豹変
*
年が明けた。
寒い宮殿の廊下を、ゴリス医師は、背を丸めて歩いていた。
「プリンスが咳ばかりしている。至急参内の上、診察されたし」
ライヒシュタット公の、口うるさい家庭教師から呼び出しがかかったのだ。
ディートリヒシュタイン伯爵からの呼び出しは、いつだって「至急」か「大至急」だった。そして行ってみると、大抵、ただの風邪だった。
ゴリス医師は、1821年、ライヒシュタット公の主治医となった。前任者のフランク医師が、任期途中で、突然、亡くなったからだ。76歳だった。引き継ぎはできなかった。
レオポルド・アントン・ゴリスは、小児科医だった。「こども病院協会」を設立し、貧しい子ども達の治療の無償化に尽力した。また、エドワード・ジェンナーの牛痘ワクチンの接種も推進した。
これらの実績を見たマリー・ルイーゼが、息子の主治医に任命したのだ。
10歳からの6年の間、ゴリスは、プリンスを診てきた。
彼は、丈夫な子どもだった。ありふれた病気以外、したことがない。それは、前任のフランク医師の残したカルテを見ても、明らかだった。
プリンスは、9歳の直前に、ひどい熱と咳の病にかかったのだと、ディートリヒシュタインは主張している。ゴリスが着任する、1年前のことだ。重篤な病で、長い間、咳をひきずっていたという。
しかし、
心配性の家庭教師が大げさに騒ぎ立てただけだろうと、ゴリスは理解していた。
その翌年のカーニバルシーズンにも、プリンスは熱を出した。
「いや、プリンスは、最後のダンスには、参加できなかった。ホールは非常に暑くて、人混みが凄かったから」
なぜか胸を張って、ディートリヒシュタインが話していた。
この年の春、ゴメスは、プリンスの主治医となった。彼の診察では、異常は見当たらなかった。
それからずっと、プリンスは、健康だった。
だから、その日も、ゴリス医師は、慌てなかった。ゆっくりゆっくり歩いていく。
プリンスは、居なかった。侍従が言うには、ほんの少し前に、舞踏会に出かけたというのだ。
ゴリスは、憮然とした。
結局はいつもの、家庭教師の取り越し苦労なのだろう。
心配するのはいい。でも、その為に自分が無駄足を踏まされたとなると……。
主治医のお出ましだということで、侍従は、プリンスの部屋に通してくれた。
ヘラクレスの12の冒険を象った入り口から、2階にある寝室へ向かった。
せっかくだから、寝具のチェックをしておこうと思ったのだ。マットレスがへたっていると、思春期の体に、悪い影響を与える。背中が曲がってしまう。マットレスに詰められている獣毛がしぼんでいないか、見ておくことにした。
メイドや女官のほとんどないプリンスの居住区では、こうした、ほんの些細なことが、疎かになりがちだった。
寝室は、まだ、暖かかった。暖炉には、残り火が燃えていた。出かける直前まで、プリンスはこの部屋で横になっていたのか。こんなことは、珍しかった。やはり、具合が悪いのだろうか?
……しかし、踊りに出かけるくらいなら、大したことはあるまい。
ふと、ゴリスの鼻が蠢いた。何か、異質な臭いがする。鼻をつんと刺すような、湿った土のような……。
臭いは、暖炉の方から漂ってくるようだった。
……変なものでも、
見たところ、熾火には異常がないようだった。殆ど、炭になりかけている。ゴリスの目が、暖炉の傍らに積まれた薪の束に注がれた。
……なんだ、これは。
……カビてるじゃないか。
白っぽいカビが、表面に浮かび上がってきえいる。
紐の外れた薪を手に取り、ゴリスは顔を顰めた。樹皮がぽろぽろと崩れ落ちてきたからである。内部はピンク色に変色し、すかすかだった。
……こんな薪を燃やしたって、効率が悪いだけだ。ろくに部屋が暖まらないだろう。
宮廷経済が苦しいのは、ゴリスも知っていた。長かった戦争と、会議での饗応のせいだ。しかし、薪代をケチることはあるまい。結果、部屋の主が、風邪を引いたのだったら、何を言わん、だ。
「おい、君」
続きの間で立ち働いていた下働きの男を、ゴリスは呼んだ。
「この薪はひどい。片付け給え。新しい薪に、変えるんだ」
「……」
不平そうな顔を、下男はした。
「ですが、旦那。その薪は、昨日、運び込んだばかりですぜ? 消耗品の
「宮内庁長官?」
ゴリスは顔を顰めた。
なぜ、長官がそのように命じたか、謎だった。たまたま、役所の薪が、余ったのかもしれない。
役所でこんな薪を使っているのだとしたら、それはそれで問題だった。
……もしや、悪い業者から、つかまされているのではなかろうか?。
いずれにしろ、皇族の部屋に、カビた薪など、論外である。
下働きの男に、ゴリスは命じた。
「私が責任を取る。この薪を片付けろ。きれいに掃除して、ツェアーガーデンに在庫があるなら、代わりにそれを運んでおけ」
プリンスの部屋を出たゴリスは、そのまま、宮内庁長官の執務室へ向かった。
長官は、在籍していた。
薪の話をすると、彼は、怪訝な顔をした。
「そんな命令は出した覚えがありませんな。役場で余った薪を使え、などと」
長官は言った。
「第一、私は、ライヒシュタット公の暖炉の燃料のことなど、胸を過ったこともありませんよ。役所の薪が黴ているという話も、過剰に仕入れてしまったという報告も、聞いたことがない」
しかし、ゴリス医師は引かなかった。
「下男は、納品書を持っていました。そこには、あなたからの注文書の写しが、添付されていましたよ。彼が言うには、注文は、官庁の用紙に書かれていたそうです」
ゴリスは長官に、紙片を手渡した。
長官はうなった。
「うーん、写しじゃねえ。用紙は、全官庁に共通だ。私は厳重に管理しているが、杜撰な部署もあるしな。部署によっては、専用用紙を持ち出すのは、容易いかもしれない」
「……では、誰の仕業なんでしょう」
にわかに、ゴリスは不安を感じた。
わけのわからない、不気味さを感じる。
「不正が行われていたのだろうか」
長官がつぶやいた。
「消耗品買い付け係は、特定の商人との取引や、商人達から、接待饗応を受けることさえ、禁じられている。それなのに、もし万が一、賄賂を取って、粗悪品を正規の値段で仕入れていたのだとしたら? 政府の役人ぐるみの不正だ! 大変なことだ。うむ、徹底的に調べる必要がある。不正の是正こそが、経費削減の第一歩だからな!」
極めて実務的に、長官は、調査を請け負っった。
……何か、違う。
そう思いつつも、この件が自分の手を離れ、ゴリス医師は安堵した。
*
2月の初めの試験で、フランツは、素晴らしい成績を納めた。特に技術科目は、試験官が絶賛したくらい、優秀な成績を修めた。
試験終了後に、彼は、たちの悪い風邪を引いた。それなのに、体調など気にも止めず、何度か、舞踏会へ出かけて行った。前からの約束で、断れなかったのだ。そのことも、症状の悪化に拍車をかけた。
暫くの間、彼は、部屋に閉じこもって過ごした。
症状が改善されると、彼は、猛然と机に向かった。
去年の秋くらいから、彼は、変わった。
怠惰な態度は消え、勉学に熱心に取り組むようになったのだ。
15歳の秋から冬にかけての、この急激な変化は、先生方を喜ばせもしたが、同時に、戸惑わせた。
「ほら、背中が丸まっている。そんな風に胸を縮こめていると、咳が出る。貴方はまだ、成長期なんですぞ。特に胸の発育が不十分だ。だから、姿勢には充分、気をつけて」
夜遅くまで机に向かう生徒の周囲を歩き回りながら、ディートリヒシュタインがぶつぶつ言っている。
「はい、先生」
本から顔も上げずに、プリンスは答えた。
しばらく、静かな時間が流れた。
ディートリヒシュタインは、じっと懐中時計を睨んでいる。
「はい、そこまで。もう、勉強はおしまい」
突如、ディートリヒシュタインが叫んだ。集中して本を読んでいたプリンスの肩が、ぴくりと震えた。
「えっ! だってまだ、途中です」
不服そうに振り返る。
「勉強のしすぎはよくない」
迷いなく、ディートリヒシュタインは断言した。
「もう、お休みの時間です」
「でも……」
「また明日、やればよろしい」
「前の試験で、僕、哲学と論理学がよくできなかったんです。だから、復習しなくちゃ……」
「明日、フォレスチ先生に見てもらいなさい。明日なら、オベナウス先生もいらっしゃるから。今日はもう、休むこと!」
きっぱりと、ディートリヒシュタインは言い渡した。
……立場が逆転したな。
物陰から一部始終を見ていたアシュラは、失笑を禁じ得なかった。
……フランソワは、ものすごく変わった。
……真面目になって、一生懸命になって、努力している。
ディートリヒシュタインに、怠惰をなじられていた子どもの姿は、そこにはなかった。
生徒の、突然の豹変に、家庭教師達は、喜びよりむしろ、戸惑っていた。
理由が、わからないのだ。
それは、ナポレオンの遺書に接したからだと、アシュラは知っていた。どういう形であれ、親の遺志を知ったからだ。
自分が誰だか、理解したから。
……フランソワは、フランスのプリンスになるのかな。
だがそれは、物凄く危険なことかもしれないと、アシュラは不安を感じた。
*
翌日。
フランソワは、馬に乗って散歩にでかけた。
もうすぐ16歳の誕生日を迎える彼は、もう、大人だった。自分の意思で、行きたいところへ行く。家庭教師が同伴することも、殆どなくなっていた。
心の赴くままに、彼は馬を走らせることが好きだった。
アシュラの駄馬は、ついていくのがやっとだ。
ドナウ川と運河に挟まれたドナウ島にあるレオポルシュタット辺りに来ると、道が混雑し始めた。
天気のいい日曜日だった。プラーター公園へピクニックに行く人々で、辺りは、お祭りのような賑わいだった。
プリンスは馬を降り、従者に託した。一人で、人混みを、歩き始める。
アシュラも慌てて、近くにいた子どもに小銭を握らせ、馬のめんどうを頼んだ。
川辺には、露天のカフェがたくさんあった。ドナウ河畔に面しているので、客は、遊覧船や、荷物をいっぱいに積んだ
カフェの入口で、フランソワは、立ち止まった。
裏口に続く路地の方を向いたまま、動かない。
路地には、みすぼらしいなりの老婆がいた。階段の縁の段差に腰掛け、ぼんやりしている。カラスが舞い降りて、集まっていたスズメ達を蹴散らそうとしていた。鳥たちは、老婆が食べこぼしたパンくずを狙っているのだ。
ためらうことなく、プリンスは、老婆に近づいていった。屈み込んで、何かを話している。
不意に彼は姿勢を伸ばすと、ポケットに手を突っ込んだ。何かを掴み出し、それを老婆の手に握らせた。
すぐに、レオポルシュタットの人並みに紛れ込み、軽快に歩き出す。
アシュラは、老婆に近づいた。フランソワが近づいても逃げようとしなかったスズメやカラスが、一度に、ぱっと飛び立った。
「何するんだい! 鳥達が、逃げるじゃないか!」
老婆が文句を言った。
ぴんと伸びた背中が離れていくのを気にしながら、アシュラは、老婆に話しかけた。
「婆さん、いくらもらったんだ?」
「あのハンサムな兄さんは、気前がいいよ。20クロイツァー! 20クロイツァーだよ!」
アシュラはため息を付いた。
ウィーンの工場で、大人が一日16時間働いて、50クロイツァーが相場だった。
プリンスが、物乞いに小銭を与えるのは、これが初めてではない。
というか、彼は、外出の度に、こうした喜捨をしている。
老婆が、期待に満ちた目で、アシュラを見た。
「で、あんたは、いくらくれるんだい?」
アシュラは呆れた。
「強欲なばあさんだな。ハンサムさんから、たくさんもらったんだろ?」
「それはそれ。これはこれ」
「ないよ」
「は?」
「お金、持ってない」
「またまた。ケチな男は、もてないよ」
「悪いな。さっき、馬を託した子どもにあげちゃったんだ。もう、1クロイツァーも残ってないよ」
「嘘お言い。ほれごらん。あんたのおかげで、鳥が逃げちまったじゃないか。かわいそうに、あの子らのエサ代くらい、置いて行きな」
「嘘じゃないよ。本当だよ」
アシュラは、その場で飛び跳ねてみせた。
「ほら。音がしないだろ……」
人混みの真ん中で、背の高い金髪が振り返った。
ぽんぽん跳ねている
*
フランソワがまだ、悪性の風邪で、引きこもって暮らしていた、2月20日。
貧しい子どもたちの治療に尽力し、その功績を高く評価したパルマ女公(マリー・ルイーゼ)により、息子の侍医に命じられた、ゴリス医師が亡くなった。
63歳だった。
後任には、シュタウデンハイム医師が指名された。
カール・ハラッハ伯爵を重病から救うことに成功した彼の、名声は高かった。昨年(1826年)春、皇帝が重篤な病に罹られた折は、その病床にも招かれた。
シュタウデンハイム医師は、1817年から24年までの間、ベートーヴェンの主治医を務めている。
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