巨人の死



 相変わらずアシュラは、藁を集めていた。

 濡れたベッドに寝て、ベートーヴェンは床ずれをおこしてしまっていた。

 少しでも、楽にしてやりたかった。


 その日は、雪がちらつく寒い日だった。

 藁が濡れるのが、心配だった。でも、アシュラは、荷車を引いて、町へ向かった。何かしていなければ、気が済まなかったのだ。



 アルザー通りまで来た時だ。

 稲妻が、空をかぎ裂きに引き裂いた。辺りが真っ白に発光する。

 大地がぐらぐらと揺れ、鈍い音が、腹に響く低音で轟いた。

 思わず、アシュラは、雪の上に突っ伏した。

 物が焼け焦げる凄まじい匂いがする。恐ろしい、死の匂いだ。


 ……逃げねば。

 アシュラは顔を上げた。

 大地の揺れは収まらなかった。強い光に、目も開けられない。

 なにが、どうなっているか、さっぱりわからない。

 ただ、逃げなくてはならないと、彼の本能は告げていた。


 体を捻って起き上がる。雪の上に一歩を踏み出した。

 がらがらと凄まじい音が耳を聾した。道添に建っていた家が崩れていく。

 思わず両腕を上げて、身を守ろうとする。

 続いて、もう一軒先の家も。

 向かいの家も。

 次々と、恐ろしい音を立てて、崩れていく。

 激しい土煙が立ち上った。

 汚れた雪が、跳ね返る。


 再び、曇天を光がかぎ裂いた。

 瞼を閉じたが間に合わず、眩しい光に、目眩がする。

 狂気のような爆音が、どれほど続いたろう。

 不意に、世界は、静まり返った。

 アシュラは、恐る恐る目を開けた。


 周りの景色は、一変していた。

 いつの間に、それほどの時が流れたのか。

 崩れ落ちた家々の上に、雪は降り積もり、辺りは一面の雪景色だった。

 どこまでも続く、白い野原。

 真っ白の、焼け野原。


 「決めたのだな」

 そこには、メフィストフェレスがいた。

「お前は、決めたのだ」

 彼は、鈍色にびいろの空を背景に、浮いていた。足を組み、何もない空中に、腰掛けていた。


「ようし。僕は、決めた」

アシュラは叫んだ。それが、真実だった。


 メフィストフェレスが顔を歪めた。吐きそうな顔で、えずいている。次の瞬間、大きな口を開けて笑いだした。

「よく見つけてきたものだ! 人喰い鬼の子とはな! 私は、お前の選択を、気に入った。なにせ人喰い鬼は、わが兄、ウェルテルを、褒めてくれたからな」


 ……ナポレオンが?

 ……褒めた?


「そしてまた、われらが親も、人喰い鬼のことが気に入っている」



 『若きウェルテルの悩み』は、メフィストフェレスの登場する『ファウスト』と並んで、ゲーテの著書である。

 1806年、ナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利し、ワイマール公国に侵攻した。

 その2年後、ナポレオンは、ワイマール公国宰相、ゲーテを謁見する。

 ゲーテ59歳。ナポレオンは、39歳。ローマ王誕生の5年前のことである。



 謁見は、3度に及んだ。ナポレオンはゲーテに、『ウェルテル』の愛読者であることを告白し、エジプト遠征中に7回読み返したと打ち明けた。そして、ゲーテを讃え、レジョン・ドヌール勲章を与える約束をした。

 ゲーテもナポレオンを「私の皇帝」と呼び、後日届けられた勲章を、ことある毎に、身につけたという。



 メフィストフェレスの体から、白い粉吹雪が吹き付けてきた。

「だが、お前たちの計略は失敗するよ」

「計略?」

アシュラはとぼけた。


 威嚇するように、メフィストが口を開いた。赤い炎が勢いよく飛び出し、アシュラのすぐ前まで迫って、消えた。


「私が知らないとでも思ったか! 音楽家の企みを。魔王に人類を救わせようなどと……、はっ! 片腹痛いわ」

「先生のことを悪く言うな!」

「おっと、これは、失礼。私は、真実、ベートーヴェンを、尊敬しているよ。誰からも愛されない、この世の塵芥くずを追放した、その残酷な強さを、ね」

「先生は、そんなことはしていない。彼は、優しい人だ!」


「ふうん。だが、いずれにしろ、お前たちの計画は失敗する。黄金の檻に囚われた高貴な囚人は、世の不条理を一身に受けて、醜く歪み、恨みとそねみに満ちた人間になるからだ」

「フランソワは……違う!」


「なぜそう思う? 人喰い鬼の子が、鬼になって、どこがおかしい?」

「あの親の子として生まれたのは、彼のせいじゃない!」


 メフィストフェレスは、死人のような青褪めた唇を、赤い尖った舌でぺろりとなめた。


「知っているか? あの子を閉じ込めているのは誰だと思う? 彼の番卒ケルベロスは、民衆だ。自分だけは清く正しいと思い込んでいる、普通の人間たちだ」

「……ケルベロス」


「そうだ。地獄の番犬だ。かわいそうにな。お前の言うとおりだ。人喰い鬼の子として生まれたばっかりに、地獄に閉じ込められて」

「地獄なんかじゃないぞ。立派な宮殿だ。それにウィーンには、音楽も芸術も娯楽だって、なんだってある!」

「だが、外へは出られない。自由がない。それを、地獄と呼ぶんだよ」

「……」

アシュラは絶句した。


 ……だって、皇帝の孫でしょ? 食べるに困らないじゃないですか。着るものだって住むところだって、贅沢なものだ。籠の鳥? いいじゃないですか。いっそ、うらやましいくらいだ。


 自分が前に、ノエに言った言葉が思い出される。恥ずかしさに、頬に血が上っていくのがわかった。

 白い大地を揺るがす声で、フィストフェレスは笑いだした。


「楽しみだ! 人喰い鬼の子が、どうやって人々に復讐するか、それを見るのが、今からとても楽しみだ。民を殺し、家を焼き。財を奪う。王の首を刎ね、街に火を放ち、一国をまるごと踏み潰す。地球には、不幸な魂があふれ、薄汚れた民衆の阿鼻叫喚が、大地を覆う。ああ、待ちきれない。待ちきれないよ、アシュラ・シャイタン」


 青白い顔に、赤い口が、耳で裂けて見える。腹に手を置き、身を前に傾げて笑う黒服の男の姿は、気味が悪いくらいに、セクシーだった。


 「シャイタンじゃない!」

頭を振り、懸命に自分を保って、アシュラは叫んだ。

「僕の名前は、アシュラ・シャイトだ!」


「シャイト?」

メフィストフェレスは、おどけたように、眼球をぐるりと回した。

「ドミニク・シャイトは、その名をお前に許したのかな?」


 言い終わらないうちに、二人の間に、黒ずんだ男の姿が浮かび上がった。

 首を支点に、宙に浮き上がっている。

 四がだらんと垂れ、力なく揺れていた。

 項垂れていた首を、男が上げた。

 飛び出た目でアシュラを見た。

 はっと、アシュラが息を飲む。

 首を吊ったまま、ドミニクの幻は、にたっと笑った。

 長い舌を伸ばし、あかんべえをした……。



 「失せろ!」

アシュラは叫んだ。

「親の呪いなんかに、俺は、負けない!」


 宙に浮かんだ男の姿が、ぱっと爆ぜた。黒い切れ端が、粉々になって、空を舞う。

 ごおーーーーっという風の音が鳴り響く。 粉雪が激しく吹きすさった。

 アシュラは腕で目を庇いつつ、両足を踏ん張った。飛ばされまい、倒れまいと、立ち尽くした。


 風が、通り過ぎた。

 白い野原は静まり返り、黒服の男が一人、宙に浮かんでいた。

 メフィストフェレスは、首を傾げていた。


「気が狂うかと思ったのだが。案外、強いな、お前」

「俺は、決めたんだ。実の親に捨てられ、育ての親に疎まれた。俺は、誰からも愛されず、誰をも愛さずに生きていく!」

「よく言った! アシュラ、お前も、人の輪を追われたのだ。完成された、峻厳なる天上の調べに。かの偉大なる魂に糾弾されて」


「違う! ベートーヴェンは、僕に、生きる喜びを与えてくれた!」


「喜びを知った後の転落は、一層、辛く、堪える。また、そうして墜ちてきた魂の、なんと美味なることか」

メフィストフェレスは、舌なめずりをした。


 ふと、舌を引っ込め、顔を顰めた。

「積極的だ。お前は、あまりに積極的にすぎる。つまらん。もっと、ためらいが欲しい。迷ってためらって、少し進んで後悔して。だが後悔は、すぐにまた、誘惑で薄らいで……、そうやって少しずつ、堕落していく。そうであってほしいものだ」

「……」


 アシュラには、メフィストフェレスの言っていることの意味がよくわからなかった。

 悪魔の言うことなど、わかる必要もないと、自分に言い聞かせた。


 青白い顔が、微笑んだ。泣きたくなるような優しい笑みが、雪原に浮かんだ。

「まだ間に合うぞ。お前はまだ、人の死を、普通に死ぬことができる」


 自分が自殺をすることを、悪魔が望んでいるのだと、アシュラは思った。

「はあ? 俺は、金輪際、自殺する気なんか、……」


 激しい突風が吹いた。アシュラは、雪の上に吹き倒された。

「違うわ、愚か者め。魔王の下僕となったら、死ねないのだ。そのくらいのこともわからないのか」

「死ねない?」


 わけがわからなかった。

 死ねない。

 それは、逆に喜ばしいことではないのか?


「そうだ。あるじある限り生き続ける。魔王の使い魔となれば、主を残して死ぬことは許されない」

「……」


 雪の上に起き上がり、アシュラはなんとか理解しようと努めた。


 ……アシュラ・シャイタン。その名に、守護を与えよう。あるじある限り、お前にわが守護を。

 不意にアシュラの頭に、最初にメフィストフェレスに会った時に、彼が口にした言葉が浮かんだ。


 不死は、悪魔の守護……。


 慈悲深く、メフィストフェレスは微笑み続けている。何も知らなければ、神の使いかと見間違うほど、愛に溢れ、慈しみに満ちた笑みが、死人のように青褪めた顔に、溢れている。


「今ならまだ、間に合う。考えるがいい。魔王誕生に関わることが、お前にとって、本当に良いことなのかどうか。お前は、人の死を、死にたくはないか?」


 アシュラはためらった。

 自分のことはどうでもよかった。彼には、自信があった。どこでどうなっても、自分は自分でいられるという自信だ。

 だって自分には、音楽がある。

 ベートーヴェンやシューベルトや、優れた楽曲が、脳のひだ、一本一本に刻まれている。


「お前だって、まともに死にたいだろう? 自身も魔となって、永遠に生き続けることは、どれほど恐ろしいことか」

「そんなことはどうでもいい。ただ……」

「ただ?」


 アシュラは、両手を強く握りしめた。

「俺は……俺はただ、フランソワを巻き込みたくないんだ。あの子は、ただただ孤独で、それなのに純粋で優しくて、人を恨むということができない……」


「馬鹿者! 人のことを心配している場合か」

メフィストフェレスが嘲った。

「彼は、巨大な罪を背負っている。その罪は、本来、親が背負うべきものだった。その親は、途中で死んでしまった。だからといって、犯した罪をそのままにしておくことなど、できはしない。膨大な破壊、あまたの死、永遠の悲嘆……。それを、誰かが償わなければならない。魔王にならずとも、人喰い鬼の子は、普通には、生きられない」


 メフィストフェレスが言葉を途切らせた。虚空に耳を澄ますがごとく、じっとしている。

 不意に、その体が前に傾いだ。宙に腰掛けたまま、くるりと一回転する。

「見ろ! お前を人の輪から追放した男が、この世を去っていくぞ!」


 哄笑が轟いた。

 その口の中は、血の色をしていた。喉の奥まで晒して、メフィストフェレスは笑い続けた。鋭く尖った犬歯が、ぬめりと光る。

 辺りが、硫黄の臭気で満ち満ちていく……。

 ……。





 3月26日、午後。

 寒い日だった。部屋の外には、雪が積もっていた。

 稲妻が空を引き裂き、死の訪れを待つ部屋が、明るく輝いた。続いて、恐ろしい雷鳴が、この部屋に集まった人々の鼓膜を震わせた。

 ベートーヴェンは、目を見開き、拳を握った右手を振り上げた。威嚇をするような厳粛な表情で、何秒かの間、空を見上げた。

 やがて、差し上げていた手を、再びベッドの上に下ろし、目を閉じた。

 この巨人は、もはや、息をしていなかった。





 ショッテン門の前にあるベートーヴェン最後の家、「黒スペイン館」から、アルザー通りにある三位一体教会までの道は、大勢の群衆で埋め尽くされた。葬列に道を開くためには、軍隊が必要だった。


 教会での礼拝の後、音楽家の棺は、ヴェーリング墓地へと向かった。

 追悼文が読み上げられた。


「彼がこの世に背を向けていたのは、愛する心情の深みに反抗する支点を持っていなかったからです。人々を避けたのは、人々が彼に向かって登っていくことを好まず、彼もまた、人々の方へ降りていくことができなかったからです。彼が孤独だったのは、彼に表裏がなかったからです。……彼はこのように生き、このように死に、これからもずっと、このように生き続けるでしょう」







 大勢の人が集まっているにもかかわらず、酒場は静かだった。

 誰もが黙って酒を飲み、故人を悼んだ。


「諸君」

ワインのグラスを掲げ、シューベルトは言った。

「不滅のベートーベンを偲んで乾杯!」


 同席していた3人の友人たちと、かちっと、グラスを合わせた。

 静かに、血の色のワインを飲み干す。

 シューベルトがグラスを替えた。透明な輝きを放つ白ワインを、4つのグラスに、なみなみと注いだ。

 4人の若者は、グラスを手に取った。

 再び、シューベルトが音頭を取った。


「次にベートーヴェンに続く者のために乾杯!」

 低い、敬意に満ちた声だった。


 友人たちは、互いに目を合わせた。無言でグラスを掲げた。








追悼文

劇作家のフランツ・グリルパルツァーが書いたものを、俳優、ハインリッヒ・アンシュッツが読み上げました。その一部の引用です。

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