内気なプリンス



 「アシュラ! 久しぶり」

「随分、会ってなかったわね」

「おお、アシュラじゃないか。元気だったか?」

「やだ、アシュラじゃない。私のこと、覚えてる?」


 たくさんの若者たちが取り囲まれた。

 シューベルティアーデが終わって、飲みに来た連中だ。


「久しぶり。元気だったよ。君のことを忘れたりなんかするもんか、コゼット。おいおい、マリユス。僕は彼女に色目を使ってなんかいないぜ……」


 一人ひとり答えながら、アシュラは奥に進んだ。

 二人分の飲み物を手に、席に戻ってくる。


「連れがいるのね。珍しい」

「誰? きゃっ、かわいい!」

「紹介して、ねえ、アシュラ!」


「この子は、フランソ……、」

まで言いかけた時、足をぎゅっと踏まれた。

「僕の名前はフランツです」

はっきりとした発音で、フランソワは言った。


「フランツ! シューベルトと同じじゃないか!」

男どもが、口々に言いはやす。

「いやあ、奇遇だねえ! フランツとは!」

「それを言うなら、この国の男の大半は、名前の端っこに、フランツ、ってくっつけてるぞ。そういえば、皇帝の名前も、フランツだ!」


アシュラの傍らで、フランツが身を固くするのがわかった。


「だから、その名は、滅多なことでは、劇の中では使えないのさ!」

誰かがだみ声で付け足し、みな、いっせいに笑いだした。

 邪悪で陰湿な登場人物に「フランツ」という名をつけたばかりに、削除を命じられたシラーの話だ。この国の検閲体制を皮肉っているのだ。



 「お前、僕に女の格好をさせた挙げ句、酔っ払いどもの、さらし者にするのか!」

 低い声でフランソワがアシュラに文句を言う。


 激しい拒絶にあって、ドレスは諦めざるをえなかった。だが、顔にベールを垂らし、金髪をなびかせたは、たいそう、かわいらしかった。内気そうに、うつむいている。アシュラは、を、前に抱きかかえるようにして、馬を進めた。城門を出る時、衛兵たちが、一斉に、口笛を吹いたものだ。

 アシュラは手を振って、それに応えた。

 ……。


 思わず、アシュラの口元が緩む。しかし、フランソワに悟らせるわけにはいかない。


「女の格好? 大げさな。絹のスカーフを顔に垂らしただけでしょ」

「女物のスカーフだった!」

「そりゃそうだ。メイドのですもん」

「そのメイドは、お前の何なんだ!」

「えと、友達? ……かな?」


 急に約束を反故にされ、メイドはむくれた。今夜、彼女が城を出る権利を、他の人に譲ってくれと頼んだら、引っかかれた。

 彼女は、真面目に規則を守るタイプではなかった。

 どうしてそんなに怒るのか、アシュラは、理解できない。


 フランソワが、怖い目で睨んでいる。

「いいか。宮廷のメイドには、絶対、手を出すなよ」

「大丈夫です。どうしてか、すぐにフられるから……」



 「何をごちゃごちゃ言ってるんだい?」

赤いハンカチーフを胸に挿した男が、声を駆けてきた。フランソワを見て、にっこり笑う。

「君、二次会から参加だね。音楽会にも来ればよかったのに。ここにシューベルトは、いないよ」


 シューベルトがいないのは、わかっていた。彼のたむろする酒場は、ここではない。だから、アシュラは、フランソワをここに連れてきたのだ。


 シューベルトは、フランソワの顔を知っている、彼が皇帝の孫だということも、知っている。もちろん、お忍びだと言えば、正体をばらすようなことは言わないだろう。しかし、もし万が一のことがあったら、アシュラだけでなく、シューベルト自身も責任を問われることになる。


 ……この上、シューベルトを、官警の目に止まるような場所に置きたくない。

 マイヤーホーファーの言っていたことは、そのまま、アシュラの気持ちでもあった。


 つい最近まで誘拐される危険の高かったライヒシュタット公の顔は、一般には、殆ど知らされていない。


 フランスでは、彼の絵が売れているという。だがそれらは、想像で補ったものだ。

 親馬鹿ナポレオンのおかげで、赤ん坊時代から幼少期の肖像画は、たくさんあった。また、ごく稀に、画家のアトリエから、下描きなどの肖像画が流出してしまうことがある。フランスで出回っているものは、それらを参考に、時間の流れを加味したものが、大半だった。

 だから、どれも、同じ顔をしている。


 本当のライヒシュタット公の顔、日々、大人になっていく彼の顔を知っている者は、殆ど、いない。


 幸い、ここにいる連中は、フランソワの正体に気がついていないようだった。



 「音楽会? 僕は、歌は苦手で……」

明らかに緊張した声で、フランソワが答えている。


 周りの連中は、笑いだした。

「大丈夫。君に歌わせたりしないから」

「聞いているだけでいいのよ。歌いたければ歌っていいけど」

「自由なんだよ、君は」


「自由……」

その言葉は、フランソワの胸に染みたようだった。


「そう。音楽の世界では、みな、自由だ」

「……」

フランソワは答えなかった。


 「やだ、それ、セルツァー水(炭酸水)じゃない!」

すぐそばにいた娘が、素っ頓狂な声をあげた。

「アシュラ、ひどいわ。自分はワインを飲んでるくせに」


「いや、僕は、これで……」

アシュラが何か言う前に、フランソワが答えた。セルツァー水の入ったグラスを死守している。


「あげる」

別の娘が言って、赤い液体の入ったグラスを差し出した。

「ありがとう」

困ったようにフランソワは礼を言った、押し付けられるようにして受け取り、鼻に近づける。

 匂いを嗅いでいる。


「大丈夫よ。まだ、口をつけてないから」

娘が笑った。


 フランソワは、思い定めたようだった。

 アシュラが止める暇もなく、ぐっと一息で、ワインを飲み干した。


「お、いいねえ」

男どもが騒ぎ出す。


 座が乱れ、あちこちで歓談が始まった。大声で話す声がして、嬌声がそれに交じる。

 フランソワは、じりじりと、酒場の隅の、目立たない席に移動していった。

 少し、酔ったようだ。赤い顔をしている。


 離れたところに座って、アシュラは、様子を見ていた。


 フランソワのそばには、レイナという女の子が陣取った。どうやらレイナは、フランソワを気に入ったようだ。なにやかやと、話しかけ、食べ物を取り分けたり、おしぼりを渡したりして、世話を焼いている。


 しかしフランソワは、一向に、彼女を相手にする気配がない。

 太ももの下に手を敷いて、肩をすぼめ、うつむいている。レイナが話しかけても、ろくに返事もしない。


 ワインは、2杯で飲むのを止めたようだ。差し出されたポテトにも、見向きもしない。


 時折、レイナの他にも、女の子たちが、ちょっかいを出しにくる。だが、彼は、知らんふりをし続けていた。つんと澄まし顔をして、よそを向き、彼女たちを寄せ付けようとしない。


 アシュラは、立ち上がった。

「ちょっとごめんよ」

レイナを押しのけ、フランソワの隣に座る。

「それじゃ、ダメでしょ」

フランソワの耳元で囁いた。


 女の子達は、不服そうな顔をして、別な相手を探しに行ってしまった。その彼女たちににっこりと微笑みかけ、アシュラは、ひらひらと手を振った。


「じゃ、どうしろって言うんだよ」

怒った声が、問い返してくる。


「もっと、彼女たちと仲良くなさい。そうすれば、自然と、男どももついてきます」

「やだよ。できるわけない」

「できます。だいじょうぶ。あなた、プリンスなんだから」



 シューベルティアーデの連中なら、気心も知れている。彼らと付き合ったからといって、そうそうひどい目に遭うとは思えない。


 フランソワには、同年代の人間が必要だと、アシュラは考えていた。

 あえて、友達、とは言わない。身分の差は大きい。

 しかし、同じ年頃の者と付き合えば、もう少し、時代のことがわかるのではないかと、アシュラは考えた。


 ……プリンスは無気力で困る。それに、あまり感情を表に出さない。勉学に対しても自分のやり方に固執し、傲慢である。

 これが、ディートリヒシュタイン伯爵から受けた概要説明ガイダンスだった。


 「無気力」「無感情」「傲慢」……。

 それは違うと、アシュラは思った。


 おめでたくもディートリヒシュタインは、自分たちが彼の身の回りを探っていることを、フランソワは気がついていないと信じていた。


 もしそうだとしたら、プリンスは、相当、ニブいのでは、と、アシュラは危惧していた。

 全人類の上に立つ魔王が、鈍いのでは、困る。


 だが実際は、随分早い時点で、フランソワは、監視はおろか、所持品を漁られていることまで把握していた。

 その結果、自分を隠さざるを得なくなったのだと、とアシュラは悟った。


 本心は決して表に出さず、表面だけで、人と付き合う。

 心の一番傷つきやすい部分を守るために。

 そんな風にして育ったのなら、どんなに息苦しいだろう。


 その上、フランソワの身の周りの人間関係……教師や従僕、軍人……は、年上の者ばかりだ。縦の関係しか築けない。年下の彼が、少しでも思い通りにしようと思ったら、自分のやり方に固執するしかないではないか。


 宮殿の外で、もし、同じ年代の者と知り合えば、横の関係が発展していくかもしれない。

 その先に何があるかは、今はまだ、考えなくても良い。


 アシュラは、フランソワに、もう少し楽に、呼吸をしてほしかった。



 だが、フランソワは、首を横に降った。

「僕には無理だ。知らない人とは、話せない。もう帰ろうよ、アシュラ」

「知らない人と話せないって、あなた、さんざん、知らない人をもてなして来たんでしょう?」


 叔父の結婚披露の宴の話は、アシュラも聞いていた。

 言葉のわからない人とさえ話したと、フランソワ自身、言っていたではないか。


「いやだ。話したくない」

フランソワは、胸を抑えている。顔が真っ赤だ。



 ……もしかしたら、この人は。

 ……すごく恥ずかしがり屋なのでは?

 今更ながらに、アシュラは悟った。

 ……少し、荒療治をする必要があるな。



 「おおい。パウラ!」

アシュラは、ボックス席に陣取っていたパウラを呼んだ。

 パウラが立ち上がった。アシュラを見て、手を降ってよこす。体のラインが過剰に出るドレスが、魅惑的にくねった。


「僕は、少し休みたいんだ。君の部屋に連れていってくれないか」

彼女が近くまで来ると、アシュラは言った。赤い唇で、パウラは、にっこりと笑った。

「いいわよ、アシュラ。うちに泊まっていくといいわ」


 「おい!」

プリンスが、小さく叫んだ。狼狽している。


 委細構わず、アシュラはパウラの腕を取った。

「じゃ、そういうわけですので、僕は、パウラの家に行きます」

「お前、何……、」

「あなたも、適当に相手を見繕うといいですよ。大丈夫。やり方は、女の子が教えてくれるから」

「そういう問題じゃ、」

「恥ずかしがることは、ないですよ。誰にだって、初めてはあるものです。僕の場合は、ゼフィーヌがとても優しくしてくれて……、」


「帰る」

すっくと、フランソワは立ち上がった。

「僕はもう、帰る」

言い捨てるようにして、酒場の外に出ていく。


「いいの? 彼、帰っちゃったわよ」

 後ろ姿を見送り、パウラが囁いた。ふっくらとした唇が、甘い蜂蜜を見つけたように、アシュラの口の端に近づいてくる。


 直前で止まった。つい、とアシュラを突き離す。


「あなたって、わりと最低ね」

「うん。よく言われる」

つい時間前にも、宮廷のメイドに言われたばかりだ。でもあれは、デートを直前で取りやめたからだ。

「今度は、なんで?」


パウラは深いため息をついた。

「そんなこともわからないなんて。ほんと、最低の男ね」

「だから、今後の為に教えておくれよ。なんで最低って言われちゃうのか」


「今後ですって?」

パウラは目を剥いた。

「ほんっと、わかってないのね! いいわ。教えてあげる。女の子の前で、他の女の話をするからよ! 初めての女ゼフイーヌの話なんか、聞きたくもないわ!」

「ああ、そうか」


 ……お前、最低だな。

 そういえば、フランソワにも言われた……。

 ……あれは、なんでだっけ?







 ホーフブルク宮殿の番兵は、走ってきた馬を止めた。がたいの大きな、駄馬である。

 乗り手のおかげで、ここまでのスピードが出せたのだと、番兵は思った。

「おい! ここから先は、立入禁止だ」


「入れてくれ。このすぐ上に、部屋がある」

「は? ここから先は、皇族方のご住居だ。何言ってんだ、お前」

「そこへ行くんだよ。いいから、通せ」

「怪しいな。顔を見せろ!」

「僕の顔がわからないのか!」


 松明の下に顔を突き出した。

 番兵は、驚愕した。


「でっ、殿下!」

「入るぞ。もう疲れた。ああそうだ。この馬は、僕の厩舎に入れておいてくれ。受け取りに来るやつが来ても、渡すんじゃないぞ」


 言い終わるが早いか、プリンスは馬を滑り降りた。

 あっという間に、宮殿へ続く階段を駆け上がっていった。







 「よく、僕の前に顔を出せたものだな」

 翌朝。

 ぎろりと、フランソワは、アシュラを睨んだ。


「殿下こそ、よくも僕の馬に乗っていってくれましたね。おかげで、ここまで歩いて来なくてはならなかった」

「ゆうべ、お前は……」

「ええ、パウラの家に泊めてもらいましたよ。暗い街中を、徒歩で歩きまわる趣味はありませんのでね」


「女性の家に泊まるなんて! お前、彼女と、ね、ね、ね、……」

悔しそうに唇を噛んだ。大きく息を吸い込む。一息に言い放った。

「彼女と寝たのか!?」

「ええ、もちろん」


 ささやかな嘘だった。ゼフィーヌの名前を出したことで、パウラは、機嫌を損ねてしまった。アシュラは、彼女のベッドに入ることを、許してもらえなかった。

 それは誰のせいかと、言いたい。誰を励まそうと、思い出したくもない自分の初体験の話を披露したのか。


 しかもその全てを無駄にして、フランソワは一人で、帰ってしまった。

 アシュラの馬に乗って。

 従って彼は、嘘を吐くことに、少しの罪悪感も感じなかった。



 フランソワが目を丸くした。

「お前! なんてふしだらな!」


「ふしだら? 僕は独身です。少しも、悪いことはしていません。あなたこそ、なんです! レイナは、あんなにあなたにご執心だったじゃないですか。それを、ツンケンして。あれが、男子のすることですか!」


「レイナ? ああ、あの、薄桃色のドレスの子か。あの子は、僕に、くっつきすぎた。吐く息が顔にかかって、不愉快だった」

「……」


 アシュラはため息をついた。

「殿下。貴方は、若い男の子なら、当然、興味を持つべき事柄に、全く、無関心なんですね……」


 より一層怖い目で、フランソワは、アシュラを睨んだ。

「何を言う! 僕は、正しく振る舞っただけだ! オーストリアのプリンスは、結婚するまで純潔を保たなくてはならないんだ! お祖父様が、そう、おっしゃった!」



 それは、事実だった。

 祖父の皇帝は、代々のハプスブルクの放蕩者の例を挙げて、孫に注意を促した。皇族としての資格を剥奪され、追放された放蕩者たちの哀れな末路を、詳しく物語ったのだ。



 「……女の子ですか」

ぼそりと、アシュラはつぶやいた。


「なんだって!?」

「純潔って、あなた、女の子ですか」


「お前、お前お前!」

フランソワは、激怒した。

「お前が、節操なしなだけだろ! その辺にいる女の子と、簡単に寝ちゃうなんて! この国は、偉大な女帝の統治で繁栄した国だぞ! 貞潔と純真こそが、宝なんだ!」


「は!」

アシュラは鼻で笑った。

「貞潔? 純真? なんですか、それは。それに、お言葉ですが、パウラは、『その辺にいる女の子』なんかじゃありませんよ。彼女あれはあれで、素晴らしい子です」


 ……ベッドには入れてくれなかったけど。

 ……でもまあ、とりあえず、部屋には泊めてくれた……。


 フランソワが、真剣な目をした。

「結婚するのか?」

「まさか」

「!」


息を呑み、次に、彼は再び、怒りを爆発させた。

「なんて不埒な……不貞で不純で……信じられない! そういうやつが、秘密警察官になるのか!」


「いや、これは、健康な一般男子の特性で、秘密警察は、関係ないと思います」

「そうだな。警察官として、お前は、無能だ。部屋を漁っているところを、対象ぼくに見つかるなんて」


 ふっと、アシュラは笑った。

 のではない。

 フランソワの帰ってくる時間を見計らって、わざと姿を見せたのだ。


「就任のご挨拶ですよ」

「不愉快だ! いいか。僕は、お前のその、にやけた顔が、大嫌いだ。スパイならスパイらしく、こっそりとやれ。もう二度と、僕の前に姿を現すな! いいな!」

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