遊び人の貴公子
*
水飲み場で馬に水を飲ませていると、ひどくいかめしい男が、傍らに立った。
「アシュラ・シャイト」
エステルハージ家の家令だ。
諸般の都合で、フランスへの旅は、エステルハージ家と同行することになった。
折よく、エステルハージ伯爵夫人、マリー・フランソワーズが、フランス王室に招聘された。
その一行に、同行させてもらうことになったのだ。
主に、秘密警察の、経済的な理由からだ。大貴族と一緒の旅なら、宿泊費も食費など、諸経費が浮く。馬も、貸してもらえた。
初老の家令は、冷たい目で、アシュラを見下ろした。
「ここからお前は、馬車に乗れ」
「馬車?」
アシュラは目をむいた。
エステルハージ家の貸してくれた栗毛が、気に入っていた。穏やかな気性で、乗り手のいうことをよく聞く。ウィーンに残してきた
「口答えは許さぬ。ついて来い」
家令は言い放つと、先に立ってあるき出した。アシュラを、先頭の馬車に連れて行った。
家令は、キャリッジの扉を、恭しくノックした。微かに返事が聞こえると、扉を開け、強引にアシュラを中に押し込んだ。
「やあ」
車内には、青年がいた。
アシュラより3つ4つ上くらい年上か。
濃い色の髪が顔を豊かに縁取り、鼻筋が通っている。少し窪んだ目の底で、瞳が輝いている。
「僕は、モーリツ。モーリツ・エステルハージだ」
「えっ!?」
アシュラは驚いた。
エステルハージ家は、この国で、1~2を争う、大貴族である。ハンガリー出身で、シューベルトが音楽講師を務めた令嬢も、この一族だ。
モーリツは、今回、フランス王室に招かれたマリー・フランソワーズの息子だった。
せいぜい、侍従と同乗させられるのだと思っていたのに、まさか、主人の馬車に乗せられるとは。
その時、馬車が、がくんと揺れた。つんのめり、座席に手を付いて、危うく体を支えた。
おもしろそうに、モーリツは笑った。
「早く座れよ。馬車が走り出すぜ」
慌てて、アシュラは、対面の座席に腰を下ろした。
「そんな端っこに座らないで、もっとこっちに寄れよ」
「……」
無言で、アシュラは、
どうもこいつには、企みがありそうだ。
それも、腹黒い……。
「お前、秘密警察官なんだってな」
相変わらず、不愉快な笑いを口元に浮かべ、モーリツが言った。
アシュラは頷いた。
アシュラの身元については、おべっか使いのセドルニツキ伯爵から、詳しく報告が行っているはずだ。
「名は?」
「アシュラ・シャイタン」
貴族にとって、秘密警察官の名など、覚えるに値しないんだろうと、アシュラは不快に思った。
それきり会話は途絶えた。暫くは2人、無言でいた。
馬車は軽快に、フランスへ続く街道を走っていく。
「全く、時間が掛かる」
モーリツがこぼした。
「だが、母上が一緒だから、仕方がない。ご無理はさせられない。それに、婦人の旅行だからな。あっちこっち見物がてら、ゆっくり進むんだ」
なおもぶつぶつと、モーリツはこぼした。
「パリからウィーンなんて、馬を飛ばせば1週間だ。ハンガリーの竜騎兵なんぞは、5日と11時間で、到達した」
「5日と11時間! それは凄い!」
思わず、アシュラはつぶやいた。
「伝令だったんだ。ハンガリー竜騎兵は、わが国皇帝直下だからな。そりゃ、優秀さ」
一体、どんな重要な知らせが、もたらされたのかと、アシュラは好奇心が湧いた。
モーリツが、にやりと笑った。
「ナポレオンに、男の子が生まれたと……つまり、ライヒシュタット公のご生誕の報告さ」
「あ……」
思いがけないところで出てきたその名前に、アシュラは身構えた。
今回、フランソワには何も言わずに、出発してきた。
もともとスパイなのだから、何と断っていいのか、わからなかった。暫くあなたの監視を休みます、と予告するのも、変な話だ。
家庭教師のディートリヒシュタインに勉強のし過ぎを咎められるようになったフランソワは、遊びに出ることもなくなっていた。舞踏会もつまらないなどと言い出して、本ばかり読んでいる。
その殆どが、ナポレオン関連の書籍であることを、アシュラは知っていた。
モーリツの目が、真面目になった。
「君は、彼につけられた、
「……」
無言で、アシュラは相手を睨みつけた。
「そんな怖い顔をするなよ」
軽薄な調子に戻って、モーリツは続けた。
「僕は、何度か、君を見たことがある。君はいつも、彼のすぐ近くにいた。まるで影のようにね。何かあったら、すぐに駆けつけることができる距離だ。彼は、まるで、君がいないように振る舞っていた。でも、本当に君がいなくなくなると、きょろきょろ探してるんだ。だから、てっきり、彼の護衛だと思っていた。それが、まさか、秘密警察官だったとは!」
「ライヒシュタット公に、不審な輩が接触しないか、見張っている」
「ふうん。いいのか。長いこと、ウィーンを留守にして」
もちろん、アシュラだって不安だった。だが、彼には、常に、家庭教師がついている。ディートリヒシュタインもフォレスチも、元軍人だ。そして何より、プリンスのことを、真剣に考えている。
彼らがいれば、プリンスの身の安全は守られる。そう、自分に言い聞かせて、アシュラは、ウィーンを発った。
だが、そんなことまで、
「ライヒシュタット公は、大人になり、自覚を持たれた。彼は、立派な、オーストリアのプリンスだ。悪いやつが接触してきても、自ら、斥けられるだろう」
「本当にそう思うのかい?」
「何を……」
思わず、アシュラの目が尖った。
モーリツは、笑いだした。
「だから、怖い目をするなって。困ったなあ。変に警戒心が強くて。僕は、君に頼みがあるんだ」
「頼み?」
……不審極まりない。
アシュラは警戒した。
「つまり、……言いにくいな」
ぼそりと、青年貴族は言葉を濁した。
鋭い目で見やって、アシュラは先を促した。
モーリツはしばらくためらっていた。
やがて、思い切ったように、口を切った。
「彼を、紹介してほしい」
「は?」
「僕は、彼と友だちになりたいんだ。彼は、君を信用しているようだから……、」
「あんた、エステルハージ家の子息だろう。だったら、父親に、紹介状でもなんでも、書いて貰えばいいじゃないか。しがない秘密警察官をあてにしなくたって」
「それが、父が、しぶるんだ。やっとのことで書いてもらったけど、何の音沙汰もない。どうやら、家庭教師が握りつぶしたらしい」
「遊び人の御曹司って、あんたのことか!」
思わず、アシュラは叫んだ。
「ウィーンの悪所には、大抵、出入りしているという!」
……以前、ディートリヒシュタイン伯爵がそんな話をして、警戒していた……。
「遊び人の御曹司? ひどいな」
言葉とはうらはらに、モーリツは、にやにやしている。
アシュラはむっとした。
「プリンスを、遊びに連れ回すつもりだな?」
「いけないか? 彼は、外へ出るべきなんだ。宮殿に篭りきりじゃ、不健康だ」
「……」
「あの子、ハンサムだし、声は甘くて優しいし、血筋もいいし。モテると思うんだよなあ。城にじっと籠もっているなんて、もったいない」
「……」
「背だって、ぐんぐん伸びてるし。ほっそりしてて優美だし」
「……」
「紹介しろよ。頼むよ」
「……わかった」
「女の子が放っておかないと思うんだ。あれだけの容姿に恵まれていて、それなのに全く遊ばないなんて、罪だと思わないかい?」
「思うよ」
「おまけに教養も……え?」
「だから、俺も、そう思う」
「なんと、」
モーリツは目をむいて、アシュラを眺めた。
「君も、僕と同じ意見とは。それなら、彼を、僕に紹介してくれるんだね?」
アシュラは頷いた。
「プリンスがどうなさるかわからないけど、とりあえず、引き合わせることだけはしよう……そのうち」
「君、案外、話のわかるやつだな」
フランソワは、もっと外に出るべきだというのは、アシュラも同じ意見だった。
同世代の友達を作れるよう、実際に連れ出したこともある。
純潔の尊さについて説教され、全くの完敗に終わったが。
「そのかわり、俺も、あんたに、頼みがある」
「ほう。言ってみろ」
鷹揚に、モーリツは笑った。両腕を広げ、背もたれに寄りかかる。
「あんた、ブルボン王室に招かれたんだろう? 奴らに言ってやれ」
「フランスの王室に? 何て?」
「ライヒシュタット公の命を狙うな!」
モーリツは言葉を失った。
その彼に、アシュラは、今までにあった、不審な出来事を話して聞かせた。
ライヒシュタット公爵家の馬車の、傷んだ車軸。
馬丁の死。そして、彼に接触した人物の持っていた、百合の花の紋章のついた葉巻入れ……。
「そんな……そんなことが。だって、宰相は……政府からは、何の報告もなかったじゃないか」
アシュラが話し終わると、モーリツはつぶやいた。
蒼白な顔をしている。
「ライヒシュタット公は、わが国宰相の、『喉に刺さった棘』なんだそうだ」
吐き捨てるように、アシュラは言った。
「メッテルニヒは、彼が殺されるのを待っているんだ」
「今回、アングレーム公爵夫人に招かれたのは、母なんだ。僕は、添え物にすぎない」
モーリツは言った。
アングレーム公は、今のフランス国王シャルル10世の長男だ。その夫人と、モーリツの母親は、若い頃からの親友だという。
「僕に何ができるかわからない。だが、せいいっぱい、探ってこよう。そこは、君ら、秘密警察には、負けないつもりだ」
アシュラの目を、まともに見つめてきた。
「だから、君も、彼への橋渡しを、頼む」
「わかった。プリンスには、友達が必要だ。ただ……、あんまりひどい所へは、連れて行くなよ」
「当たり前だ」
「女と引き合わせるのは、はむしろ歓迎だ。だが、絶対、
「注意する……じゃなくて、注意させる」
「朝帰りはまずい。帰りが遅いと、家庭教師がパニックになる。それと……」
「……なあ」
ぼそりと青年貴族はつぶやいた。
「僕ら、プリンスの話をしてるんだよな。16歳の貴公子の。なんだかこれから、深窓の令嬢をたぶらかすような、いけない気持ちになってきた」
「俺も、
アシュラもぼやいた。
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