ゾフィーが伝えたこと



 「よく来たわね、フランツル。待っていたわ」

 ゾフィー大公妃は、そわそわしていた。

 部屋は、人払いしてあった。夫のF・カール大公はおろか、侍女の一人もいない。


 ゾフィーはフランツを、部屋の奥に招き入れた。

 暖炉のすぐそばの椅子に腰を下ろす。

「お座りなさいな、フランツル」


「はい」

いつもと違う雰囲気を、フランツは感じた。

 芝居を観に行く時や、廷臣の誰彼をあげつらう時の、楽しげなウィットは、かけらも感じられない。


「お茶を……」

 そわそわと立ち上がり、ゾフィーは陶磁のポットを取り上げた。

 カップに注ごうとして、ソーサーにこぼれた。手が、がたがたと震えていた。


「大丈夫? 寒いの? ゾフィー」

その手からポットを取り上げ、フランツは尋ねた。

 ゾフィーは首を横に降った。

「フランツル。これからする話は、ここだけの秘密にしてほしいの。誰にも言ったら、ダメ。守れる?」

 フランツは頷いた。



 ゾフィーもフランツも、外の世界から来た、いわば、よそ者だ。ふたりとも、未だに、ハプスブルクの宮廷になじめていない。


 ナポレオンの息子も、子どもを産めない大公妃も、深い疎外感の中にいた。

 それが、二人の共通点だった。二人はお互いの中に同じ孤独、同じ寂しさを見い出した。


 でも、それだけではない。

 ふたりとも、根は、快活な性格だった。

 陽気で明るく、常に楽しみを求めていた。冗談や、機知に富んだやり取りが、大好きだった。

 これは、厳格なハプスブルク宮廷には、全くなじまないことだった。本性を、隠す必要がある。


 時間は、かからなかった。同じように自分を隠していることを、ゾフィーはフランツの中に、フランツはゾフィーの中に見い出した。


 一緒に過ごす時間が増えた。

 ゾフィーは好んで甥を、観劇のエスコートに指名し、フランツはそれに従った。

 よそ者同士である二人は、共通の、楽しい時間を過ごした。


 フランツにとってゾフィーは、ハプスブルクの宮廷で初めて得た、同志だった。

 その同志を裏切るなど、ありえない。



 ゾフィーはため息をついた。

「すごく迷ったの。あなたにこの話をしてもいいものかって。皇帝や、夫を裏切ることにならないかしら。でも……」


 うつむき、ハンカチを捻っている。

 感情をこらえる時の、ゾフィーの癖だ。

「でも、あなたには、知る権利があると思うの。知れば、あなたも、少しは……」

言葉を濁した。


「僕が? 知る権利?」

 どういうことか、フランツには、さっぱりわからなかった。

 ゾフィーは頷いた。

「最初から話すわね。ウジェーヌ・ド・ボアルネのことは、知ってる?」

 バイエルン出身の叔母の口から出た、思いもかけない名前に、フランツは虚を衝かれた。



 ウジェーヌは、ナポレオンの前妻、ジョセフィーヌの連れ子である。妹のオルタンスとともに、ナポレオンの養子になった。


 フランツは、ナポレオンの実子である。ナポレオンと2番めの妻、マリー・ルイーゼとの間に生まれた。


 血の繋がりはなく、年齢も親と子ほど離れている。でも、ウジェーヌは、フランツの兄に当たるのだ。


 祖父の皇帝は、口を鎖し続けた。

 家庭教師たちも、教えようとしなかった。

 それでも、フランツは知っていた。彼は父方の親戚に関して、多くの情報を、活字から得ていた。



 ゾフィーはすばやく、甥の顔色を読んだ。

 彼女は先を続けた。

「私の異母姉あね、アウグステ・アマーリアが、ウジェーヌの妻だったの。それも知っているわね?」


 フランツは頷いた。

 彼が叔父の妻ゾフィーに親近感を抱いた、そもそものきっかけは、そこだった。

 彼女は、フランツの、(義理の)兄の妻と、(異母)姉妹なのだ。


「気の毒なことに、ロイヒテンベルク公(ウジェーヌのこと。ロヒテンベルク公は、ウジェーヌの為に新設された、バイエルンの公爵位)は、卒中で亡くなりました。1824年、私がオーストリアに嫁いでくる年の2月に」


 ゾフィーは立ち上がった。

 部屋の隅のキャビネットの前まで歩いていく。古く頑丈なキャビネットには、大きな錠前がついていた。彼女は、首から下げた鍵を、その鍵穴に当て、回した。

 軋んだ音がして、キャビネットの扉が開く。


 中から彼女は、くるくると巻いた手紙を取り出した。

「あなたが読んだら焼き捨てることを条件に、預かったの。……亡くなったロイヒテンベルク公ウジェーヌからの手紙よ」


 見えないものに操られるようにして、フランツはそれを受け取った。震える手で紐を解き、紙を広げる。

 恐ろしい集中力で読み始めた。


 ゾフィーは、甥からそっと、目をそらせた。



 親愛なるローマ王

 あなたをこの名でお呼びすることを、お許し下さい。

 私は、あなたと同じく、偉大なるナポレオンを父と呼ぶ栄誉を賜った者です。

 ナポレオンは、母ジョセフィーヌの連れ子でしかなかった私と妹オルタンスを、それはそれは手厚く取り立てて下さいました。その恩を、私も、オルタンスも、一生、忘れません。


 どこまでも、私達兄妹は、父ナポレオンに忠誠を誓います。


 ひとつだけお詫びを申さねばならないことがあります。私は、エルバ島を脱したナポレオンの、傍らにあることができませんでした。当時私は、イタリア副王の座を追われ、妻の実家であるバイエルンに亡命しておりました。


 ナポレオンがエルバ島から脱出し、カンヌ近郊のジュアン湾に上陸した報を聞き、私の体は震えました。

 ついにこの時が来た!

 彼と再び会い、共に戦う喜びに、私は、殆ど涙したのです。


 ですが、結果として、私は、参戦を許されませんでした。バイエルンを離れないよう、強制されたのです。一度外に出れば、即、逮捕、処刑されたことでしょう。


 ドフィネ地方を進み、ガプで歓呼を受け、鷲(ナポレオン)の飛翔は、快進撃を続けます。

 ラフレでの危機。そして、グルノブルでの、ペドワイエル大佐との、感動的な再会。


 刻一刻と、それらの報を受け、幽閉中の私が、どんなに身悶えし、焦り、我が身を悲しんだことか!


 そして、パリ入城、組閣。


 裏切り者のベルティエは、自ら死を選びました。

 ああ、なぜ、今、私は、生きているのか……。

 どんなにか、私は、ナポレオンと共に、戦いたかったことか。

 いっそ、ワーテルローの泥の中に、この屍を晒したかったことか。

 ……。


 このことだけが、生涯の心残りです。ナポレオンのために戦い、戦死することが、私の望みでした。


 免罪符にしてくれとは、申しません。ですが、わが妹の名誉のために。

 妹、オルタンスは、エルバ島脱走の報を聞くや、いち早くパリ・チュイルリー宮殿に戻りました。その後はずっと、あなたの母君、皇妃マリー・ルイーゼの代わりに、女主人役を務めました。


 親愛なる弟、ローマ王。

 どうか、不甲斐ない兄をお許し下さい。しかし、我々兄妹の忠誠は、決して疑わないで下さい。


 今、私の主君はあなたであり、あなた以外に仕えることは、考えられません。

 ひとたびあなたが声をお掛けになれば、どこにいても、喜んで馳せ参じます。そしてそれは、私一人ではありません。フランスには、あなたのお帰りを待つ者が、大勢おります。


 我らが母、ジョセフィーヌは、死の間際にあって、あなたの名を口にしました。あなたこそが、フランスの光、希望です。


 ナポレオンはあらゆる手段をつくして、オーストリアから、あなたを取り戻そうとしました。あまたの手紙を、あなたに書き送りました。しかし、全ては謀略の手に落ち、連絡の道は途絶えました。


 けれど、ナポレオンは、絶望しませんでした。

 なぜならあなたこそが彼の後継者、偉大なるナポレオンの血を継ぐ皇子だからです。



 我らが父、ナポレオンは、亡くなる前に、遺書を著しました。お読みになられたでしょうか。

 父は、あなたが16歳になる年に届くよう、使者を立てました。その先達を務めるのが、私です。

 まだ、先の話です。どうか、いましばらく、お待ちくださいますよう。

 しかしながら、もし万が一のことを考え、今、この手紙を認めております。


 その時が着たら、私のお伝えすることは、ただひとつ。

 あなたは、フランスの王子、ナポレオンの希望です。

 あなたが16歳になられるのを、私を始め、かつての廷臣達、そしてフランスの民は、いまかいまかと待ち詫びております。

 そのことを、決して、お忘れなさいますな。



 最後に、僭越ながら、私、この愚かな兄からも一言。

 私は、いつも、あなたの味方です。あなたのために、最後の弾丸まで使い尽くす覚悟でおります。

 私の命は、あなたのために。

 お会いできる日を、楽しみにしております。



1824年2月


    ウジェーヌ・ボアルネ




 手紙を読み終えたフランツの目には、涙が光っていた。


 「自分に万が一のことがあった場合に備えて、ロイヒテンベルク公ウジェーヌが書き残した手紙らしいの。日付の月の24日に、彼は亡くなられたから、本当に、ぎりぎりの時に書かれたのね。亡くなってから、妻のアウグステ・アマーリア……私の異母姉……が、見つけたの。ちょうど、私のオーストリアへの輿入れが決まった頃だったわ。亡くなった夫の手紙を、異母姉あねは、私に託したの」


「ゾフィー、ありがとう。僕は君に、なんとお礼を言ったらいいか」

「いいのよ、フランツル。異母姉あねは、ウジェーヌを、愛していたのよ。いいえ、今でも、愛している。素晴らしいことだわ。羨ましくさえある……、その気持を、私は、汲んであげたかったの。それに、私のもう一人の異母姉あねは、この国の皇妃ですもの。私は、何の危険も犯してはいないわ」



 皇帝の4番めの妻、カロリーネは、ウジェーヌの妻であるアマーリアの、同母妹である。いざとなったら、手紙の件は、もみ消してくれただろう。



 フランツは、もう一度、手紙を読み返した。

 その目から、とうとう、涙がこぼれ落ちた。

「僕は、父上から、愛されていたんだね? 愛されて、期待されていたんだ……」

「そうよ、フランツル。お父様だけじゃないわ。あなたに期待している人はたくさんいる。今でも! あなたは、ひとりじゃないの。決して、孤独なんかじゃないんだわ」

 ゾフィーは両手を広げ、泣いている甥を抱きしめようとした。


 ふいに、フランツの目に、不穏な色が灯った。

「でもそれは、この国ではない。フランスなんだ……」


 はっと、ゾフィーはたじろいだ。

 彼女の産む子どもは、いずれこの国の皇帝となる。そしてフランスは、いつまでオーストリアと友好を保っていられるだろう……。


 三度、フランツは、手紙を読み返した。名残惜しむように、ゆっくりと。最後まで。


 顔を上げた。深いため息をつき、すぐに、手紙に目を落とす。

 もう一度。もう一度だけ。

 一言一句も読み落とさないように。

 行間のどんな意味も見逃さないように。

 ……心ゆくまで。どうか。時間を。


 読み終わると、フランツは無言で、手紙をゾフィーに渡した。

 ゾフィーはそれを、暖炉の火にくべた。








※ベルティエ元帥

ベルティエ元帥は、ナポレオンの腹心でした。しかしロシア戦役を経て、その心情は、少しずつ、変化していきます。


ナポレオンがエルバ島に封じられた時、彼は同行せずに、ブルボン王朝に仕える道を選びました。ナポレオンのエルバ島脱出の報に触れたベルティエは、窓から身を投げて自殺したと言われています。かつての忠臣の死は、ナポレオンにひどいショックを与えました。ナポレオンは、鬱病の発作を起こしたそうです。


なお、ベルティエ元帥は、マリー・ルイーゼとナポレオンの結婚の、特命大使を務めました。

ベルティエが出てくる章は、

1章

 「結婚のプロトコル2」「誰も見ていなくて、良かったね!」「パパ・フランツをやっつけろ!」「馬鹿なのかしら」

です。




※ゾフィーとフランツ、そして、祖父の皇帝の4人めの皇妃との縁戚関係を、ホームページにまとめてあります。


https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#sophie


(ページトップは

https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html




※ウジェーヌの置かれた環境や没年等は史実で、彼が、ローマ王に従う決意でいたことも、実際に本人が口にしています。ですが、フランツに宛てた遺書は、創作です。ゾフィーが暖炉で焼きましたからね……。

ゾフィーのスキャンダルについては、もう少し後で、しっかり描きます。今は未だ、いろいろ育てている最中です。お待ちの方、今しばらくのご辛抱を。

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