現ザークピ)の名称である。
きょとんとしているアシュラを、アポニーは、ちらりと見た。
さりげない口調で、続ける。
「ボヘミアには、フランス人が多い。なぜだかわかるか?」
「……さあ?」
「フランス革命の折、王党派の貴族達は、フランスから逃れ、
「フランス人が多く暮らす、土地の名前を……
しかも彼らは、思想的な疑いをかけられている。
「ナポレオンの息子に、ライヒシュタット公の称号を贈る。皇帝は、何をお考えなんだろうね」
「もしかして、皇帝は、プリンスを、フランス王に……?」
「
あっさりと、大使は答えた。
「宰相はもちろん、皇帝の腹積もりなどお見通しだ。そして宰相は、プリンスのことを……ひどく嫌っておられる」
「え?」
生々しい言葉だった。
嫌い……、政治的に邪魔とかではなく?
「なにしろ、宿敵、ナポレオンの息子だ」
「でも……、だからといって……」
「彼は、宰相が描かれた一幅の絵の、小さなシミなのだよ。欧州平和という、美しい絵の。そのシミが、大きくなり、やがては、絵全体を破壊することを、宰相は、恐れている」
「そんな……。プリンス自身は、何も悪いことはしていないのに?」
「殿下は、むしろ、努力されているな。誰からも後ろ指をさされないように、そして、一刻も早く一人前になろうと。……彼が、軍務に邁進されているのは、そういうことだ」
「それなら、なぜ? なぜ、宰相は、プリンスを、そんなにも邪魔にするんです?」
「それが、年を取るということだ。年齢を重ね、人は、臆病になり、卑怯になる。若い頃に得た成果だけを守ろうとして、回りが見えなくなってしまう」
きっぱりとアポニーは言った。
「そうならないうちに、退くことができる者は、幸せだ」
「プリンスは、ここに持ち込まれた遺品を、ひとつも受け取ることができないのですか?」
改めて、アシュラは問うた。
アポニーは頷いた。
「それが、宰相からの命令だ。遺品を受け取るどころか、彼は、ここに集結した品々が自分に遺されたことを、知ることもなかろうよ」
いや、フランソワは知っている、と、アシュラは思った。
彼はそれを、活字を通して知った。
図書館でフランソワは、アントマルキの『回想記』に接した。
遺書には、16歳になるのを待って、遺品を届けよと指定されていた。それらの品々は、ただ、父親を思い出す
16歳になった今、父の遺品が、自分に届かないことを、彼は、どのように思うだろう。それらの品々には、政治的な駆け引きの介入する余地はない。「ガラクタ」という言葉からもわかるように、どれもこれも、極めて、個人的な思い出の品ばかりだ。
彼が、父の臣下を疑うことはないように、アシュラには思えた。遺品が届かないことを、遺言執行人の怠慢、もしくは、忘却と判断することは、恐らく、ない。
フランソワには、父の在命中、一通の手紙さえ、届かなかった。
さらに、彼は、大司教であり枢機卿にも選出された、叔父のルドルフ大公さえも、疑うようになっている。馬車に投げ込まれた、彼宛ての
「どんなに些細なことでも、ナポレオンと関係するものには触れないことだ。それが、プリンスの為なんだ。たとえ皇帝がどんな腹づもりでおられても、宰相が反対する限り、……その計画に、未来はない」
アシュラの目をしっかりと覗き込んで、アポニー大使は言った。
※
メッテルニヒに邪魔され、「ローマ王」へ渡すことができなかった遺言執行者達は、これらの遺品の品々を、ナポレオンの母、レティシアの元に届けました。
現在は、ナポレオン公(ナポレオンの末弟ジェロームの子孫)の所有となっています。
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