「私は王の息子だというのに……」



 馬車で、ルドルフ大公の膝に落ちた三色旗は、フランスの室内装飾家の青年が、投げ入れたものだった。

 通行証の記録から、身元が割れた。

 調べ上げたのは、アシュラの上司、秘密警察官のノエである。


 この青年、ジョセフ・ロマン・ドゥディを、だが、ノエは、今一歩のところで取り逃がした。


 調子に乗ったドゥデイは、フランスに、ライヒシュタット公支持のクラブを作ったと公言した。

 裏は取れなかった。そのような党派の確認はできなかった。

 また、ライヒシュタット公の馬車に三色旗を投げ込んだのは、ドゥデイの単独犯の可能性が高かった。ボナパルト派や、共和党などの党派が絡んでいる可能性は薄い。


 事件を大きくすることは、フランスの政情不安に繋がる。

 ノエの上官、「切り裂き伯爵」セドルニツキは、ドゥディを狂人だと認定した。さらに、宰相メッテルニヒが、フランスへ通報した。


 ドゥデイは逃亡を続け、現在ノエは、オーストリア及び、ドイツ諸邦を渡り歩いて、彼を追跡中である。







 歴史の学習において、もはや父ナポレオンに触れずに済ませることも難しくなっていた。

 ナポレオンの名を出さずに、現代史を学ぶことは、不可能である。


 「よい。あれの父親のことは、なにひとつ、隠すでない」

 もうだいぶ前に、教師たちは、皇帝から許可を貰っていた。


 フランソワは、家庭教師から、父の野望と失策、帝国の没落を教わった。彼の教科書では、フランスは「敵国」、フランス軍は「敵軍」と、書かれていた。


 教師たちは、安心していた。フランソワは、軍務以外に興味を示さなかったからだ。

 彼の夢は、依然として、白の軍服(オーストリア将校の服)を着ることだった。


 自分がフランスのプリンスだったとは、忘れ果ててしまったように見受けられた。

 一人、ディートリヒシュタイン伯爵だけが、軍務に有益な学問だけではなく、より深い教養を身につけるように、と主張し続けていた。







 宮殿の図書館のドアが、静かに開く。

 するりと音もなく、猫のように、プリンスが入ってきた。

 待ち伏せていたアシュラは、書架の陰に身を潜めた。



 あれから、フランソワの前に姿を現していない。彼から、そう言われたから。しかし、仕事は仕事だ。プリンスを、しっかり見張らなければならない。


 外国人と接触しないか。

 不審な手紙を渡されなかったか。

 おかしな思想に染まりはしないか。


 この頃彼はこうして、一人ひそかに、図書館にやってくる。

 宮廷の図書館は、この国の叡智の集大成だ。そして、今や、フランソワは、どの本も、手にとることができた。

 幼い頃、彼の書庫から取り除かれた、「有害」な書籍も、ここにはある。


 長い時間を、彼は、図書館で過ごしていた。

 今日も。昨日も。

 熱心に本を読み、時折、紙に書き写すフランソワを、アシュラはじっと見守っていた。



 その日は、いつもほど長居はしなかった。

 本を棚に返し、紙とペンをまとめると、フランソワは、図書館から出ていった。


 アシュラは隠れていた書架の陰から出た。

 さっきまでプリンスが立っていた本棚の前に行き、読んでいた本を探る。


 彼は、文学を好んでいた。

 ラシーヌやシャトーブリアン、ラ・ブリュイエール……


 ……フランス人作家じゃねえか。

 アシュラは、警戒した。


 特に、シャトーブリアンは、まだフランスで、元気に生きている。彼は、アンチ・ナポレオンであったはずだ。今は、ブルボン王朝を支持している。


 だが、プリンスが、最も頻繁に開いていたのは、フランス人作家の本ではなかった。プリンスが何箇所もノートに書き写したため、開きグセのついたその本は、フリードリッヒ・フォン・シラーの『ドン・カルロス』だった。



 「私には、父がいるということが、どのようなことなのか、わからない。……私は、王の息子だというのに」


 肩越しに声が聞こえ、アシュラは飛び上がった。

 プリンスが、背後から、一緒になって本を覗き込んでいた。

「相変わらず、こそこそと探っているな、お前。それで、僕の政府への反抗について、何かわかったか?」


「いいえ、何も」

 ぱたんと、アシュラは、本を閉じた。


 背伸びして、書架に返そうとする。

 プリンスが本を取り上げ、もとあった場所に戻した。

 彼の身長が、いつのまにか、自分を追い抜いていることに、アシュラは気がついた。

 思わず、憮然とする。


 フランソワが、嬉しそうに笑った。

「どうだ。僕の方が、背が高い。お前を追い抜いたぞ。もう、いい子いい子なんか、させないからな」

「いつでもしてあげますよ。あなたが私の膝に頭を乗せれば、ね」

「させないって、言ってるんだ!」

「ふん」


アシュラは肩を竦めてみせた。

「意外です。あなたは、文学作品と相性が悪いとばかり思っていました」


「心外だな」

プリンスは言ったが、大して気を悪くした風でもなかった。

「安心しろ。僕は、古い本しか読んでいないから。現代作家の本は、ナポレオン批判のシャトーブリアンだけだ。それと、……息子を殺す、王の話」


「へえええ。シラーのこれは、そういう話なんですか」

「思想をスパイしているんだろ? 対象が手に取った本くらい、読んでおけよ。シャトーブリアンの『パリからエルサレムへの旅』は読んだか? お前はフランス語が得意だって、ディートリヒシュタイン先生が言ってたぞ」

「フランス語は、愛を囁く為にあるんです。決して、小難しい本を読む為にあるわけでは……」

「またその話か」

 うんざりしたように、フランソワは遮った。

「お前は進歩がないな」


「なんにしろ、殿下の方からお声をかけて頂けて、よかったです。もう二度と姿を現すなと言われたので、私の方から声をおかけするのは、遠慮しておりました」

「……」


 フランソワは、ぐっと言葉につまった。

 アシュラは、にやりと笑った。


「いい機会だ。殿下。ひとつ、お教え頂きたい」

「教えてほしい? お前が? へえ、何を」

「例の、三色旗のことです。馬車に投げ込まれた」

「さあ、何のことかな?」

「惚けなくてよろしい。あなたは気がついたはずです。ルドルフ大公の膝の上に落ちた、フランスからのメッセージに」

「何を言っているのか、さっぱりわからない」


「殿下」

アシュラはため息をついた。上着の隠しに手を入れ、その日の新聞を取り出した。

 それには、でかでかと、

「 

 ライヒシュタット公の馬車に三色旗を

 セドルニツキ伯爵、ドゥディを狂人と認定

 」

と書かれていた。



「貴方の部屋で見つけました」

「お前、人の部屋から、勝手に持ってきたのか!」

「もう、読み終わられていたようなので」

けろりとして、アシュラは答えた。


 フランソワが唇を噛んだ。

「油断していた。この頃、身の回りを探られている気配がなかったから」

「ええ、それはもう、止めました。だから、引き出しに髪の毛を乗せておかなくても大丈夫ですよ」



 ある時点から、プリンスの部屋の、閉めた引き出しの上に、髪の毛が乗せられているようになった。金色の、細い髪の毛だ。もし、ほんのちょっとでも引き出しを動かせば、髪の毛は落ちてしまう。

 これはトラップだと、アシュラはすぐに気がついた。自分が留守をしている間に、誰かが引き出しを開けていないか、観察しているのだ。



 フランソワは目を瞠った。

「気がついていたのか!」

「だいぶ前から」

「それで、探るのを、諦めたわけか」

「いいえ。髪の毛なら、乗せ直せばいいだけの話ですから」

「なら、なぜ」


 ……監視は、あなたの孤独に加担することになるから。

「人の頭の中を探ることができるほど、私は、上等な人間ではありませんので」


 疑い深そうな目を、フランソワはアシュラに向けた。

「でも、今日は、僕の部屋から新聞を持ち出したわけだろ?」

「あなたの部屋には、常に、人の出入りがあります。本当に隠しておきたいのなら、鍵の掛かる引き出しにでも、入れておくものですよ」

「……今度からそうする」


「それで、殿下。私の質問にお答え下さい。なぜあなたは、馬車に投げ込まれた三色旗に、気づかないふりをされたのですか?」

「あの日は、ひどく暑かった。ぼんやりしていて、何が起こったのか、よくわからなかった」


「まだ、シラを切りますか。ディートリヒシュタイン伯爵など、あなたのことを、注意力散漫で、覇気がないと思っていますよ?」

「……ひどいな」

「私は、そうは思いません。あなたは、聡明なお方だ。投げ込まれた三色旗に気づかないふりをしたのには、何か、理由があるはずだ」

「……」

「黙り込んでいないで。私を騙し通せるなんて、思わないほうがよろしい」

「……」

「黙っていると、ディートリヒシュタイン先生に賛成しますよ? あなたは、ぼんやりしてばかりの、うっかり者だって」


「……試したんだ」

とうとう、フランソワは言った。すかさずアシュラが踏み込む。

「試した? 何を?」

「誰を、だ。僕は、ルドルフ大公を信じていた。大司教であられるし、枢機卿にも選出された。大公は、敬虔なカトリックで、これ以上ないくらい神に近い方だ。そうだろ?」


 アシュラは首を傾げてみせた。

 フランソワは肩をすくめた。


「それに何より、大公は、ベートーヴェンの熱烈な支持者でもあられる。お前は、僕を、音痴だと思っているようだが、」

「思っていませんよ」

「嘘をつけ。あのな。僕は、小さい頃、ベートーヴェンに会ったことがある。彼と、話したこともあるんだ。そういえば、お前と初めて会ったのも、ベートーヴェンの演奏会の後だったな」

「そうでしたね」



 皇帝の一番下の弟、ルドルフ大公は、生来、体が弱かった。僧職に就き、その傍ら、作曲も手がけた。ベートーヴェンに師事した後、長きに亘って、彼の支援を続けた。



 「ルドルフ大公なら、後で教えてくれると思った。それが、僕宛のメッセージなら、必ず!」



 だが、大公は、教えてくれなかった。

 三色旗トリコロールのメッセージは、やがて、メッテルニヒの知るところとなった。メッテルニヒはフランスに通報し、送り主の室内装飾家の青年は、狂人認定の上、指名手配された。


 正当な受取人フランソワに、何も知らされないまま。


 詳細を、フランソワは、新聞で知った。彼はその新聞を、町で、こっそり買い求めた。



「つまり、それが答えなんだ。ずっと、僕は、大叔父ルドルフ大公を信じていた。でも、彼は、それに値しない」


「正しい判断ですね」

 アシュラは言った。

 フランソワが、目を丸くしている。


「殿下、」

 言いかけて、アシュラはためらった。

 慎重に、言葉を選ぶ。

「殿下は、どうなさったでしょう。……もし、ルドルフ大公が邪魔立てせず、トリコロールのメッセージを受け取ることができたのなら」

「なんだって!?」

フランソワは虚を衝かれた顔をした。畳み掛けるように、アシュラは言葉を重ねる。

あの男フランス人から、直接メッセージを手渡されたなら、あなたは、どうなさったでしょう。彼について、フランスへ、帰ってしまわれたでしょうか」


「まさか!」

フランソワは叫んだ。

「まさか、そんなこと……僕は、お祖父様を裏切るような真似は、絶対、しない!」

「本当に?」


 強い目をして、フランソワは頷いた。

「僕は、お祖父様と一緒に朝食を摂るのが、大好きだ。政務にお忙しいお祖父様が、無理をしてでも、僕を同席させて下さるのが、わかっているからだ。お祖父様は、僕の将来を、真剣に考えて下さっているんだ」



 父ナポレオンが没落し、フランソワは、「ローマ王」ではなくなった。母マリー・ルイーゼが一人で領地へ旅立ち、「パルマ小公子」でもなくなった。


 無位無冠の彼の為に、「ライヒシュタット公」の位を新設したのは、祖父の皇帝である。

 「オーストリア大公」に次ぐ地位を与え、身分と、将来の収入を保証したのだ。



「僕に、軍務への道を歩ませてくれたのも、お祖父様だ」



 ナポレオンの息子は僧侶に。

 ウィーン宮廷には、暗黙の了解があった。皇帝の叔母、マリア・カロリーナが言い出したことだ。彼女は既に亡くなっているが、その言葉は、宮廷で一人歩きをしていた。


 ……大きくなったら、お前は、何になりたいんだい?

 ……僕は、軍人になりたいです。


 しかし、皇帝は、孫の希望を、第一に考えてくれた。13歳の時に、フランソワは、正式に、軍事キャリアをスタートさせた。



「お祖父様は、民衆にとても慕われている。慈悲深く、有能な君主である証拠だ」



 実際のところ、この皇帝は、検閲が好きなので有名だった。集められた手紙を、自ら読むこともあった。

 堅苦しいまでに実務に忠実で、融通がきかない。


 それでも、彼が長い戦いから帰ってくると、民衆は、歓呼して出迎えた。

 つい最近の、病気平癒の熱狂も、民の、皇帝への素直な思慕から湧き上がったものだ。



 アシュラを睨むようにして、フランソワは言った。

「僕は、お祖父様だけは、絶対に裏切らない」


「なるほど。なるほどね」

 アシュラは言った。首を傾げた。

「なんだ。何か、不満か」

「不満というか……」


「僕は、フランスには、なんの興味もないよ」

さらりと、フランソワは言ってのけた。

「軍務だけが、僕の生きる道だ。僕は、オーストリアの将校になりたいのだ」


 フランソワは、開かれたままの本を閉じた。

「ほら。シャトーブリアンも仕舞っておけよ。ちゃんと正しい位置に戻さないと、次に探す時にわからなくなる」


 差し出された本に添えられた手を見て、アシュラは、はっとした。

 「プリンス!」

 思わず叫び、その手を取った。

 手首を握り、引き寄せる。

 かさかさとしていて、光の加減か、ひどく黄色っぽく見える。

「この手……、具合でも悪いのですか?」

言い終わらないうちに、フランソワは、さっと両手を引っ込めた。

「なんともない」

袖口で隠すようにもぞもぞさせている。


「なんともないわけ、ないでしょ。見せてご覧なさい」

「いやだ」

両手を後ろに隠し、後退る。


 アシュラは、彼に近づき、強引に、手を握った。窓に向けて、目を近づける。

「光の影響じゃない。色が、変わって見える。どうしたんですか? いつからです!?」

思わずきつい口調になっていた。フランソワはちらりとアシュラを見、目をそらせた。

「お前には、関係ないことだ」

「関係なくないです。私はあなたの……」

少し、ためらった。結局、アシュラは言った。

「私は、あなたの、スパイですから!」

「メッテルニヒに言うのか? ディートリヒシュタイン先生なら、知ってるぞ」


 再び引っ込めようとする手を、アシュラは、強く握った。

 黄色っぽく変色した肌を、何度も撫でてみる。強くこすった時だけ、肌は元の色を取り戻した。


「無駄だよ。感覚が、なくなってるんだ」

アシュラに手を預けたまま、フランソワが言った。

「湿気の多い日に、よくこうなる。去年くらいからかな? 最初は、指だけだった。だんだん、ひどくなってきている」

「だからあなたは、手袋をしていたんですね。夏の暑い日にも」

「だって、恥ずかしいじゃないか。こんな、……」


にわかに引き戻そうとする。逃すまいとアシュラは、ぎゅっと握りしめた。


「恥ずかしいことなんか、ありません。あなたの手でしょ。他に具合の悪いところはありませんか? ディートリヒシュタイン伯爵は知っているって? なら、医者には診せましたよね?」

「診せた。ゴリス医師せんせいは、心配いらないって」

「その医者、ヤブ医者じゃないでしょうね?」

「宮廷の医師だぞ。名医に決まってるじゃないか。その名医が、よくあることだから、大丈夫だって、言ったんだ」


「なら、いいです」

まだ納得いかぬ気に、アシュラは、フランソワの手をこすり続けている。

「ほら。赤みが差してきた」


「もうよせ!」

 乱暴に、フランソワはアシュラから、自分の手を、力任せに引き抜いた。

 真っ赤な顔をしていた。その顔で、睨む。

「僕も堕ちたものだ。無能なスパイに心配されるなんて!」

 言い捨てて、フランソワは、足音荒く立ち去っていった。


 ……無能なスパイ、か。

 ……確かに、俺は無能だな。

 文学書の並んだ本棚の前に一人残され、アシュラは苦笑した。

 ……対象プリンスに、気配を感じ取られていたなんてな。


 フランソワは、図書館に来たのは、文学作品を読むためだという風に、装っていた。シラーやシャトーブリアンの話で、アシュラを煙に巻いた。

 だが、いつも彼が通っている棚は、文学の棚ではない。図書館に入ってきた時、プリンスは、アシュラが潜んでいるのに気がついた。だから、この棚を選んだのだ。


 フランソワの本来の目的、それは、通路を挟んで、隣の列にある。

 歴史の、真ん中あたり……、

 フランス現代史の棚だった。そこだけ、本の並びが、がたがたになっている。頻繁に、出し入れされている証拠だ。


 棚に並んでいるのは……。

 ラズ・カスの『セント・ヘレナ島回想記』、モントロンの『回顧録』『漂白のナポレオン』……。


 新しい本ばかりだ。セント・ヘレナ島でナポレオンに付き従っていた廷臣たちが書き下ろした本。いずれも、ベストセラーになっている。


 ……あ。これも!

 アシュラは、一冊の本を手にとった。

 アントマルキの『回想記』。

 アントマルキは、ナポレオンを最後まで治療し、その死を看取った医師だ。

 開くまでもなく、本は、あるページを、自然に開いた。


……私の息子は、フランスのプリンスとして生まれたことを、忘れてはならない。そして、今、ヨーロッパを牛耳っている者どもの手先となってはいけない。決して、フランスと戦ってはならない。どんなことであれ、フランスを傷つけることなかれ。父の座右の銘を、心に刻んでおくように。

……全ては、フランスの人々の為に。


 ナポレオンの遺書だ。アントマルキの著書には、ナポレオンの遺書が、掲載されている。


 ……プリンスは、父親の遺書を読んだのだな。

 どんなに厳重に隠しても、無駄だった。ナポレオンの遺書は、印刷され、ヨーロッパ中にばらまかれている。

 ベストセラーとなって、ますます増殖し続けている。


 ……僕は、フランスには、何の興味もないよ。

 ……僕は、オーストリアの将校になりたいのだ。


 確かにフランソワは、そう言った。

 だが彼は、父親の遺書を読んだ。


 ……フランスのプリンスとして生まれたことを忘れてはならない。

 ……全ては、フランスの人々の為に。


 父の言葉を、プリンスは、知ってしまった。

 ……これから彼は、どうするつもりだろう。



 こんな形であれ、父親の遺志を知ることができて、プリンスは幸せだったろうか、と、アシュラは考えた。

 ナポレオンは、何通も遺書を書いたといわれている。敵の手に落ち、届かないことを危惧してのことだ。彼は、息子が、活字で自分の遺志を知ることを、予期していたのだろうか。


 本音を一切漏らさずに死んでいった自分の父親のことが、頭に浮かぶ。

 勝手だと思った。

 自分の父も、そして、フランソワの父親も。


 ナポレオンの遺書は、息子への押しつけのように、アシュラには思えてならない。

 2歳で離れ離れになった息子がどういう人間か、ナポレオンは知らないはずだ。彼がどういう人に囲まれ、どういう教育を受け、どんな風に育てられたのかも。

 彼が、何を考え、何を大切に思い、どういう風に生きたいと望んでいるのかも。

 それなのに、問答無用で、フランスの為になれ、なんて。


 アントマルキの本を書架に戻し、アシュラは図書館を後にした。

 この件について報告するつもりは、

 ……ディートリヒシュタインにも、メッテルニヒにも……、

 ……ない。

 アシュラは、政府宰相の犬ではない。







『ドン・カルロス』、岩波文庫で読んでみましたが、作中でフランソワがアシュラにささやいてみせたセリフは、みつかりませんでした。

佐藤通次氏の後書きによると、原初は、約5年に亘って書かれており、1787年の初版は、非常に長いものでした(しかも、詩と散文の、2種類!)。その後(1801年と1805年)、詩形の方を、さらに短縮したものが、今、出回っているものだそうです。

プリンスの好んだセリフは、改稿の間に、消されてしまったのでしょうね。彼のいた頃は、古い版か、あるいは、散文体の方が残っていたのだと思います。でも、私達は読むことができません。残念です……。


このセリフは、実際には、家庭教師が聞いたものです。「すらりとした長身、美貌の孤独な青年が一人この詩を口ずさむ時、何か鬼気迫る悲壮な雰囲気が漂っていたと先生は回想して」(塚本哲也『マリー・ルイーゼ』)いたそうです。







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