プリンスの居場所


 ディートリヒシュタインが、ぷりぷり怒りながら控室に戻ると、黒髪の若い男が待っていた。

「だいぶヒートアップなさったようですね。ここまで聞こえましたよ」

 アシュラ・シュタイン。

 秘密警察員だ。彼には、フランツの身の回りを探らせている。


 「君のその英語グセは、直した方がいい」

いらいらとディートリヒシュタインは言った。

「ひどく軽薄に聞こえるぞ」

「失礼、上司の癖が感染ってしまったようです」

苦笑いを浮かべ、アシュラは言った。


 ディートリヒシュタインは、ため息を吐いた。肘掛けの付いた椅子に、どすんと腰を落とす。

「せめてプリンスに、君くらいの語学の力があったら、どんなによかったか……」


 実際、この黒目黒髪の青年は、フランス語もよくできた。故郷の村の神父から教わったというが、それだけでここまで上達するとは、大したものだと、ディートリヒシュタインは舌を巻いた。

 それに比べて、国の最高峰の語学教師を抱えるプリンスときたら……。

 いや、不注意さえなくせば、プリンスのフランス語は、完璧なのだ! それなのに、あの怠け者は……。



 「何か報告でも?」

ディートリヒシュタインは尋ねた。

 アシュラは首を横に振った。


 重ねて、家庭教師は尋ねた。

「君から見て、プリンスは、どう映るか」

 アシュラは少し、考えた。

「少し、同年代の友達と接触した方が良いのではないかと思われます」

 ディートリヒシュタインは頷いた。

「プリンスも、もう子どもではない。同年代の友人が必要だ。しかし、誰でも良いというわけにはいかない。……実は、プリンスの友人になりたいと、立候補してきた者がいるのだ。その青年は、プリンスより、4つ年上だ。家柄も申し分ない。だが……」


「何が問題なんですか?」

「とにかく、遊び人なんだよ。ウィーンの悪所には、たいてい、顔を出しているという噂だ」

「うわ。悪いことを教える気、まんまんって感じですね……」


 含みのある言い方だった。だが、ディートリヒシュタインは気にしなかった。悩みが深く、それどころではなかったのである。

「うむ。それを危惧している。彼の父上は、実力のある貴族なんだが、この話、断るしかないな……」


「断る必要はありません。大丈夫ですよ。ライヒシュタット公はあれで、かなりの箱入りですから」

 アシュラには、なにか、確信があるようだった。口を極めて言い募る。

「その上、恥ずかしがり屋で、……まるで、深窓の令嬢のようです。彼より内気なお嬢様がいたら、記念に、会っておきたいところです。心配いりませんよ、先生。プリンスは、悪所に行っても、何もしないで帰ってくるタイプだから」


 不意に口をつぐんだ。しまった、言い過ぎた、という顔をしている。

 だが、ディートリヒシュタインは怒らなかった。我知らず、深刻な顔になった。


「男の中で育ててしまったからな。我々家庭教師もそうだし、付き人も、男ばかりだ。だからプリンスは、普通の、同年代の若者の価値観を、軽蔑するようになってしまったのだ。これは、よくないことだ。もっと、女官を置くべきだった」

ため息をついた。

「私から、皇帝と政府に進言すればよかった。後悔している」


 いつまでも際限もなく、後悔の波に飲み込まれそうな気分だ。

 ディートリヒシュタインには、こういうところがある。こと、プリンスの教育に関して、彼は、いつも最良を求めてきた。頂上を求めすぎて、どれが最良だったか、わからなくなることがある。



 「ところで伯爵。ライヒシュタット公の馬車に、手紙が投げ込まれた話を聞きました」

 アシュラが、話題を変えた。


 この件で、来たのかと、ディートリヒシュタインは納得した。あの日、馬車の警護をしていたのは、宮廷の警備員だった。恐らく秘密警察の上層部からアシュラに、問い合わせが来たのだろう。


「ああ。ルドルフ大公の機知で、事なきを得た。プリンスは、気づかなかった。危なかった。もし彼が、あの手紙を読んだなら、傲慢さに拍車がかかるところだった」


 三色旗に包まれた手紙は、馬車に同乗してたプリンスの大叔父、ルドルフ大公の膝の上に落ちた。大公はこれをプリンスに隠して持ち帰り、皇帝に報告した。


「プリンスは、本当に気が付かなかったのでしょうか」

アシュラは首を傾げた。

「狭い馬車に物を投げ込まれて……。ライヒシュタット公は、何も気が付かなかったのですか?」


「少なくとも、プリンスは何も言っていない。いつもの通りだ。彼は、時折、ひどくぼおーっとしていることがある。注意力散漫で、全くもって、覇気がない。……わざと知らん顔をしていると思ったのなら、それは、君の買いかぶりだよ」

「そうでしょうか」


なおもアシュラは懐疑的だった。だが、ディートリヒシュタインは取り合わなかった。


 「ただでさえ、この夏は、いろいろあってな……。マリー・ルイーゼ様が里帰りなさったのは、知っているだろう?」

 ため息とともに、彼は言った。


 マリー・ルイーゼ、かつてのフランス皇妃で、フランツの母親だ。

 彼女は、イタリアのパルマを治めている。前回、ウィーンを訪れてから、実に3年ぶりの帰省だった。



 なかなか、息子の元へは帰ってこない母親だった。前回は、長引くフランツの咳を心配して、ディートリヒシュタインが、半ば脅迫めいた手紙を書き送り、ようやく、帰省が実現した。

 あの年は、12歳になったフランツが、軍事キャリアをスタートさせた年だった(正式には翌年から)。彼は、軍曹として、母と祖父の前を、大得意で行進して歩いた。


 しかし、母がパルマへ帰る時は、それはそれは、大変だった。フランツ少年は、母の馬車を、涙に暮れて見送った。それからすぐにペンを取り、手紙を書いた。それらの手紙は、早馬によって、母親が立ち寄る要所要所に送り届けられた。待ち伏せしているようだから止めろと、ディートリヒシュタインは止めたのだが……。


 すべてを諦め、絶望し、フランツ少年は、宮殿に帰った。ウィーン滞在中に、母が使っていた部屋の前を通りかかった時、彼は、ひどく泣いた。涙は留まることを知らず、ひっきりなしにしゃくりあげ、とうとう、息が詰まる発作を起こしてしまった。


 しかし、日常が戻ってくると、次第に、彼は、母親の話はしなくなった。

 新しく始まった軍務にのめりこみ、それに呼応するように身長も伸び、大人びてきた。


 ディートリヒシュタインは、もはや、マリー・ルイーゼに、息子に会いに来るようにとは、書き送らなくなった。

 その結果、彼女は、3年間も、息子に会いに来なかったというわけだ。


 12歳だった子どもは、15歳になり、マリー・ルイーゼは、その成長ぶりに驚いていた。身長は、女性にしては背の高い母と並び、まだまだ伸びそうな勢いだ。これでは道で会ってもわからなかったね、などと言って笑った。



 「まあ、いいだろう。母親にべったり張り付いているより、よほど建設的だ」

「それなら何を、先生はいらいらなさっているんです?」

「彼女は、お父上であられる皇帝に、プリンスの軍位を上げてくれるよう、頼んだ。マリー・ルイーゼ様におかれては、長いこと放ったらかしにしていたご子息への、贖罪の気持ちからのことだろうが……」


 軍曹は、一番下の位だ。

 フランツは、11歳で軍曹になったきり(正式には、その翌年から)、一度も昇進していない。軍功がないのだから、当たり前だ。


 アシュラが、はっとしたような表情を浮かべた。

「え! じゃ、プリンスは、いよいよ……」

 昇進とは、フランツが実務につくことだ。実際に使える軍人として、ウィーンを離れ、戦地に赴くことを意味しているのだ。

「いや。皇帝は、我々の教育方針にご理解がある。軍隊というものについても、精通しておられる」



 祖父である皇帝は、何年も息子に会いにこない母親より、思慮深かった。

 彼は、フランツの軍事的才能を認めつつも、まずは、家庭教師の賛同を得ることを条件とした。



 「もちろん、私は、猛反対をした」

ディートリヒシュタインは言った。



 皇帝と皇女に向かい、ディートリヒシュタインは、恐れることなく、熱弁を奮った。


 ……未だ、学業が成就しておりません。プリンスは、身長は伸びましたが、胸に厚みがありません。今はまだ、体を鍛えるべき時です。

 ……確かに、彼には、人を魅きつける力があります。容姿も端麗で、魅力的だ。だがそれは、同時に、大衆の熱狂を誘発する、起爆剤ともなります。絶大な人気。歓呼。無責任なお祭り騒ぎ。そうした局面に立ち至った時、彼に、正しい行動が取れるでしょうか。それだけの教育を、私は未だ、彼に授けることができていません。

 ……あと2年。将校に昇進するのは、せめてあと2年は、待つべきです。



 「私の意見は、皇帝と政府に受け容れられた。プリンスの昇進は、見送られた」

「ですが、オーストリアの将校になるのは、お小さい頃からの、プリンスの願いだったのでは?」


「私とて、生徒の自主性は重んじる気持ちはある。子どもだったプリンスに、軍隊の本を与えたのは、私だ。円滑に軍事教育を受けられるように、予習としての配慮だった」

「それなのに、昇進を反対なさった。……プリンスに、恨まれますね」

「恨まれるのも、仕事のうちだ。だが彼は、納得してくれたよ」



 教師の反対に対し、フランツからの抗議はなかった。自分を昇進させてくれるよう、母が祖父に頼んだことを、密かに、恥じているようだった。


 その彼に向かい、ディートリヒシュタインは言った。

 ……皇帝の判断は、極めて正当、かつ、妥当なものです。軍務において、貴方は、手柄のひとつでも立てましたか? 生まれついての身分だけを理由に、軍人としての身分を上げることは、他の兵士達から、嫌われます。早すぎる昇進は、拒否と非難しか招きません。



 「彼には、一流の教養と、高い見識を身につけてほしいのだ。父親と同じ轍を踏まない為に。私は、プリンスのもう半分の血を、どうしても信じることができない。それを制御することができるのは、教育だけだ」


 アシュラが首を傾げる。

「それは、プリンスにとって、あまりに窮屈なのでは?」


「窮屈とは?」

「彼は、軍人になりたいのでしょう? 立派で勇敢な、オーストリア将校に。実学だけ学べば、充分ではないでしょうか」


「それが、間違いなのだよ。確かに、軍に入れば、一人前と見做され、一応の自立を果たすことができる。実際、教養を身につけることなしに、軍務についた貴族の子弟の、なんと多いことか!」


「教養など、いざ戦争といった時に、役に立ちますか? いえ、あるに越したことはないでしょう。戦争を回避するためには、必要かもしれない。でも僕には、プリンスは、すでに充分な教養を備えているように見受けられます」

ちょっと考え、付け加えた。

「そりゃ、多少、間違い字を書く癖がありますが。でもそれは、体裁の問題です。教養を貶めるほどのことではありません」


「その体裁が、問題なのだ。わずかな隙をあげつらう輩が、いかに多いことか! ほんの些細な不注意が、失脚に繋がるのだ」

「失脚?」


 しまった、と、ディートリヒシュタインは思った。

 彼は、この黒髪の青年を信用していなかった。

 秘密警察は、宰相メッテルニヒの下にある。


「この話はおしまいだ。だが、ひとつだけ言っておこう。プリンスの居場所は、断じて、軍などではない」

 ディートリヒシュタインはドアを指し示し、黒髪のスパイを部屋から追い出した。


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