間に合わなかったワイン 1


 ウィーンの町中を駆け回り、藁を集めた。

 宮殿で支払われた給料の、ほとんどを、これに費やした。

 雨が振りそうな気配がする。

 アシュラは、慌てて、ベートーヴェンの家に引き返した。


 荷車に、山のように積まれた藁を見て、メイドは、目を丸くした。

「ベッドの下に、木製の容器を置いたの。水が溜まるようにね。でも、藁のことは、考えもしなかったわ!」

 ベッドの下に、水が溜まるほどなのだ。当然、寝床も水浸しだとは、この娘は、考えなかったのだろうか。

 アシュラは脱力した。


「先生、寝ちゃったわ。起こす?」

「いや、いいよ。寝かせといてあげて。医者は、帰ったの?」

「とっくにね!」


メイドは、くすくすと笑った。

「先生、上機嫌だったわよ。お医者さんが、凍らせたポンス酒(柑橘系の果物の入った酒)を食べていい、って言ったの」

「凍らせたポンス酒? でも、前に、シュタウデンハイム先生が、お酒は毒だって言ってたろ?」


 シュタウデンハイム医師は、それで、ベートーヴェンとたもとを分かったのだ。今回、具合が悪くなって、再び来てくれるよう要請されても、彼は、ベートーヴェンの病床を訪れようとしなかった。


 アルコール依存というほどではないが、ベートーヴェンには、酒を飲みすぎる傾向がある。

 病気の重いこの時期に、アルコール分を摂取して大丈夫だろうかと、アシュラは心配になった。


「ちょっと。ちょっとだけよ。凍らせて、シャーベットにするの。それを、お口に入れるだけ。少しのお酒は、先生の為にいいんですって!」

 朗らかにメイドは請け合った。


 ……調子に乗って、飲みすぎなければいいが。

 晩年の父のことが、頭に浮かんだ。父は、酒で、体を壊した。

 楽しいふりをして、アシュラを楽しませて、でも、本当の気持ちは決して伝えず……、

 ……ある日、……

 ……。


 慌てて、アシュラは頭を振った。

 ……考えまい。


 アシュラの深刻な顔を見て、また、メイドが笑った。

「いやねえ。マルファッティ先生といったら、ウィーンいちの名医だって評判でしょ。その先生が言ってるのに。何を疑ってるのよ?」

「いや、俺は……」

アシュラが先を続けようとした時だった。


 鍵のかかっていない玄関を開けて、額の広い、実直そうな男が入ってきた。

 ヴァヴルフ医師である。

「あ、先生!」

メイドが駆け寄る。


「私の患者は、どうしているかね?」

低い穏やかな声で、医師が尋ねる。

「眠っています」

「それなら、出直してこようか。彼には今、休息が必要だからね」


 来た時と同じように、この有能な医師は立ち去ろうとした。

 信じられない、と、アシュラは思った。

 権威ある人は、普通、出直したりしないものだ。大抵、自分を優先する。


 ウィーン一の名医だと、メイドは言う。だが、そのマルファッティが、アシュラは、どうにも、うさんくさく思えてならなかった。

 一方で、この医師ヴァブルフは、間違いなく信用できると思う。


「ヴァヴルフ先生」

思わず、呼び止めた。

「ん?」

 不思議そうに、医師は、アシュラを見た。

 初めてそこに、彼の存在を認めたようだ。


 気さくに見えるが、ヴァブルフは、一流の医師だ。アシュラなど、本当なら、口も聞けないほどの名士なのだ。自分の無謀さに、アシュラは、ほとんど怯えた。


「ゆっ、指が、黄色いんです」

ありったけの勇気を振り絞って、ほとんど叫ぶように言った。


 名医なら、教えて欲しいことがある。

 気になっていたから。

 心配だったから。

 彼には、ちゃんとした主治医がついているけど……。


「指が? 君のかね?」

穏やかに医師は尋ねた。

「と……友達のです。最初は指だけで、だんだん手が黄色くなって、感覚がないって言うんです」


 傍らでは、メイドが、口を開けて、2人のやりとりを見ている。


 アシュラは、不安だった。この医師は、アシュラのことを図々しいと思いはしないか、と。医者にかかると、莫大な金がかかる。それなのにアシュラは今、金も払わずに、彼の知識を得ようとしている。


 だが、ヴァヴルフ医師の声は、平坦フラットだった。気を悪くした風でもない。


「診察してみないとわからないけどね。その子は、オレンジやレモンを食べ過ぎたってこと、あるかい?」


 アシュラは考えた。フランソワはそんなことは言っていなかった。

「いいえ」

「お酒を飲みすぎたとか?」

「いいえ」

 今度は断言した。あのフランソワに限って、酒の飲み過ぎは、ありえない。


 医師は首を傾げた。

「はっきりとは言えないけど……、肝臓かもしれんな」

「かんぞう……」

「肝臓が弱ると、指や手が黄色くなることがある」


「どうしたら、肝臓って、弱るんですか?」

原因がわかれば、対策も立てられるだろうと、アシュラは思った。

「それは、いろいろだよ。疲れている時も弱るし、病気で弱ることもある。あるいは、毒物を摂取した時とか。肝臓は、体の毒を取り去ってくれるところだからね」

「毒!」


 アシュラはぎょっとした。

 そんなことは、考えてもみなかった。

 医師は笑いだした。


「めったにないことだよ。現実は、小説やお芝居とは違うからね。規則正しい生活をすること。不摂生をしないこと。この2つを守ることだ。きみの友だちは、酒を飲まないのだね? 体の具合が悪い時に、飲酒をしないのは、すごく大切なことだ。ここの先生にも、見習ってほしいのだが……」

憂い顔を、医師は、病室に向けた。







 マルファッティ医師が推奨した、ポンス酒のシャーベットは、ベートーヴェンに、いい影響を齎した。

 数日の間は。

 彼はぐっすりと眠り、汗をたくさんかいた。精神が高揚し、希望が湧いた。


 しかし、長くは続かなかった。

 効果は、次第に薄れていく。彼はポンス酒を大量に飲むようになった。

 そして、ワインを。


 ベートーヴェンは、アルコールに強い期待を持っていた。これを知らされたマインツの知人は、古いラインワインを、至急便で発送した。


 病状は、しかし、悪くなる一方だった。

 頭部の充血、昏睡、喉の炎症。内臓にも悪影響が表れ、急速な疝痛(内臓疾患を原因とする、激しい痛み)と、下痢を引き起こした。


 2月の末頃から、マルファッティ医師は、顔を見せなくなった。代わりに助手のレーリッヒ博士が診察するようになった。

 ヴァヴルフ医師も、診察を続けた。

 予断を許さない状態が続いた。


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