ブラジルより
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この年の終わり(1826年12月11日)。
オーストリア宰相(当時は外相)メッテルニヒが売った、もうひとりの花嫁が亡くなった。マリー・ルイーゼの妹、レオポルディーネである。
レオポルディーネは、メッテルニヒにより、ブラジルに嫁がされていた。夫、ドン・ペドロは、ブラジルの宗主国、ポルトガル王室の王太子である。メッテルニヒは、新大陸を
レオポルディーネは、フランツの叔母にあたる。フランツがフランスから来た頃は、まだウィーン宮廷にいた。
彼女は、小さな甥を、とてもかわいがった。いつも彼の味方だった。マリー・ルイーゼがパルマへ旅立ってしまうと、一人遺された甥に対して心を砕き、親身になってその傍らにあった。
遡って、1808年。ナポレオンの侵攻により、ポルトガル王室は、植民地、ブラジルに避難した。リオデジャネイロは、ブラジル・ポルトガル連合王国の首都として栄えた。
1820年、本国ポルトガルで革命が起きた。革命政府は、立憲と、国王の帰還を要請した。1822年(レオポルディーネとドン・ペドロの結婚の4年後)、父王率いる宮廷は、リスボンへ帰った。ポルトガルは、この後、立憲君主制の道を歩む。
王太子ペドロは、摂政として、妻レオポルディーネと共にブラジルに残った。
ポルトガルの革命政府は、ブラジルの地位向上を、よしとしなかった。ブラジルはまた、搾取されるだけの植民地に戻ってしまう。ブラジルの人々の間に、不安が沸き起こった。
彼らに、真っ先に賛同したのは、王太子妃、レオポルディーネだった。学識豊かな彼女は、時代を正確に読み、その上で、ブラジルの人々に、深い理解と愛情を示した。
レオポルディーネは、夫、ペドロを励まし、独立を促した。
同じ22年の10月、ブラジルは、ポルトガルからの独立を宣言する。ペドロは、ブラジル皇帝ペドロ1世となった。
結婚当初、ペドロは、優しい夫だった。彼は、新妻の白い肌に魅せられ、その聡明さに打たれた。
レオポルディーネも素直に夫を愛し、ある時は助言し、次々と彼の子を産んだ。ハプスブルク家の女として、愛する夫の子を産むことは、神聖な義務だった。
だが、夫の愛は、長くは続かなかった。
多情で、情緒不安定。
娘の結婚前に、オーストリア皇帝が得ていた情報は、正しかった。それでも彼は、国益を優先するメッテルニヒに逆らえなかったのだ。この結婚を、阻止できなかった。
そもそも、結婚前、彼には、情婦がいた。結婚に際し、ペドロの父のポルトガル王が、強引に別れさせたという過去さえあった。オーストリア皇帝(レオポルディーネの父)の不快を恐れてのことである。
再びペドロは、愛人を作り、その存在をおおっぴらにするようになった。妻には、十分な資金を与えず、宮殿から出さなかった。また、自分の情婦を、彼女付きの女官として雇用させたりもした。
レオポルディーネの死は、妊娠中の彼女の腹を、夫のペドロが、強く蹴ったせいだと言われている。
レオポルディーネは死産し、10日後に亡くなった。
皮肉なことに、レオポルディーネが亡くなって初めて、ペドロは、妻の誠実さと、自分に向けられていた無償の愛に気がついた。国民の、彼女への思慕と弔意も、それに拍車をかけた。
今更ながらにペドロは、レオポルディーネの死を深く悲しんだ。
彼は、愛人と別れ、レオポルディーネの父、オーストリア皇帝に悔恨の手紙を書いた。
オーストリア皇帝は、この
1831年、5歳の息子に譲位し、ペドロは、一人、ブラジルを離れた。
そして、長女マリアの利権を守るため、ポルトガルの内乱に身を投じる。
残りの生涯、彼は、レオポルディーネの残した遺児たちに、誠実だった。
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※レオポルディーネ
フランツの母、マリー・ルイーゼの妹です。メッテルニヒにの采配で、ポルトガル王室のドン・ペドロと結婚しました。
レオポルディーネは、
1章「悪鬼ナポレオン」
2章「強情さは父譲り」「年寄りの気難し屋」「ブラジルにて」
に登場しています。
【以下は、蛇足です】
※ブラジルとポルトガルにご興味をお持ちの方だけ
ポルトガルは、ナポレオンの大陸封鎖令に反対したため、フランス軍の侵攻を受けました。この為、1808年、ポルトガル王室は、イギリスの護衛のもと、植民地だったブラジルへ避難しました。イギリスがポルトガル王室の味方についたのは、ナポレオンの大陸封鎖令は、イギリスに不利な貿易政策だったせいですね。
これに伴い、ブラジルのリオデジャネイロは、ブラジル・ポルトガル連合王国の、首都になりました。人口が増え、高い文化も持ち込まれました。
1817年、この地で、皇太子ペドロは、オーストリア皇女、レオポルディーネを妻に迎えます。(つまり、メッテルニヒが、皇帝の娘を売り渡したわけです)
ナポレオンのセント・ヘレナ幽閉後も、7年間も、ポルトガル王室御一行は、ブラジルに居残っていました。南米は、ポルトガル宮廷にとって、よほど居心地がよかったみたいです。
一方、王室のいなくなったポルトガルは、イギリスの保護国の扱いになっていました。しかし、ポルトガルは、フランスと戦った戦勝国でもあったわけです。それなのに、逃げた国王はいつまで経っても帰ってこず、ナポレオン没落後も、イギリスの保護を受け続けているとは……。国に残った人々の、不満が募ります。
そういうわけで、1820年、ポルトガル軍らによる自由主義革命が起きました。彼らは、国王の帰国と、立憲制を求めました。
翌21年には、王族のいるブラジルでも、ポルトガル兵が決起します。(交渉に当たったのは、皇太子ドン・ペドロでした)
自由主義革命を受け、イギリスはポルトガルから手を引き、1822年、父王(ジョアン6世)はじめ王室は、ポルトガルへ戻りました。ジョアン6世は憲法を受け入れ、三権分立を認め、ポルトガルは、絶対王政から、立憲君主国となりました。
(革命を成功させた自由主義者たちを、
この時、皇太子ペドロは、摂政として、レオポルディーネとともに、ブラジルに残りました。
ところが、
コルテスは、ペドロの権利を剥奪し、ポルトガルへ帰るよう、要請します。
このままでは、ブラジルの地位は低下する一方だと憂えたブラジルの人たちに頼まれ、ペドロは、ブラジルに残る決意をします。ブラジルは、ポルトガルから独立し、ペドロが王位につきました。
(「わが血、わが栄光、わが神を、私はブラジルの自由に与えることを誓う。独立か死か!」というのが、その時の、ペドロの言葉です)
この時、最初にブラジルの味方についたのは、妻の、レオポルディーネでした。彼女はブラジル人を支持し、夫に、ブラジルに残るよう勇気づけたといいます。
一方、ポルトガルでは、ペドロの弟、ミゲル王子が、元帥として、政治に参加します。しかし、彼は、絶対王政の支持者だったために反乱が起き、ミゲルは、オーストリアに亡命しました。(そこにいたのは、メッテルニヒ。ミゲルは、保守反動の親玉、メッテルニヒの、友人、兼、客人扱いでした)
レオポルディーネが亡くなる半年前、ペドロの父王、ジョアン6世が亡くなりました。ペドロは、ブラジルにいたまま、ポルトガル王にも即位します。しかし海を挟んでの統治には、無理がありました。彼は2ヶ月半で退位、7歳の娘、マリア(レオポルディーネとの間に生まれた娘)に譲位します。
マリアの即位は、ペドロの弟、ミゲルとの結婚が条件でした。しかし、オーストリアへの亡命中に、メッテルニヒの薫陶(?)を受けたミゲルは、マリアを無視して、勝手に、ポルトガル王を名乗ります。そして、絶対君主として、極端な保守反動政権を敷きました。
1831年、ペドロは、ブラジル皇帝の座を5歳の息子(レオポルディーネの生んだ子)、ペドロ2世に譲ります。翌年、ポルトガルに上陸、弟ミゲルとの間に、壮絶な戦いが始まります。
ミゲルとの戦い(ポルトガル内乱。兄弟ゲンカとも)の前にも、ポルトガル出身の皇帝を良しとしないブラジル反抗勢力の反乱、アルゼンチンの独立など、レオポルディーネ亡き後、ペドロの後半生は、戦いの連続でした。
1834年、ミゲルは退位を強制されて、ここにようやく、ペドロの娘、そして、レポルディーネの娘であるマリアが、復位を果たしました。
同じ年、ペドロは、病死します。
ところで、レオポルディーネの死後、ペドロは再婚していますが、相手は誰だったと思いますか? なんと、あのウジェーヌ(そうです。オルタンスの連れ子で、ポレオンの義理の息子……つまり、フランツの義理の兄です)の娘、アメリー・ド・ボアルネなんですよ!
そして、彼女の生んだ娘は、後に、……この辺りの因縁は、もう少しよく考えてみたいと思います。
レオポルディーネについては、短編集「黄金の檻の高貴な囚人」中、「もう一人の売られた花嫁」に纏めてあります。
https://kakuyomu.jp/works/16816927619976738092/episodes/16816927859098656278
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