ずるいイタリア人と実らなかった恋
*
前年(1825年)、夏。
ベートーヴェンの甥カールが、拳銃自殺を図った。
これは、伯父で、後見人であるベートーヴェンに、非常なショックを与えた。痛風を患っていたベートーヴェンは、一気に体調を崩した。
幸い、甥は、命に別条はなかった。
秋になると、ベートーヴェンは、ウィーンを出た。拳銃自殺を図った甥のカールとともに、グナイセンドルフ(ドナウ渓谷を見下ろす高台)にある、もうひとりの弟、ヨーハンの別荘に滞在した。
カールは、着々と回復していった。だが、伯父の方は、そうはいかなかった。
ベートーヴェンは食欲をなくし、昼食に半熟卵を幾つか食べるのみ、という日々が続いた。後は、ワインばかり飲んでいる。
次第に腹が膨れ、彼はそこに、包帯を巻いた。
冬の声が聞こえてくると、ベートーヴェンは、暮れのウィーンでの演奏会や新作の出版交渉などが気になり始めた、
彼は甥のカールと共に、ウィーンへ向かった。
12月に入っていた。雨が多く、寒い日が続いた。そして、馬車には、屋根がなかった。
……惨めな、悪魔の荷馬車。牛乳運搬車のようだ。
ベートーヴェンはこぼした。
果たして、ウィーンへ帰り着くと同時に、彼は、寝込んでしまった。
重篤な肺炎を起こしたのである。
さんざん、医者を罵倒し、主治医を乗り換えてきたベートーヴェンである。シュタウデンハイム医師始め、これまでの主治医達は、彼の診察を拒否した。
ベートーヴェンの友人が奔走して、新たに、ヴァヴルフ医師が診察に訪れた。
彼は、ウィーン医学診療所の医長であり、帝室王室医師会のメンバーでもあった。
そして、大変な、音楽愛好家であった。
ベートーヴェンの枕頭に馳せ参じた彼は、筆記帳に、
「
あなたのお名前の崇拝者として、あらゆる手を尽くし、じきに楽にしてあげます。
」
と書いた。病床から、ベートーヴェンは、感謝の眼差しを送った。
肺炎は、一週間ほどで軽快した。だが、8日目、全身に黄疸が出た。腹や足に水が溜まり、ぱんぱんに膨れ上がってしまった。
腹の破裂を避けるため、水を抜く必要があった。
ヴァヴルフ医師は、腹腔穿刺を行った。
これは、腹壁を切開し、ガラスの注射針を挿入して、水を抜くという手術である。もちろん、麻酔なしに行われた。
ベートーヴェンは雄々しくこれに耐え、医者を感動させた。
……あなたは、騎士のように振る舞いました。
腹腔穿刺の結果、確かに、ベートーヴェンは楽になった。だがすぐにまた、水が溜まり始め、ヴァヴルフ医師は、2回めの腹腔穿刺を実行した。
ヴェートーヴェンはこの苦しい手術を、合計5回、受けている。
腹水を抜くということは、体内のタンパク質などの栄養素も、一緒に流れ出てしまうことである。
次第に、ベートーヴェンは、弱っていった。
*
「先生……」
病床の音楽家を見て、アシュラは涙を流した。
すっかりやつれてしまっている。それなのに、腹だけが、異様に膨らんでいた。
「アシュラ……」
口だけ動かして、音楽家は言った。
「大丈夫だ。見かけほどは悪くない」
「でも、そのお腹……」
アシュラの目線を、ベートーヴェンは追った。
「包帯だよ」
アシュラは首を横に降った。布だけの厚みには、とても見えない。
「心配するな。昔からの主治医が帰ってきてくれてな。彼は、ガスが溜まっているだけだと言っている」
「ガス?」
「そうだ。マルファッティは、
喉を震わせ、ベートーヴェンは笑った。
こんな時にも笑えるベートーヴェンに、アシュラは、畏敬を抱いた。
「マルファッティ医師?」
その名が耳に引っかかった。聞いたことのない名前だ。
アシュラの口を読み、ベートーヴェンが頷く。調子っぱずれないつもの声で答えた。
「儂の親友だった男だよ。彼の姪は、それはそれは可憐な女性でな。儂は彼女に、ピアノ曲を捧げた。……実らぬ恋だったけど。いや、それでよかったんだ。彼女は、素晴らしい女性だ。儂には、もったいない……」
過去に沈むように、声が小さくなっていく。
「だが、儂の失恋は、マルファッティのせいではない」
声が元に戻った。
「『正直さに欠ける、ずるいイタリア人』なんて言って、悪かった。彼は、誠意ある男だ。一時、疎遠になっていたが、儂の危機を聞いて、再び、戻ってきてくれたのだ」
……本当にガスの膨らみだろうか?
マルファッティについての説明を、アシュラは殆ど聞いていなかった。
彼はひたすら、音楽家の病状が気がかりだった。
素人のアシュラの目から見ても、腹の膨らみ具合は、異様だ。
「ヴァヴルフ先生は、なんて?」
ヴァヴルフは、今の主治医の名である。重い肺炎を、とりあえず、治してくれた。
「しっ!」
鋭いしゅっという音を、音楽家は歯の間から絞り出した。
「ヴァヴルフに知れたら、また、穿刺をされてしまう。あれは、とても痛いんだ」
「先生……ああ、お気の毒に!」
ベートーヴェンが
寝返りを打とうとして、うめき声を上げた。
手助けしようと、アシュラは、布団の中に手を差し入れた。
そっと抱きかかえ、体を横向きにする。
「先生。藁が湿ってます」
雑記帳に書いて差し出した。
シーツの下の藁が、ぐっしょりと濡れていたのだ。
「腹の水だよ。穿刺で抜いた。まだ、傷から流れ出ているんだ」
あまりの凄絶さに、アシュラは絶句した。平然と、ベートーヴェンは続ける。
「大丈夫だ。藁は、腐ってはいないから」
「他の藁はないんですか!」
「使い切ってしまったようだ」
病床について以来、ベートーヴェンの経済状況は、悪化しているようだった。
「持ってきます! 僕、藁、持ってきます!」
たまらなくなって、アシュラは叫んだ。
「荷車を借りて、積めるだけ積んで来ますから……!」
そのまま、走り出ていこうとした。
「アシュラ」
音楽家が呼び止めた。
「メフィストフェレスの約束は? ライヒシュタット公に、話はしたか?」
「……」
アシュラは、じっとベートーヴェンを見た。
「アシュラ……」
かすれた声で再び、ベートーヴェンが呼びかけた。
すばやく、アシュラは雑記帳を手元に引き寄せた。
「……先生に。僕の見つけた魔王は、先生です」
「なんだって?」
「魔王になれば、もう、こんな苦しい思いはしなくていいんです。先生の命は、永遠になる」
「……馬鹿者」
「僕はずっと先生と一緒にいられる。先生を喪うことはない!」
「馬鹿者!」
ベートーヴェンは叫んだ。
隣の部屋から、弟子が顔をのぞかせた。アシュラに非難の眼差しを送る。
無言で、アシュラは頭を下げた。弟子は、顔を引っ込めた。
字が崩れることも厭わず、アシュラは書きなぐった。
「先生は、人の上に立てる人です。病床にあってなお、くじけずにいる。明るく強い精神を、保っていらっしゃる。人間を支配するものが魔王なら、その資格を持つのは、先生、あなた以外、考えられない!」
「儂は、音楽で導く。人の心を。至高にむけて。それだけだ」
言い終わると、ベートーヴェンは静かに目を閉じた。
「マルファッティ医師が見えましたよ」
背後で弟子の声がした。
痩せた身なりの良い医者の姿が見えた。朗らかに微笑みを浮かべている。
いかにも名医らしい雰囲気を漂わせていた。
アシュラは、弟子について、病室を出た。
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