奥様?
フランツは、あくびをした。
こっそり、オペラ劇場の端に掛けられた時計に目をやる。
隣のゾフィー大公妃は、楽しそうだった。
色物の演劇もいいが、たまには正統派のオペラも観たいというのは、ゾフィーの希望だった。
実際、彼女は楽しそうだった。舞台の歌声をじっと聞き入っている。時折、感に堪えないといった風に、隣に座っているフランツの膝を叩いた。
長い退屈なオペラが、やっと終わった。
二人も、一般客に混じって、馬車に向かう。フランツが腕を直角に曲げ、肘の下辺りに、ゾフィーが手を添えている。
時々、二人の正体を知る者が、ぎょっとしたように立ち止まった。
だが、彼らは、詮索するような野暮はしない。不躾にならぬように視線をそらし、そっと通り過ぎていく。
「少し踊りたいの」
フランツのエスコートで並んで歩きながら、ゾフィーが言った。
「体を動かしたいの」
「でも、今から踊りに行ったら、帰りは夜中になってしまう。またにしようよ」
「大丈夫よ。そんなに遅くならないわ。今日は、嫌なことがあったの。くさくさするわ。つきあってよ、フランツル」
ゾフィーが何に「くさくさ」しているか、フランツには、だいたい予想がついていた。
ハプスブルク家は、長男の即位が鉄則だ。だが、皇帝の長男、つまり、フランツの叔父、フェルディナンド大公は、「虚弱」だと言われている。恐らく、結婚も、子を残すことも難しいだろう。
従って、その弟のF・カール大公に注目が集まっている。
正しくは、彼の息子に。
それなのに、F・カールとゾフィー夫婦は、なかなか子どもに恵まれなかった。
また誰かに、赤ん坊の催促でもされたのだろう、と、フランツは思った。
この件に対して鷹揚なのは、皇帝だけだった。本来なら、ゾフィーの夫君、F・カール大公こそが、もっとどっしり構える必要があるのに。
わが叔父ながら、ゾフィーと並ぶと、F・カールは、役者が足りていないように、フランツにも感じられる。
「でも、叔父上が心配なさるでしょ? 愛する奥方が、こんなに遅くまで出歩いていては」
フランツは、F・カール大公の立場を慮った。
「あの人の話はしないで」
ぴしゃりとゾフィー大公妃が返す。
「あの人って、貴女の夫君じゃないか」
「今はあなたといるの、フランツル」
「誰といたって、夫は夫だと思うけど……」
「失礼、ライヒシュタット公でいらっしゃいますね」
呼びかけてきた貴公子があった。
フランツより、2つ3つ、年上だ。隣に、若い令嬢を連れている。
「僕は、モーリツ。モーリツ・エステルハージです」
「ああ……」
エステルハージ家は、オーストリア有数の貴族である。
しかし、その分家は多く、フランツには、把握しきれていなかった。
「……あっ!」
不意に、モーリツが連れていた令嬢が、短い声を挙げた。髪を高々と結い上げた、ひどく若い女の子だ。腰を締め上げたドレスが、体のラインを際立たせて見せている。
彼女は、驚愕の眼差しで、ゾフィーを見つめている。
憮然として、ゾフィーは視線をそらせた。
棒立ちのままの令嬢の腕を、モーリツが強めにつついた。はっと我に返った令嬢を指し示し、彼は言った。
「こちらの女性は……、まあ、いずれそのうち、ご紹介することがあるかもしれません。彼女の無礼をお許し下さい、マダム。素敵なオペラでしたね。お楽しみになりましたか?」
曖昧にゾフィーは頷いた。
モーリツが、にっこり笑った。
「では、僕たちは、ここで失礼致します」
だが彼は、動かなかった。立ち止まったまま、フランツの目を、しっかりと見据えた。
「一度、ライヒシュタット公に、ご挨拶を申し上げたくて。父に頼んでも、なかなか仲介の労を取ってくれないものですから。ご機嫌よう。……いずれまた、お会い出来る日を、楽しみにしています」
「なあに、あれ」
二人が立ち去ると、ゾフィーは言った。むっとしている。
「あの子のドレス、胸を強調しすぎだわ。唇と頬の色も不自然に赤いし。みっともないったら、ありゃしない」
「あれが、今年の流行らしいです」
ぼんやりと、フランツは答えた。確信はなかったが、令嬢たちは皆、同じようなドレスを着、化粧をしている。
彼は、モーリツ・エステルハージの言ったことが気になっていた。
彼と、もう少し、話をしてみたかった。
しかし、フランツは、同年齢の人間と同席したことが、殆どない。
あの、無礼で破廉恥な、秘密警察員以外は。
モーリツ・エステルハージの挨拶に、どう答えていいかわからなかった。気の利いた
「ゾフィー。今夜はもう、帰ろうよ」
「えっ! 踊りに行くって、言ったじゃない!」
「言ってないよ。早く帰らないと、僕、ディートリヒシュタイン先生に、叱られる」
「ディートリヒシュタイン先生? ですって?」
「夜歩きは、体に悪いって、先生、言うんだ」
「……」
「朝も、早く起きられなくなるし。皇帝との朝食に遅れるからダメだって、先生が」
「……まったく、あの先生は、あなたの奥様なのかしら」
ため息とともに、ゾフィーは言った。
「それも、とっても口うるさい……」
「奥様?」
立派な口ひげ、正しい姿勢、謹厳実直なディートリッヒシュタイン先生がドレスを着てシナを作っている姿を、フランツは思い浮かべた。
爆笑した。
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