宮廷の残飯と、アシュラの帽子



 「いい仕事が来て、良かったな、アシュラ」


 秘密警察のノエ捜査官が言った。

 軽い口調とは裏腹に、気遣わしそうな目で、部下を見る。


「ライヒシュタット公の身辺を警戒し、不審な人物との接触がないか、見張る。さらに、公ご自身が、剣呑な思想に染まることがないよう、監視の目を光らせる。きれいで、楽な仕事じゃないか」


 ため息をつき、アシュラはうつむいた。上司の言葉は、耳を素通りしている。

 なお一層脳天気に、ノエは付け加えた。


「君が、羨ましいよ。やりがいがあるし、高貴な人と知り合いになるチャンスだ。こんないい仕事が転がり込んでくるなんて、全く、なんて僥倖だろうね!」



 どういう経緯でこの仕事が転がり込んだのか、アシュラも、詳しいことは知らない。

 だが、ベートーヴェンとシューベルト、音楽家二人が、何らかのコネを使ったのは間違いない。


 ベートーヴェンは、ライヒシュタット公の家庭教師と親交がある。同じ家庭教師に、かつて、シューベルトも、「魔王」を捧げている。

 また、ふたりとも、貴族に知り合いがいた。ベートーヴェンには、皇帝の弟、ルドルフ大公を始め、貴族のパトロンが多い。シューベルトは、オーストリアの2大貴族のひとつ、エステルハージ家の娘たちの、音楽講師を勤めている。



 嬉々として、ノエが言い募る。

 「皇室に行けば、ご馳走を食べることだってできるぜ? ことによると、余禄として、余り物を分けてもらえるかもしれない」



 皇族たちの残した料理は、廷臣のテーブルに回される。また、宮廷職員に「給与」として与えられることもあった。

 中にはそれを、市内のレストランに売り払って、一儲けする輩もいた。宮廷料理として客に供し、一躍、人気店となったレストランもある。

 宮廷の残飯は、立派な商売になるのだ。



 ことさら羨ましそうに、ノエはねだった。

 「金持ちになったら、今度は私にご馳走してくれ」

 アシュラは返事をしない。無表情になって、うつむいている。


 ノエは、ため息をついた。今までの軽薄さが嘘のような口調で諭した。

「君のお父上が亡くなられたことは、気の毒だった。だが、そんな風に落ち込んでばかりいてはいけない」


 ドミニクがアシュラの本当に父親ではないことは、ノエも知っていた。以前、アシュラ自身が、話してくれたのだ。

 あっけらかんと。むしろ、楽しげに。

 今のアシュラは、だが、別人のようだった。


「ずっと、父は、死ぬことばかりを考えていたそうです。村の神父が、教えてくれました。体が弱り、一人で生きていくのが難しいから、と。僕の前では、いつも明るく陽気に振る舞っていたのに。僕は……僕は、いつまでも、父を支えていくつもりだったのに!」

 ……たとえそれが、罪悪感に端を発した決意でも。


君に、迷惑をかけたくなかったんだろう。親なら、当然の気持ちだ」

 あえて、息子の、と、ノエは言った。


 アシュラは、激しく首を横に振った。

「本当の息子なら、違っていたかも知れない。僕が、ニセの息子だから。だから、頼りたくなかった。弱みを見せたくなかった。僕が……僕が、フランス兵の子どもだから!」


「馬鹿を言うな。普通に考えてみろ。子どもに弱みを見せたい親が、どこにいる」

「だって、しようがないじゃないですか。弱ってしまったのなら。それを助け、補うのが、子どもの務めでしょう!?」

「違うよ、アシュラ。親を置いて、先へ歩いていくのが、子の務めだ」


「……」

アシュラは唇を噛み締めた。

「ノエ警察官。なぜ、父は、僕が帰ってくる日、帰ってくる時間を見計らって、首を吊ったと思いますか?」



 その日、帰省することは、予め、知らせてあった。そう遠い距離ではない。時間もだいたい、予想がついたはずだ。

 あの日あの時でなければ、通いの家政婦か医者か、或るいは神父が、第一発見者となったはずだ。

 のアシュラではなく。



 ノエはためらった。

「それは、あれだ。お父さんは、君に見つけてもらいたかったんだよ。息子の君に、最初に、発見してもらいたかったんだ」


「あの醜い姿を? 恐ろしい、悪鬼のように変わり果てた姿をですか!」

アシュラは叫んだ。

「もし、愛しているのなら! もし少しでも、僕のことを実の子どものように愛おしんでくれていたのなら!」

急に声が、小さく弱くなった。

「変わり果てた自分の姿を、見せつけたくはなかったはずだ」



 窓から吹き込む風。

 めくれ上がるカーテン。

 ベッドの上に、奇跡のように、父は浮き上がっていた。どす黒い顔に、舌を長く突き出し、転げ落ちそうな目玉で、アシュラをぎょろりと睨んだ……。


 父の死体は、それまでアシュラが彼に対して抱いていた温かい感情を、優しい思い出を、全て押し流し、塗りつぶしてしまった。

 どす黒い、死の色に。


 ……おかわいそうに、旦那様。

 家政婦の老女の言葉が蘇る。

 ……奥様に、どんなに帰ってきて欲しかったことでしょう。奥様のベッドの上でお亡くなりになるなんて!


 『お前は、父から母を奪った男の子どもなのだ!』

 そう、糾弾されているような気がしてならない。

 父を捨てた女の産んだ子。父から母を奪った男の、子。



 アシュラは叫んだ。

「僕は、愛されてなんかいなかったんだ。僕は、親……と慕っていた人……からさえ、愛されることがなかった」


「何を言う。そんなことを言ったら、お父さんがかわいそうじゃないか」

叱りつけるようにノエは言った。

「死ぬほどのことなんだ。他は何も考えられなくなってても、ちっとも不思議じゃない。お父さんは、君の到着のことなど、すっかり忘れてしまったんだよ。死んじまったら、それまでだからね。死んだ後のことまで、考えたりするものか。少なくとも、俺はそうだね」


 上司は矛盾していると、アシュラは思った。

 さっき、父は、息子アシュラに、一番に死体を発見してもらいたかったのだと言ったばかりだ。その舌の根も乾かないうちに、息子の到着のことなど忘れていたのだろう、なんて。


 慰めようとして口にされた言葉は、かえってアシュラに、不信感を抱かせただけだった。


 黙り込んでしまったアシュラに、ノエは柔らかく話し続けた。

「君は、疲れているんだ。少し、冷静になるといい。新しい任務は、急ぐものでもなかろう。就任を遅らせるように、人事方に掛け合ってやる。だから君は、心を落ち着けて、」


「……断ろうと思っていました」

「そんなこったろうと思った。駄目だよ、アシュラ。こういう時ほど、仕事、なんだ」


 蒼白な顔を、アシュラは上げた。

「知ってますか、ノエ警察官。誰からも愛されることがなかった者は、人の輪を負われるんです。人でなくなるんだ」


「何を言い出すんだ。君、大丈夫か?」

「どんなことがあっても、誰に嫌われても、父は、父だけは、僕の味方だと思っていた。だって、彼は、僕を愛してくれているから。……そんなふうに、無条件で信じていたなんて、僕は……僕は、なんておめでたい人間だったんだろう!」


「だからそれはちが、」

「僕は、人から、愛されない。それは絶対だ。だって、この人だけは自分を愛してくれる……何があっても。そう信じて疑わなかった人からさえ、疎まれていた……。その僕を、これから先、誰が愛してくれるというのだろう」


「アシュラ、いいか、よく聞……、」

「僕にはもう、この道しかないのかもしれない」


 ……魔王。

 ……魔王に救って欲しい。


 唇を噛み締め、ぎゅっと、両手を握りしめる。

「ライヒシュタット公監視の任務、お引き受けします。明日からでも、仕事に入ります」







 「殿下。そのお帽子は……」

馬車のドアを開けた新しい家庭教師、オベナウスが見咎めた。


 オベナウスは40代、亡くなったマテウス・フォン・コリンの後任だった。

 優しかったコリン先生とは違い、極めて官僚的で、万事に細かった。


 フランツは、新しい家庭教師が嫌いだった。政府からのスパイに違いないと確信していた。

 政府……宰相、メッテルニヒからの。


 オベナウスは、じっと、フランツの帽子を見つめている。非難の眼差しも気にもせず、フランツは、馬車に乗り込もうとした。


 オベナウスが立ち塞がった。

「そんなに汚い帽子では、だめです。先日、新調したばかりのやつがあるでしょう。あれになさい」

なおもしつこく、指図してきた。


「これでいい。これがいいんだ」

 家庭教師を押しのけ、フランツは言った。

 馬車に乗り込み、座席に腰を下ろす。

「さ、でかけよう」


「しかし、皇帝が、なんとおっしゃるか……」

「お祖父様なら、何にも言わないよ。むしろ、質素であることを、褒めて下さるはずだ」

「質素というより、みすぼらしく見えます。虫でも湧いていそうだ。新しい帽子になさい」


「僕はこれが気に入ってる。悪く言うことは許さない」

 ぴしりとフランツは言った。一瞬、オベナウスがひるんだのがわかった。


 少し、語調を緩めて付け加えた。

「新しい帽子は、丈が高いから、馬車の中で、天井に支えて、壊れてしまう。でも、皇妃様と約束したから、脱ぐことはできない」

「しかし、」

「これがいいんですよ、オベナウス先生」


「……」

教師はため息をついた。


「それにしても、いったい、どこで調達してきたのか……。でもまあ、風邪を引かれても困る。ボロでも、ないよりましでしょう」

生徒に続き、オベナウスも馬車に乗り込んだ。


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