多色刷りのリトグラフさえない
アシュラは、キャビネットに手をかけた。鍵のかかっていない引き出しは、何の苦もなく、すうーっと開く。
ハンカチやカフスなど、小さな物が、入っていた。シンプルで地味なものが多い。あまりたくさんは入っていないので、隙間だらけだ。
……怪しいものはない。
何かを隠した形跡もない。
次いで、机の引き出しを開けてみた。文字の書かれた紙が、何枚か。そのうちのひとつは、フランス語だった。迷わずそれを取り上げる。
……!
アシュラは目を瞠った。
「私はあなたにキスをする(embrasser)」
と書いてあったのだ。
……ついにあの王子にも、恋人ができたか。
それにしても、紙に飾り気がないのが気になった。厚い、ごわごわした紙だ。筆跡も乱暴で、文面全体が、ひどい右肩上がりになっている。
……こんなの渡したら、ふられるのでは?
しかも、キスをすると言った直後に、
「ごめんなさい(Pardonne-moi!)」
などと謝っている。
アシュラは首を振った。紙を元に戻そうとした時……。
「お前は誰だ! ここで、何をしている!」
きつい声が飛んできた。
はっとアシュラは顔を上げた。
金色の髪の青年が、燃えるような青い目でこちらを睨んでいる。
「アシュラ・シャイト!」
青年は、驚いたように叫んだ。
「まさか、また会えるとは。本当にお前なんだな、アシュラ?」
「ええ、私です」
アシュラは、一歩下がり、値踏みするように相手の姿を眺めた。
最後に会った時に比べ、背丈がぐっと伸びている。子どもっぽい丸みがなくなり、すらっとした体つきに変わっている。
「貴方は、随分変わりましたね、ライヒシュタット公」
「ライヒシュタットって、ちゃんと言えるようになったじゃないか。でも、言ったろ? フランソワでいい」
「……では、フランソワ」
「お前、随分仰々しい喋り方をするようになったな。それになんだか、老けた気がする」
不満げにフランソワは言った。アシュラは肩を竦めた。
「老けた? 大人になったと言って下さい。分別がついたんですよ。なにしろあなたは、皇族ですから」
「ふん」
手に持っていた手袋を、フランソワは、ぽん、とベッドの上に放り出した。
「お前、つまらない人間になったな」
「そりゃどうも。ところで、殿下。もうひとつの質問に、お答えしましょう」
わざとしゃちこばって、アシュラは言った。
「もうひとつの質問?」
「あなた、聞いたでしょ? ここで何をしているって」
「ああ……」
もうわかっている、という顔を、フランソワはしていた。
それでも、アシュラは言った。
「あなたを、スパイしていました」
「お前、秘密警察官だもんな。でもそれは、ディートリヒシュタイン先生の仕事だろ? 僕の身の回りを探るのは」
「あなたが大きくなられたので、伯爵は、その仕事がいやになられたそうです。あなたを、一人前のおとなとして扱うために、他の人間が必要となりました」
そこへ、ベートーヴェンが付け込み、シューベルトが口を添えた。身柄については、秘密警察官のノエが、太鼓判を押した。
フランソワは首を傾げた。
「それが、お前というわけか」
「そうです」
「じゃ、お前は、メッテルニヒの犬じゃないんだな?」
「宰相の犬? さあ、どうでしょう」
「とぼけるな。秘密警察の長官は、
「それは、そうですけど……」
「子どもの頃から、僕の身の回りは、常に、監視されていた」
ベッドにどさりと腰を落とし、フランソワは言った。
「変なものを持っていないか。不審な手紙を受け取っていないか。部屋に帰って来ると、キャビネットには開けた形跡があり、机の上の物の配置が、微妙に変わっているんだ」
……気がついていたのか。全くのニブチンというわけではないのだな。
ディートリヒシュタインは、プリンスは全く気がついていない、と太鼓判を押していた。
……私がうまくやってきたから、君の仕事はやりやすいはずだ。
「どこが!」
思わずアシュラは毒づいた。
「何か言ったか?」
「……いえ、何も」
「はっ!」
自嘲的に、フランソワは笑った。
「いったいどうやって、外部と接触するというんだ! こんなにがんじがらめに閉じ込められていて!」
「そのわりに、尾行を巻いていましたね……」
「気晴らしだよ。でも、芝居や音楽会には、いつだって、最後まで、いられたためしがなかった。終演前に、外に出なくちゃならない。尾行をまくためにね!」
「そういうことだったんですか……」
アシュラはため息をついた。
「あなた、芝居の業行主の評判が悪いですよ?
「仕方ないだろ。尾行してきたやつらを、出し抜かなくちゃならないんだから」
「ですが、」
漫然と、アシュラは部屋の中に目を泳がせた。
「せっかく自由に歩いても、得るものはなかったようですね」
「いやみか?」
「いやみなんか、言うもんですか! いいですか。あなたの本棚には、隠し棚がない。ベッドの下にも、何も置かれていない。多色刷りの
「リトグラフだって?」
「卑猥なやつです」
ずばり、アシュラは言った。
フランソワは、みるみるうちに、顔を赤らめた。かわいそうなくらいうろたえ、彼は叫んだ。
「そっ、そんなもの、僕が買うわけないだろ!」
「なぜ? 健康な若い男子として、当たり前の買い物でしょ?」
「当たり前なんかじゃない!」
フランソワは、どん、と足を踏み鳴らした。
「そんな、穢らわしい……」
「はいはい。いいんですよ、照れなくて。ちゃんと獲物は、釣り上げたみたいですね」
「獲物? 釣り上げた?」
「とぼけなくてもいいです。でも、これ、この手紙ね。そのまま出したら、いけません」
アシュラは、手にした紙を、ひらひらと振った。
「フランス語で書いたまでは、上出来です。愛を語る語彙に関して、かの言語は、とても豊富ですから。でも、もっときれいな紙に書き直さないと。できたら、透かしかなんか入ったやつがいい。香水で香りをつけるのも好感度アップです。それから、この右肩上がりの癖、直したほうがいいですよ……」
「お前、何言ってるんだ?」
「あと、キスを送った後に、ごめんなさいはないでしょう」
「?」
フランソワは、怪訝そうな顔をした。
「それ、フォレスチ先生に宛てた
「はあ!? フォレスチ先生って、男でしょ!」
「そうだよ。先生から借りた本に、僕が、染みをつけちゃったんだ。それを、謝ろうと思って」
「謝るのに、いちいちキスをするんですか、あなたは!」
「キス?」
まるで心当たりがないという風に、フランソワは、アシュラの手から、手紙を受け取った。
「キスなんて、どこにも書いてないじゃないか。僕は、先生に、困らせちゃってごめんなさいって書いたんだ。フランス語で書いたのは、僕がいつまで経ってもフランス語をマスターできないから、しばらくフランス語で文章を書いて練習しろと言われたからで、」
「ちょっとそれ、貸して!」
アシュラは、手紙をひったくった。
眉間に皺を寄せる。
「……殿下。綴り、間違ってます」
「えっ! また?」
「また? まあ、いい。殿下、あのね。『困らせる(embarrasser)』って言葉、『b』の後に、『ar』が抜けてます。『キスをする(embrasser)』になってますよ!」
「!」
再びアシュラから手紙を奪い返し、フランソワは、しげしげとそれを眺めた。
「あ、本当だ。フランス語って、難しいな……」
「あなたの母語でしょうが」
「僕は、しゃべるのは得意なんだ。でも、文法とか、書くのは苦手だ」
聞こえよがしに、アシュラは、ため息をついてみせた。
「なあ。これも、メッテルニヒに報告するの?」
「何ですって?」
「スペルミスだよ。メッテルニヒに報告するのか?」
「……してほしいんですか?」
「いや。でも、それが、お前の仕事なんだろ?」
「
「そんなの、できるわけがない」
にわかに、プリンスはうつむいた。
「僕にそんなことが、できるわけ、ないじゃないか……」
「ディートリヒシュタイン伯爵の言っていたことは、本当ですね」
ため息に混ぜた声で、アシュラは言った。
「先生は、あなたが無気力で、感情表現に乏しいと、憂えていらっしゃいました」
「だから、どうしろと? こんなふうに、檻に閉じ込められていて、僕に何ができると言うんだ」
「グレてみましょうか」
「は?」
「私と一緒に、悪いことをしに行きましょう」
「え? お前、何言って、」
「出かけますよ。さあ!」
フランソワの腕を、アシュラは掴んだ。力任せにぐいぐいひっぱる。
「さあ、って、おい、……おい! アシュラ! どこに連れていくんだ!」
「あなたの馬は使えません。すぐにバレてしまいますからね。私ので行きましょう。馬力のあるやつですから、二人ぐらい乗せられます。ただ……」
立ち止まり、じっとフランソワの顔を見た。
「私は今日、メイドを連れ出す約束をしていました。彼女の名前で、城を出る許可を取っています。だからあなたは、フリルのついた服を着て、顔に、絹のベールをつけなくてはなりません……」
※ライヒシュタット公はスペルミスが多いと、ディートリヒシュタイン先生があちこちで書き散らしておられます。しかし、ここに書いたのは私の創作で、実話ではありません。
公の名誉の為に、特に、書き添えておきます。
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