5 ブルボン家の白い百合

赤い黴



 夜の帳が、全てを覆っていた。

 静まり返った屋敷を、オーストリア宰相、クレメンス・フォン・メッテルニヒは、一人で訪れた。


 ここは、旧カウニッツ邸。グラシ(緑地)の外側にあり、ウィーン市内ではない。メッテルニヒはこの邸宅を、亡くなった妻、エレオノーレを通して、相続した。


 同じ郊外でも、市井の活気溢れるマリアヒルフなどとは違い、うら寂しいランシュトラーセ地区にある。

 古い建物は、1815年に大改築を施した。だが、土埃漂う沿道は未舗装のままだったし、境界を示す柵に沿って植えられた大きな木も、そのまま残してある。



 屋敷に着くと、メッテルニヒは、まっすぐに、奥まった書斎へ入った。


 人払いをしてあった。

 椅子に座り、強いブランデーのグラスを手に取る。琥珀色に揺れる液体を、しかし、口に含むことはせず、その輝きに魅せられたように眺め続けた。


 ……私は、ナポレオンの息子に、手綱をつけることに成功したのだろうか。


 この疑問が、頭から離れない。

 手綱……。

 それは、メッテルニヒが、死にゆく妻、エレオノーレに宣言したことだ。


 予期したとおり、フランスのブルボン朝の力は、いまひとつだった。ナポレオンに比べ、決定的に、統率力に欠ける。その上、保守的な王政に、人々の不満は、募るばかりだ。

 一方、ブルボン家への不満を取り込んで、ナポレオン人気は、衰えることを知らなかった。ナポレオンは亡くなったが、いつ、ナポレオン2世をフランスへ、との声が湧き上がるか、わかったものではなかった。



 「だから、私は、をつけた。あの子が、もし、父親と同じ道を進もうとしたら、……私はこの手に握ったを、ぐいと曳くまでだ」



 ヨーロッパ各地の情勢に明るいメッテルニヒは、結核が、感染性の病であることを知っていた。未だに中・北ヨーロッパで信じられているような、遺伝性の病ではないのだ。

 1820年、メッテルニヒは、密かに、ナポレオンの息子に結核に感染させた。この病を患ったわが娘、クレメンティンを介して。彼はまだ、9歳の子どもだった。


 フランツは、丈夫な子どもだった。結核に感染したのは、間違いない。だがそれは、単なる流感と大差ない発熱で治まってしまった。

 ナポレオンの息子は、結核を体内に押さえ込み、発病させない力を有していた。


 メッテルニヒは焦った。

 彼は、フランク医師の元を訪れた。

 ……この頃、プリンスのご容態は、いかがですかな?

 ……プリンスの?

 ……発熱されたと伺いましたが。

 ……風邪でしょう。

 ……特に熱が高いとか、咳がひどいとか?

 ……なぜ、そんなこと?

フランク医師は、怪訝そうな顔をした。


 妻のエレオノーレが、彼を尋ねたのは、その直後のことだった。

 プリンスの容態には、特に警戒するよう、彼女は、医師に、警告を発した。

 発熱する前、プリンスは、何度か、メッテルニヒ邸に招かれていた。その直後、メッテルニヒの娘、クレメンティンが、亡くなった。結核だった。

 フランク医師は、全てを悟った。



 だから。

 フランク医師には、無言の退場をしてもらう必要があった。

 それも、永遠に。




 ある男が、宰相のもとを訪れた。

 イタリア系のこの男には、果たさねばならぬ使命があった。



 男は、ベアトリーチェ大公女と親しかった。ベアトリーチェは、当時の皇妃、マリア・ルドヴィカの母親である。


 皇妃マリア・ルドヴィカは、生来、体が弱かった。その上、結核を患っていた。

 それなのに、彼女は、ウィーン会議で、完璧な女主人役ホステスを努めようとした。諸外国の王族たちへの接待に心を砕き、無理を重ねた。


 ナポレオンのエルバ島脱出で、蹴散らされるようにウィーン会議が終結した翌年。皇妃マリー・ルドヴィカは、亡くなった。


 その男は、を、マリー・ルドヴィカの、ベッドボードから発見した。悲しみに暮れた皇妃の母ベアトリーチェ大公女が、芝居がかった態度で、彼を、亡くなった娘の部屋に入れたのだ。


 赤い、黴だった。

 亡くなった皇妃のベッドボードは、びっしりと、赤い黴で覆われていた。


 ベッドボードは、女性らしい色合いで塗られていた。それが、塗料ではなく黴だと気づいた者は、彼の他にはいなかった。いたとしても、上官から職務怠慢を責められることを恐れ、従者たちは、口を閉ざしていたのだろう。


 赤い黴を、彼は持ち帰った。


 間もなく彼は、この黴を吸い込むことで、ひどく咳が出ることに気がついた。

 普通の健康体の人でも、体質によっては、反応して、咳き込むことがあった。黴を遠ざければ、咳はぴたりと治まり、その後は、殆ど、影響が出ない。


 だが、体内に結核を隠し持っている人は、そうはいかなかった。

 この黴による慢性的な咳は、やがて激しさを増し、気管や肺を弱らせていく。結果、肺の奥に封じ込められていた、結核の発病を促す。


 これらの知識を、彼は、幾人もの結核患者に対する実験で得た。

 身内に結核患者がいた者や、結核患者と触れ合う機会の多かった者……すでに、肺に、結核を内在させていた人々……は、この黴に、激烈な反応を示した。彼らは、それまで、普通に、健康な人と同じように生活していた。だが、一度ひとたび黴を吸い込むと、激しい咳と喀血の果てに、死んでいった。



 そう、男は宰相メッテルニヒに話した。そして、硝子の容器に封じ込めた、赤い黴を見せた。透明な入れ物の中で、それは、不吉なルビーのように、輝いて見えた。

 利害が一致し、メッテルニヒは、内密のうちに、彼と組むことにした。




 メッテルニヒが、最初に、この黴を使おうと決意したのは、3年前(1824年)の秋のことだった。

 フランツの叔父、F・カール大公と、バイエルン皇女、ゾフィーとの結婚で、ウィーンには、外国からの客が、大勢押し寄せた。彼らは、ナポレオンの息子が非常に賢く、機知に富んでいることを知った。

 フランスのキャラモン大使は、

「私は、この年若い存在が、世界を震撼させる日が来ることを恐れる」

と、本国に書き送った。


 ちょうど、ブルボン王朝のルイ18世が亡くなった年だった。

 兄よりさらに人気のないシャルル10世が後を襲った。

 一方で、パリでは、ナポレオンと並んで、ナポレオン2世の絵が飛ぶように売れていた。

 ナポレオン2世、ライヒシュタット公は、メッテルニヒの、喉に刺さったトゲだと、欧州各国で、囁かれ始めた。それだけの力を、この若者は、隠し持っていた。


 宰相の動きは、迅速だった。

 ライヒシュタット公の寝室に、黴を繁殖させた薪が運び込まれた。

 果たして、彼は、咳き込み始めた。


 だが、この時は、陰謀は頓挫した。

 家庭教師のコリンが、教え子の咳に疑問を持ったのだ。

 幸い、彼が疑ったのは、暖炉の燃え残りだった。束ねられ、積み上げられた薪の方には、注意がいかなかった。

 その上、さらに幸いなことに、コリンは自分の疑問を、燃え残りの炭と一緒に、の元に持ち込んだのだ。メッテルニヒに、黴の存在を教え、その有用な使い道について指南した、あの男の元へ。



 短い間病んで、コリンは死んだ。

 45歳だった。

 彼もまた、結核を隠し持っていたのだ。



 だが、計画は、中止せざるを得なかった。

 一時は外出を禁じられ、カーニバルに参加することも許されなかったのに、プリンスは、順調に回復していった。


 ……焦ることはない。

 宰相は思った。

 ……。




 この夏(1826年)、プリンスの馬車に、三色旗が投げ込まれるという「事件」が起きた。

 幸い、大叔父のルドルフ大公の機転で、プリンスは気づかず、大事に至らずにすんだ。

 この事件は、未だにフランスでは、ナポレオン2世が待ち焦がれられているということを、再認識させた。


 国際情勢も、不安だった。

 ギリシアの、オスマン・トルコからの独立の機運が高まり、イギリス・ロシア・フランスが支持に回る気配を見せている。

 分割されたポーランドの民族運動は、相変わらず消える気配も見せない。ベルギーやイタリアの情勢も、安定を欠いている。


 メッテルニヒのウィーン保守反動体制は、綻びを見せ始めていた。民の力は、再びその力を盛り返している。

 フランスだけではない。民族運動の象徴は、に集約されつつあった。


 ……民衆の暴力を許してはいけない。彼らに、何ができるというのか。ただの、暴徒の集まりではないか。



 若き日に、ストラスブールで見た、フランス革命の余波を、メッテルニヒは、忘れることができなかった。

 始めは陽気な行進だった。だが、次第に興奮のるつぼと化していった。人々は役所に火を放ち、商店を襲った。奪った酒をあおり、さらに破壊を続けた。

 それは、ただの略奪だった。


 そして、ナポレオンの登場。戦争と、その泥沼化。



 ……革命は、いずれは戦争にゆきつくのだ。そこにはただ、破壊と死があるだけだ。平和には、絶対に、至らない。

 ……真の平和とは、偉大なる君主の善政の下にこそ築かれ、守られるものだ。


 欧州の平和こそが、メッテルニヒの悲願だった。




 一方、プリンスの成長は、目覚ましかった。

 ずっと、無感動で無気力な子どもだという報告を受けていた。だが、そう言っていた家庭教師でさえ眼を瞠るほどの長足の進歩を、短期間で、彼は、遂げていた。

 ……あるいは、今までの姿は、巧妙な隠れ蓑だったのかもしれぬ。


 成長した彼は、聡明で思慮深く、その上、美しかった。

 ブルボン家の、青白い、血の気の失せた顔の王に比べると、民衆の熱狂を奪うことは必至だ。


 ……フランスが。

 ……再び、民の暴力のもとに。


 しかも、彼らを導くのはナポレオンの再来、いや、父、ナポレオン以上の力と魅力を隠し持つ、年若い若い青年なのだ。


 メッテルニヒは、再び、赤い黴を使う必要を感じた。



 1827年初頭。プリンスは、咳き込み始めた。

 始めのうちは無理をおして舞踏会に参加していた彼も、カーニバルの最後の方は、引きこもって暮らさざるを得なかった。

 小児科専門のゴリス医師は、気管支炎と診断した。


 そこまでは、よかった。

 だが、ゴリスも、家庭教師のコリンと同じ疑問を抱いた。さすが、医師だけあって、彼は、まっすぐに、薪に目をつけた。



 ゴリス医師は、危険だった。気管支に注意を払った点も、油断がならない。

 家庭教師のコリンと違って、医師である彼は、必ず、その関連性を辿るに違いなかった。

 薪の黴と、咳の多発、そして、内在する病の存在と、その悪化……。。


 ゴリス医師にも、いなくなってもらう必要があった。63歳の死は、疑われるほど早すぎはしなかった。



 ゴリスの介入で、薪は取り除かれた。黴の散布は、十分ではなかった。

 プリンスは、今回もまた、回復に向かった。

 急に勉強熱心になり、図書館に通って、本を読み漁っているという。

 ナポレオン関連の本を。


 危険だった。

 早急に、手を打たねばならない。




 ……。

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