間に合わなかったワイン 2
「アシュラ。そこにいるな」
音楽家がつぶやいた。
枕頭で居眠りをしていたアシュラは、はっと我にかえった。
「宮殿と、ここと、行ったり来たりで、疲れたろう」
ねぎらいの言葉が囁かれた。
……ご自分は、ずっと具合が悪いのに。
アシュラは、胸を衝かれた。
「ヴァヴルフ医師から聞いた。お前が彼に相談したのは、ライヒシュタット公のことか?」
「はい」
彼は頷いた。
ベートーヴェンは、ため息をついた。
「お前は、決めたのだろう? だから、彼のことが、そんなに心配なのだ」
「人の輪を追われた人間は、僕自身でした」
雑記帳に、アシュラは書き記した。
「唯一、愛してくれていると思っていた人は、僕のことを、憎んでいました」
ベートーヴェンは、目を閉じた。瞼に皺が寄り、しぼんでいる。
「儂では、君は救えない。君を救えるのは、彼だけだ。儂が保証しよう。彼は、君を救ってくれる」
「いいえ、それは、先生です。僕は、先生の音楽を聞くと、心が軽くなります。清冽な流れに体が洗われ、心が、ふんわりと溶けていくような、満ち足りた気持ちになるのです」
アシュラの声は、ベートーヴェンには聞こえない。
「儂の仕事は終わった。次は、君の番だ。君は、自分を救ってあげなくてはならない。それには、彼の力が必要だ。君と……人類の未来の為に」
「彼を、利用するのですか? 誰からも愛されないこの身を救う為に、彼を魔王に仕立て上げるのですか?」
ずっと悩んでいたことを書き記すその文字は、ひどく乱れていた。
「彼にも、お前が必要だ」
短く、ベートーヴェンは答えた。再び目を閉じた。
アシュラは泣き笑いの表情になった。
「いいんですか? フランソワは、音痴ですよ? 音楽よりも、騒音の方が、ずっと好きなんです」
文字が滲んだ。涙を振り払って書き記し、ベートーヴェンを、そっとつついた。
薄っすらと開けた目の前に、雑記帳を突き出す。
声を出して、音楽家は笑った。
*
宮廷に戻ったのか。藁を集めに出かけたのか。
アシュラの姿は見えない。
「これで良かったか?」
病床のベートーヴェンがつぶやいた。
カーテンで仕切られた向こうから、人影が現れた。
小柄でずんぐりとした体つき、褐色の巻き毛、丸縁の眼鏡。
「感謝します。これで、フォン・コリンに顔向けができる」
シューベルトだった。
ベートーヴェンの死期が近づいた今になって、ようやく2人の会見は実現した。病状がいよいよ悪くなったのをアシュラから聞いて、シューベルトの方で、我慢ができなくなったのだ。
……先生は今、とても人に会える状態じゃないんです。
突然押しかけてきたシューベルトに、ベートーヴェンの弟子は渋い顔をした。
……でも、私があなたを、先生に紹介したことにして下さるなら……。そうしたら、あなたを、先生の病床にご案内しましょう。
シューベルトの名声は、そこそこ高まってきていた。また、ベートーヴェン自身も、この年若い音楽家を高く買っていた。
ベートーヴェンの弟子は、後世に名を残すであろう著名な音楽家2人の、引き合わせ役になりたかったのだ。
2人きりの病室で、シューベルトは、ポケットから紙の束を取り出した。
ベートーヴェンの雑記帳を使うと、話の内容が、他へ漏れてしまう。
立ったまま、大きな字で書いた。
「彼には、守護が必要です」
「そうだな」
囁くような声で、ベートーヴェンはつぶやいた。
「アシュラは、やり遂げることができるでしょうか。僕は、あの子が心配です。フォン・コリンのように、あの子も、死んでしまうのはないかと」
「ああ見えて、悪魔に魅入られた子だ。死んだくらいでは、諦めまいよ。……ああ、そうだ。君の『子守唄』を聞いた」
シューベルトの顔が曇った。
「あれは、王子の……」
わかっている、という風に、ベートーヴェンは頷いた。
「もう少し、儂も、関わりたかった。だが、もう、ここまでだ。残念だよ。非常に、残念だ」
「諦めないで。僕は、あなたの、10番目の交響曲を聴きたいです」
「そうだな。わが畏友、ゲーテの小説に、至高の調べを。だが、儂の音楽を俟たずして……、」
言葉を切り、うっすらとベートーヴェンは微笑んだ。
「……物語は今、現実となる。世の中を治めるのは、賢者でも武力でも、まして財力でもない。それは、人の心が生み出した、うつくしいものなんだよ。そうあるべきなんだ」
にわかにその眉間が曇った。
「だが、美しさの基準は、人それぞれだ。そして、美しいがゆえに、悪魔に魅入られ、利用されてしまう。難しいね、君。全ての人を幸せにするということは」
「あなたはそれを、やり遂げましたよ」
何も言わずに、ベートーヴェンは微笑んだ。
静かに目を閉じる。
シューベルトは筆談をした紙の束を、ポケットにつっこんだ。眠りに落ちた大作曲家を残し、そっと病室を出た。
*
3月23日。死は、避けられないものとなっていた。
「司祭を呼んで下さい」
心をこめて、しかし真面目な顔で、ベートーヴェンは、ヴァヴルフ医師の手を取った。
「またじきにお会いしましょう」
それから、ベッドを取り巻いている友人たちの方を向き、敬虔な表情で言った。
「喝采したまえ、諸君。喜劇は終わった」
この後、彼は、友人に支えられて半ば起き上がると、震える手で、遺言書にサインした。それには、甥のカールを、唯一の相続人に指名すると、記されていた。
翌日。
マインツから、ワインが届いた。
「残念。遅すぎた」
ベートーヴェンはつぶやいた。
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