間に合わなかったワイン 2


 「アシュラ。そこにいるな」

音楽家がつぶやいた。

 枕頭で居眠りをしていたアシュラは、はっと我にかえった。

「宮殿と、ここと、行ったり来たりで、疲れたろう」

ねぎらいの言葉が囁かれた。


 ……ご自分は、ずっと具合が悪いのに。

 アシュラは、胸を衝かれた。


「ヴァヴルフ医師から聞いた。お前が彼に相談したのは、ライヒシュタット公のことか?」

「はい」

彼は頷いた。


 ベートーヴェンは、ため息をついた。

「お前は、決めたのだろう? だから、彼のことが、そんなに心配なのだ」



 「人の輪を追われた人間は、僕自身でした」

雑記帳に、アシュラは書き記した。

「唯一、愛してくれていると思っていた人は、僕のことを、憎んでいました」


 ベートーヴェンは、目を閉じた。瞼に皺が寄り、しぼんでいる。

「儂では、君は救えない。君を救えるのは、彼だけだ。儂が保証しよう。彼は、君を救ってくれる」

「いいえ、それは、先生です。僕は、先生の音楽を聞くと、心が軽くなります。清冽な流れに体が洗われ、心が、ふんわりと溶けていくような、満ち足りた気持ちになるのです」


 アシュラの声は、ベートーヴェンには聞こえない。


「儂の仕事は終わった。次は、君の番だ。君は、自分を救ってあげなくてはならない。それには、彼の力が必要だ。君と……人類の未来の為に」


「彼を、利用するのですか? 誰からも愛されないこの身を救う為に、彼を魔王に仕立て上げるのですか?」

 ずっと悩んでいたことを書き記すその文字は、ひどく乱れていた。


「彼にも、お前が必要だ」

短く、ベートーヴェンは答えた。再び目を閉じた。


 アシュラは泣き笑いの表情になった。

「いいんですか? フランソワは、音痴ですよ? 音楽よりも、騒音の方が、ずっと好きなんです」


 文字が滲んだ。涙を振り払って書き記し、ベートーヴェンを、そっとつついた。

 薄っすらと開けた目の前に、雑記帳を突き出す。

 声を出して、音楽家は笑った。





 宮廷に戻ったのか。藁を集めに出かけたのか。

 アシュラの姿は見えない。


 「これで良かったか?」

 病床のベートーヴェンがつぶやいた。


 カーテンで仕切られた向こうから、人影が現れた。

 小柄でずんぐりとした体つき、褐色の巻き毛、丸縁の眼鏡。

「感謝します。これで、フォン・コリンに顔向けができる」

 シューベルトだった。


 ベートーヴェンの死期が近づいた今になって、ようやく2人の会見は実現した。病状がいよいよ悪くなったのをアシュラから聞いて、シューベルトの方で、我慢ができなくなったのだ。



 ……先生は今、とても人に会える状態じゃないんです。

 突然押しかけてきたシューベルトに、ベートーヴェンの弟子は渋い顔をした。

 ……でも、私があなたを、先生に紹介したことにして下さるなら……。そうしたら、あなたを、先生の病床にご案内しましょう。


 シューベルトの名声は、そこそこ高まってきていた。また、ベートーヴェン自身も、この年若い音楽家を高く買っていた。

 ベートーヴェンの弟子は、後世に名を残すであろう著名な音楽家2人の、引き合わせ役になりたかったのだ。



 2人きりの病室で、シューベルトは、ポケットから紙の束を取り出した。

 ベートーヴェンの雑記帳を使うと、話の内容が、他へ漏れてしまう。

 立ったまま、大きな字で書いた。

「彼には、守護が必要です」


「そうだな」

囁くような声で、ベートーヴェンはつぶやいた。


「アシュラは、やり遂げることができるでしょうか。僕は、あの子が心配です。フォン・コリンのように、あの子も、死んでしまうのはないかと」

「ああ見えて、悪魔に魅入られた子だ。死んだくらいでは、諦めまいよ。……ああ、そうだ。君の『子守唄』を聞いた」


 シューベルトの顔が曇った。

「あれは、王子の……」


 わかっている、という風に、ベートーヴェンは頷いた。

「もう少し、儂も、関わりたかった。だが、もう、ここまでだ。残念だよ。非常に、残念だ」

「諦めないで。僕は、あなたの、10番目の交響曲を聴きたいです」

「そうだな。わが畏友、ゲーテの小説に、至高の調べを。だが、儂の音楽を俟たずして……、」

言葉を切り、うっすらとベートーヴェンは微笑んだ。

「……物語は今、現実となる。世の中を治めるのは、賢者でも武力でも、まして財力でもない。それは、人の心が生み出した、うつくしいものなんだよ。そうあるべきなんだ」


 にわかにその眉間が曇った。


「だが、美しさの基準は、人それぞれだ。そして、美しいがゆえに、悪魔に魅入られ、利用されてしまう。難しいね、君。全ての人を幸せにするということは」

「あなたはそれを、やり遂げましたよ」


 何も言わずに、ベートーヴェンは微笑んだ。

 静かに目を閉じる。

 シューベルトは筆談をした紙の束を、ポケットにつっこんだ。眠りに落ちた大作曲家を残し、そっと病室を出た。





 3月23日。死は、避けられないものとなっていた。

「司祭を呼んで下さい」

心をこめて、しかし真面目な顔で、ベートーヴェンは、ヴァヴルフ医師の手を取った。

「またじきにお会いしましょう」


 それから、ベッドを取り巻いている友人たちの方を向き、敬虔な表情で言った。

「喝采したまえ、諸君。喜劇は終わった」


 この後、彼は、友人に支えられて半ば起き上がると、震える手で、遺言書にサインした。それには、甥のカールを、唯一の相続人に指名すると、記されていた。



 翌日。

 マインツから、ワインが届いた。

「残念。遅すぎた」

ベートーヴェンはつぶやいた。






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