投げ込まれた三色旗と、崇高な義務
*
夏も終わりの頃。
ライヒシュタット公フランツは、大叔父のルドルフ大公と馬車に乗っていた。
皇帝の一番下の弟、ルドルフ大公は、枢機卿だった。皇帝の家族の
話題は、あまりなかった。
ルドルフ大公は、自分が庇護している音楽家の話をしていた。
1ヶ月ほど前、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの甥、カールが、拳銃自殺をした。
カールは、ベートーヴェンの弟の遺児だった。弟の妻を、ベートーヴェンは、嫌っていた。カールの養育を巡って、弟の妻と揉めたが、他ならぬルドルフ大公の尽力もあり、ベートーヴェンは甥の後見人になった。
ベートーヴェンは彼なりに、真剣に後見をしていた。しかし、音楽家の気持ちは、甥には伝わらなかった。
軍隊に入りたいという甥の希望をベートーヴェンが却下したことが、自殺の直接の原因だった。
幸い、弾は急所をそれ、命に別状はなかった。
だがこの事件は、ベートーヴェンに深いショックを与えた。もともと体調を崩していた音楽家は、この後、一気に悪化していく。
……。
大叔父の話を、フランツは、黙って聞いていた。少し、ぼんやりしているように、ルドルフには見受けられた。
2人の乗った馬車に、身なりの良い若者が、並行して歩いてきた。
暑い日だった。キャリッジの窓は開いていた。
何かが馬車に投げ入れられた。若者は、そのまま立ち去っていく。
それは、ルドルフの膝の上に落ちた。青、白、赤。三色の布が、くるくるとまかさっている。
はっとして、ルドルフは、反射的に、フランツを見た。
暑さと馬車の揺れで、フランツは、眠そうだった。何も、気がついていない。
ルドルフは、彼に気付かれないように、三色旗を僧服の間に隠した。
馬車が宮廷に着いた。ルドルフは、そのまま、兄の皇帝の部屋へ直行し、手紙を兄へ渡した。
三色旗には、手紙がくるまれていた。
「
3000万もの臣民が、あなたの帰りを待っています。フランスへ、お帰り下さい。陛下、私は貴方に、明けの明星をお渡ししましょう。
」
簡単なメッセージだ。だが、
誰が書いたのか。
この裏には、どんな陰謀があるのか。
非常線が張られた。
犯人探しには、秘密警察のベテラン中のベテラン、ノエが充てられた。
フランツは、相変わらず、何も知らなかった。
知らされなかった。
……。
*
それは、ほんの些細なきっかけだった。
ディートリヒシュタインが、スペルミスを指摘した。だが、フランツは、直そうとしなかった。
「フランツ君。私は君に、言いたいことがある」
教師は生徒に向き直った。
いつになく怒りを含んだ口調に、フランツはそわそわしてみえた。
「改まって、何でしょう、先生……」
「君のその態度だ!」
ディートリヒシュタインは叫んだ。
「もし君が、私のことを、君にとって恩恵をもたらす者として認めているのだったら、もう少し、別な態度で接して然るべきじゃないのかね? 11年もの間、私は、君の教育に携わってきた。その成果を、私は、そろそろ受け取ってもいいのではないか? 君の行い、言葉遣い、学問の成果、……。君にその気があるのだとしたら、私を喜ばせることは、たやすいはずだ」
突然始まった長広舌に、フランツは、明らかに怯んでいた。言葉もなく、突然、感情の堰を切らせた教師を見つめている。
「日常生活に於いても、君の言葉は、感傷的すぎる! もっとその場にふさわしい物言いをしたまえ。それに、努力をせずに、怠けてばかりだし……。学問に対して、そのように横柄な態度を取ることは、全く以って、恥ずべきことだ。そんなことでは、将来君に課せられる、高貴な義務に耐えうることはできないぞ。全く君は……、君はもう、15歳じゃないか!」
今更ながらに、ディートリヒシュタインは、愕然とした。
「もっと場にふさわしい言葉を選び給え。書き言葉もそうだ。私へくれる手紙なんて、噴飯ものだ。いつも、修正の跡だらけじゃないか。何度言っても直らない間違い、大げさな表現、常識を無視した体裁は、いっそ、受け容れがたい。君は、自分の
教師の怒りは、留まることを知らなかった。長年の間、溜め込んできた鬱憤を、ディートリヒシュタインは、一気にぶちまけた。
プリンスは、黙って聞いていた。
彼は、困り果てているようだった。
熱い頭のどこかで、ディートリヒシュタインは、自分の感情の爆発を恥じた。プリンスに対して申し訳ない気持ちさえ、湧いてくる。
……だが、このままでは困る。プリンスが、困るのだ。
……なぜならこの御方は、人の上に立つことになるからだ。いずれ、多くの民を治める、帝王となるのだから。
「先生。僕は、先生のことを、とても尊敬しています」
とうとう、プリンスが言った。
「僕はこれから、自分の崇高な義務を遂行していくことで、あなたへの服従と敬愛を証明します。言葉じゃなくて、行いで。真実と正義への愛と義務を固く守り、なすべきことを成し遂げることによって、あなたへの敬意は、そのまま、僕の美徳となるでしょう」
青い目が真剣味を帯びて輝き、白皙の頬が紅潮している。
美しいプリンスの真剣な言葉に、ディートリヒシュタインは、心を持っていかれそうになった。
「それが、センチメンタルだと言うんです。なんて大げさな表現なんだ!」
だが彼は、自分を抑え、苦言を呈し続けた。
「君は、知識の獲得でさえ、自分のやり方が最良だと考えている。それは、傲慢というものだ。このままいったら、君は、名誉と尊敬を勝ち取る代わりに、世界中の笑い者になってしまうぞ」
……世界中の。
そうだ。このプリンスは、オーストリア一国に留まるべき人材ではないのだ。
ディートリヒシュタインは、それを、知っていた。
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