ナポレオンの遺品 1
パリの、オーストリア大使館は、大勢の人や梱包された荷物で、ごった返していた。
「書籍はこっち。武器は別館へ。いい! 見せてくれなくて! 危ないから、荷を開くんじゃない! おい、それは、何だ? 馬具? そんなもの、建物の中に入れるんじゃない!」
人混みの中で、フロックを着た男が、仁王立ちになって叫んでいる。
オーストリア大使のアポニーだ。ひどく背が高いと思ったら、台の上に乗っていた。
アポニーは、立ち竦んでいるアシュラの姿に気がついた。
「なんだ、お前は! お前はいったい、どんながらくたを運び込んできたんだ?」
「アシュラ・シャイタン」
「ああ?」
「ウィーンから来ました」
「ああ!」
アポニーは、人を寄越すように本国に要請したことを、思い出したようだった。
「また、えらく若いな。ノエはどうした? だが、まあ、いい。猫の手も借りたいくらいなんだ」
在フランス大使は台から降り、アシュラの前に立って歩き始めた。
「書籍と武器は、専門家を呼んだ。暗号解読の専門班と、軍人だ。メダルや食器は、執事とメイド達が、総出でひっくり返している。馬具は、馬丁が調べている。だが、厄介なのは……」
歩きながら、説明をする。
「ナポレオンの第一侍従、ルイ・マルシャンが持ち込んだ品々だ。とにかく、雑多なんだ。一言で言えば、ガラクタだな。君には、そのチェックを頼みたい。不審な書き込みはないか、新しいメモが挟まってたりしないか。目録と突き合わせて、しっかりチェックしてほしい」
アシュラは頷いた。
廊下の端の小部屋に行き着いた。
窓を閉め切った部屋の中は、むっとする熱気が立ち込めている。箱や鞄が、所狭しと押し込められていた。
横たえられた木箱に腰を下ろして汗を拭っていた男が、立ち上がった。アシュラと似たような、着古した服を着ている。
ナポレオンの侍従の、マルシャンだ。
「アポニー大使! いったいいつになったら、私達は、ウィーンへ行けるんです?」
口をとがらせ、マルシャンが詰め寄った。だが、アポニーは、平然と拒絶した。
「ですから、旅券は下りないと言ったでしょ?」
「それでは困ります。我々は、
「ローマ王! 今、その名を使う人はおりませんよ。ライヒシュタット公は、オーストリアの皇族です」
「あなた方がなんと呼ぼうと、彼こそが、ナポレオン2世、皇帝陛下の息子であることに、代わりはありません!」
殆ど絶叫するように、男は叫んだ。
アポニー大使は、肩を竦めただけだった。
「ムッシュ・マルシャン、暫く別室でお休み下さい。その間に、アシュラ。君は、なすべきことをなせ」
遺言執行者を連れ出すから、その間に、荷物のチェックをしろというのだ。
マルシャンは、じろりと、アシュラを見た。
「この者は、なんだ?」
「お気になさるほどの者ではございません。なに、ちょっと室内の換気をさせるだけですよ。この部屋は、暑いですからね」
薄く笑って、アポニーは、マルシャンを促した。
「さ、涼しいお部屋でお休み下さい。我らが皇帝が、もてなしの面で悪く言われることを、オーストリア大使として、許すわけには参りませんのでね」
親しげにマルシャンの肩を叩いて、アポニーは、後ろ手にドアを閉めた。
アシュラは、一人、蒸し暑い部屋に取り残された。
3つのマホガニーの収納箱の鍵は、外されていた。
嗅ぎたばこや望遠鏡、衣類、時計、鏡……。
それらを、ひとつずつ、アシュラは、手にとって、調べてみた。
どれも、渡された目録に載っている。不審な書き込みも見当たらない。
とにかく、暑かった。だが、箱を開けたままで、窓を開けるわけにはいかない。埃や湿気が心配だ。
髪の毛で編まれた鎖が、ちらりと見えた。目録によると、フランソワの母、マリー・ルイーゼの髪だという。時間の経った物なので、外気に晒すのは、ためらわれる。
その隣の嗅ぎタバコ入れには、メダルがいっぱい貼り付けられていた。装飾のメダルが剥がれそうで、怖い。
どれも、本人とその家族以外には、たいして価値のなさそうな品ばかりだ。こんなものを後生大事に保管していた、侍従が、気の毒に思えるほどだった。
これらの遺品を通して、ナポレオンは息子に、何を伝えたかったのだろう。3歳になる直前に別れた、まだどんな人間に育つかもわからない、自分の息子に。
だが、フランソワが、これらの品々を受け取ることは、永遠にない。アシュラ自身も、秘密警察官として、ここでの話を彼にしてはいけないのだ。
そう思うと、ガラクタばかりなのが、かえって、有難かった。手の汗を拭いながら、アシュラは、仕事を続けた。
「1815年3月20日」と、日付のは入った小箱が、4つあった。
目録を見ると、「テュルリー宮殿の、ルイ18世のテーブルの上で見つけた」
と、但書がついている。
恐る恐る、箱を開けてみた。
1つ目の箱は、空だった。
2つ目……、これも空だ。
3つ目も。ただ、この箱には、大急ぎで開けたような、ひっかき傷がついていた。
肩透かしを喰った思いだった。
ナポレオンは、何かのジョークを仕掛けたのだろうか。大きくなった、顔も知らない、息子に?
4つ目の箱も、軽かった。持ち上げても、何の音もしない。期待をせずに開けてみて、アシュラは目を見張った。
中に、小さな丸い粒ひとつだけ、入っていた。
……丸薬?
実際それは、彼が、ウィーンから持参した、下痢止めに似ていた。
フランスへ行くと聞いて、シューベルティアーデの仲間が、持たせてくれたものだ。
……慣れないものを食べると、お腹を壊すからね!
身内に医者がいるという友人は、そう言って、笑った。
ナポレオンがフランソワに残した丸い粒は、鼻を近づけてみると、ほんのりと、乾燥した草の匂いがする。その匂いまで、下痢止めの丸薬と似ている。
箱には内張りがしてあった。それで、揺れても、音がしなかったのだ。
アシュラは、しばし、考えた。
この丸い粒は、自分が持っている下痢止めと、本当によく似ている。
マルシャンという侍従は、
たとえ、開けたことがあったとしても、よもや舐めたりはしていないだろう。
……もしかして、自分は、フランソワに、父親の形見を持って帰れる?
職務規律に反することは、よく理解している。
時間が迫っていた。マルシャルは、未だにナポレオンを崇拝しているようだった。いつまでも、主の遺品から離れているとは思えない。
ほとんど、衝動的な行為だった。
アシュラは手早く、箱の中の粒を、ハンカチーフにくるんだ。空になった箱に、仲間から貰った丸薬を一粒、入れる。素知らぬ顔をして、箱を閉めた。
間一髪だった。
マルシャルが帰ってきた。
※ナポレオンの遺書は、その抄訳が、2章「息子へ……」に掲載されています。
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