切り裂き伯爵 セドルニツキ


 「旦那。あっしの罪は、何だってんです? 何であっしは、秘密警察に引っ立てられたんです?」

 みすぼらしい身なりの男が言った。

 ウィーン在住のパン屋だ。


 秘密警察長官、セドルニツキ伯爵は、書類から目を上げた。

「お前、口笛を吹いたろ」

「口笛?」

「酔っ払って、いい気分で演奏してたよな」

「ああ! あれは、酒場の女の子が教えてくれたんすよ。フランスの歌です。オシャレでがしょ? でも、あっしはフランス語ができないから、曲だけ覚えて……、」


「『ラ・マルセイエーズ』を、公衆の面前で、口笛で吹いた罪。有罪!」


「えっ! あれ、『ラ・マルセイエーズ』だったの? つか、『ら・まるせいえいず』って何……?」


「しらばっくれるな! こいつを収監しろ!」

セドルニツキ伯爵が叫ぶと、制服を着た警官が入ってきた。


「え、え、え? 警官? なんで! あっしは、口笛を吹いただけなのに!」

 屈強な二人の警官は、騒ぎ立てる男を、あっという間に、連れ去っていった。



 「よし。次!」

入ってきたのは、流行の服装に身を包んだ、小太りの紳士である。

 立ったまま、上からじろりとセドルニツキを見下ろす。


 長官は、ため息を吐いた。

「また、お前か……」

「はい、また、私ですよ」


 ブルク劇場付きの脚本家、ナンデンカンデンである。

 彼の書く芝居は皮肉な精神に富んでいて、ウィーンの民衆に、人気があった。


 セドルニツキは、眉を顰めた。

「何か、不服でも?」

問いかけると、機関銃掃射のような答えが返ってきた。

「だから、筋は変えられません! 『リア王』は、あのままでいきます!」


「ダメだ!」

負けずにセドルニツキも怒鳴り返す。こと任務に関しては、一歩も譲る気はない。

「あのドラマは陰惨過ぎる! 家庭の悲劇は、善良なるウィーン市民には、刺激が強すぎるのだ。結末を変えるべきだ」


「シェークスピアの作品の結末を、変える? 冗談じゃない!」

脚本家は金切り声を上げた。

「そんなことしたら、私は、イギリスに対して、顔向けできなくなる!」


「イギリスだぞ? そんなことはしなくていい」

「かの国の文学、ひいては、世界の文学に対してだ! 優れた文芸作品の結末を変えるなんて、そんな野蛮な暴挙が許されるものか!」


「できないなら、この私がやってやろうか」

早くもセドルニツキは、赤ペンを握っていた。  


 脚本家は、わなわなと震え始めた。燃えたぎる目で、切り裂き伯爵セドルニツキの広い額を睨みつける。

 凍りついたような時間が流れた。


 脚本家は、天を仰いだ。

「物書きとしての経歴キャリアを考えれば、こんなバカげた狼藉は、断じて、許すことはできない。だが、私には、養わなければならない家族がいる。だから、こんな愚かな命令にも、耐えねばならないのだ。ああ、なんてことだ!」


「この男を連れていけ!」

だみ声でセドルニツキはわめいた。


「命令に従うって言ってるじゃないか」

負けずに、脚本家が言い返す。

「今度は、何の罪で捕まえようってんだ?」

「官吏に悪態をついた罪だ! 警官! こいつを、留置場に放り込め!」


「期間は?」

直立不動の警察官が、無愛想に問い返す。


「そうだな。3日もくらいこんでれば、充分だろ」


「3日? そんなに長く、留守にできるものか! 私がいなければ、いったい、舞台がどうなってしまうか……」

脚本家が騒ぎ出す。


「知ったことか。官憲を愚弄したのだから、当然の罰だ。むしろ軽すぎるくらいだ」


「だから、命令を耐え忍ぶと言ってるじゃないか。意味がわからないのか? 芝居の結末を書き換えるって言ったんだよ! 愚鈍な検察官にも理解できる、能天気でハッピーなやつにな! こっちは、物書きとしての誇りを捨てて……、」


セドルニツキは、最後まで言わせなかった。

「重ね重ね、なんたる侮辱。5日だ! 留置3日では、少なすぎる! おい、警官! なにを愚図愚図している。とっとと、連れていくんだ!」


 ピシッと敬礼し、警官は、脚本家を引きずっていった。


「破滅だ! 今度の芝居は、完売御礼なんだ。今更、入場券の払い戻しなど、できない! それなのに私がいないと、……私は、舞台監督も兼ねているんだ……」


 人気脚本家の喚き声が廊下の向こうに消えると、切り裂き伯爵セドルニツキは、ほっと、息を吐き出した。

 カラーを緩め、椅子に深く座り直す。

 ふと、部屋の隅で縮こまっている、黒髪の若者に気がついた。


「アシュラ・シャイト」

れ鐘のような声で、名を呼ぶ。


 アシュラの体が、ぴりっと震えた。それでも、彼は言い返した。

「シャイトではありません。シャイタンです」

「シャイタン? 履歴書には、シャイトとあったが」

「シャイタンになったんです」

「?」


 上官の顔に疑問符が灯った。

 だが、部下の姓の変更は、彼にとって、どうでもよかった。

 再び、セドルニツキは怒鳴った。


「遅い! 3分の遅刻だ!」

「僕は、ずっと前から、ここにいました」

「口答えをするな!」


「僕は、オペラ作家と同じ時間に来ました」

「オペラ作家? どのオペラ作家だ」

「あなたが留置所に放り込んだ……、『劇に出てくる悪魔のズボンが、赤い』という理由で」

「そうだ! 実に怪しからん! よりによって、悪魔に赤いズボンをはかせるとは!」

「なぜ、悪魔のズボンが赤いといけないんです?」


上官の言うことは、絶対だ。だが、好奇心には勝てなかったらしい。恐る恐る、アシュラが尋ねた。


「なぜだって!?」

切り裂き伯爵はいきり立った。

「赤いズボンは、わが国の将軍が着用しているからに決まってるだろう! それを悪魔に穿かせるなんて、オーストリア最高位の軍人に対する、重大な冒瀆である!」


「……うげ」

 アシュラは、2~3歩、後退った。呆れたのか、怯んだのか。


「何を驚いておる。お前、俺の部下だろうが。考えても見ろ。書類穿孔せんこう機と呼ばれる皇帝陛下と、赤ペンを剣のように振り回す、検閲の騎士。なんという、素晴らしい取り合わせであろう」



 今上帝(フランソワの祖父の、オーストリア皇帝)は、ひどく真面目で実直だった。彼は、事務仕事が得意だった。上がってきた書類を、ためつすがめつして、部下のミスを探す。

 あんまりじっくり書類に目を通すので、紙に穴が開きそうだ、ということで、ついたあだ名が、「書類穿孔機」だ。



 「剣じゃなくて、ナイフでしょ」

アシュラがつぶやいた。

 セドルニツキに、ウィーン市民が奉ったあだ名は、「切り裂き伯爵」である。書籍や芝居台本に、完膚なきまでに赤字(訂正)を入れることから、この名がついた。


 セドルニツキが首を傾げた。

「ナイフ?」

「いいえ、こっちの話です」

アシュラはとぼけた。

「ところで長官。『書類穿孔機』は、我らが陛下に対する、悪口では?」


 部下に指摘され、セドルニツキは、激怒した。


「悪口ではない! 皇帝陛下の下僕しもべであるこの私が、陛下の悪口を言うわけが、ないだろう! いいか。よく聞け。たとえそれがほのめかしであっても、法律や司令や行政を批判したり、笑いものにするものは、全て削除するべきなんだ! 皇族は言うまでもなく、貴族や軍人への批判はご法度だ。それから、ウィーンの市民をたぶらかすやからも、厳しく取り締まらなければいけない。悪徳や犯罪を讃えるのは、論外。もちろん、革命を描くなど、もっての外!」


 再び、アシュラは後退った。

「僕は、なぜ、ここに呼ばれたのでしょう。いったい、何の罪を犯したというのでしょう……?」


「ああ? お前、何かやらかしたのか?」

「いいえ! ……多分。いえ、絶対!」


 開け放たれた窓から、気持ちのいい晩春の風が吹き込んできた。風は、セドルニツキの少なくなった、柔らかい髪を撫でた。

 伯爵は、表情を緩めた。


「アシュラ。お前に、フランスまで行ってもらおうと思ってな」

「フ、フランスですって? 追放ですか!?」


 もちろん彼は、母国から、一歩も出たことはなかった。

 すっかり度を失った部下を、セドルニツキは、じろりと睨んだ。


「追放? 何を寝ぼけておる。ついでに言っておくが、物見遊山でもないぞ。部下をフランスへやると、勝手に遊び呆ける奴が多くていかん。全く、けしからんことだ。いいか。これは、仕事だ。肝に銘じておけ」


「はっ、はい!」

アシュラの顔に、安堵の色が浮かんだ。畳み掛けるように、セドルニツキは尋ねた。

「もちろんお前は、ナポレオンの遺書のことは知っているな?」


 思いがけない名前だった。


「はい……」

 仕掛けられた罠を疑うように、慎重に、アシュラが頷く。

 薄い髪の縁取る額を、セドルニツキは、ハンカチでぬぐった。

「やつの遺書にあったろう。息子が16歳になったら、思い出の品を贈りたい、と」



 ……これらの品々は、私の遺言執行人たちにに託す。息子が16歳になったら、彼に渡すように。

 ナポレオンはそう言って、さまざまな品物を、息子に残した。

 息子……フランソワ……に。



「剣や拳銃などの武器は剣呑だが、後は……」

セドルニツキは、手元の書類に目を落とした。

「望遠鏡。時計。嗅ぎタバコ入れ。服やシャツ、洗面用具に、メダル。……ガラクタばかりだ。全くな。帝王ともあろうものが、こんなくだらないものばかり、残して……」

ぶつぶつ言っている。


「父親として、息子に、自分のことを思い出して欲しいと願ったのではないでしょうか」

アシュラが言うと、セドルニツキは舌打ちをした。

「遺すのは構わない。遺書を書くのもな。ナポレオンも、人の子の親だし。だがな。奴らが、もう、うるさくて」

「奴ら?」

「ナポレオンの遺言執行人どもだよ」

「なぜ今頃……、あっ!」


 アシュラが小さく叫んだ。

 この3月に、ライヒシュタット公は、16歳になったのだ。


 セドルニツキは頷いた。

「執行人共が、フランスのオーストリア大使館に押しかけて来おってな。ウィーンへの旅券を出せと、大騒ぎだ。もちろん、そんなことを許すわけにはいかん。ナポレオンの残党を、皇帝の孫ライヒシュタット公と接触させるなど……」



 ……大使館に置いておくのは、自由です。だが、オーストリアに持ち込むのは、我が皇帝陛下がお許しになりません。

 オーストリア宰相、メッテルニヒ宰相は、ナポレオンの遺言執行人たちに言い渡した。



「しかし、あいつら、しつこくてな。なかなか大使館から出ていかなくて。それで、アポニー大使が、もしや貴重なものでもあるのかと……」



 アポニーは、在フランスのオーストリア大使である。彼が、遺言執行人たちに、本国の上司メッテルニヒの言葉を伝えた。



「あるいは、ナポレオンの息子への、秘密の暗号でも、含まれているのかも知れないと、大使は疑っておられる」

「暗号……。だから、秘密警察官が、呼ばれたんですね」

「そうだ」


 だがアシュラは未だ、腑に落ちない顔をしている。

「でもなぜ、僕なんです?」

 セドルニツキは、眉を釣り上げた。

「なぜ? それはお前が、の密偵だからに決まってるじゃないか」

「それはそうですが、……僕がいなくなると、プリンスの身の回りを見張る人間がいなくなります」


 セドルニツキは、口をへの字に曲げた。

「ライヒシュタット公に於かれては、この頃、オーストリア皇族として自覚が出ていらしたとか。心配はいらない。すぐに、彼が、オーストリアを裏切ることはなかろう。少しの間、密偵が不在でも、問題ない」


「見張るというのは、ですね。彼を見張るのではなく、彼の周囲に、危険な人物がいないかどうか……」


「そうだ。公をそそのかす奴がいないか、見張らねばならない。 畏れ多くも、皇帝の孫を誑かして、オーストリアを裏切らせようという奴が、接触してこないか、な。アシュラ。お前は、ちゃんと自分の仕事を弁えているようだな」


「……はい」

 勢い込んで何かを言おうとしていたアシュラが、唇を噛むようにして、口を鎖した。


 セドルニツキは、ふん、と鼻を鳴らした。

「それにお前は、フランス語ができるそうじゃないか」



 アシュラの本当の父親は、フランス人だ。

 ……いつか、役に立つかもしれない。

 そう言って、村の牧師が、幼いアシュラに、フランス語を教えてくれたという。



「お前を選んだのは、ノエの推薦だからだ。本来なら、あいつが行くはずだった。だが、ノエは今、ドゥデイの捜査で、不在だからな」

「ああ」


 ドゥデイは、去年の夏、ライヒシュタット公の馬車に、三色旗トリコロールを投げ入れたフランス人だ。



 「まだ、捕まっていませんか……?」

アシュラがつぶやいた。



 パスポートから、ノエは、ドゥデイの正体を突き止めていた。

 ライヒシュタット公にフランスに来るようにと呼びかけた青年は、商用でウィーンに来ていた、室内装飾家だった。

 だが、今一歩のところで、ノエは彼に逃げられてしまった。

 それから、追跡が続いている。



「逮捕は時間の問題だ。軟弱なフランス人の若造が、わが国の優秀な捜査網から、逃げ切れるわけがない」

 自信たっぷりに、セドルニツキは宣言した。

「フランスへ人を寄越せというのは、アポニー大使からの要請だ。だが、生憎と今、ノエの手は塞がっている。彼の推薦で、お前が行くことになったのだよ、アシュラ・ええと、シャイタン」


 話は終わったとばかりに、セドルニツキは、赤ペンを握った。

 劇場から巻き上げてきた台本に、孜々ししとして赤字を入れ始める。

 細かな赤い文字をぎっしり書き込まれた台本は、あたかも鋭利なナイフで切り裂かれ、血を流しているように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る