ゾフィーと呼んで
*
オーストリア皇帝は、パルマへ行った娘が残していった孫を、とてもかわいがっていた。
怠け者、とか、頑固、とか、家庭教師はいろいろ苦言を呈してくる。だが、フランツのような子は、皇帝の子ども達の中には、いなかった。
一緒にいると、とにかく、安らぐのだ。
フランツは、あの
それは、フランツ自身のなせる業ではないかと、皇帝は、思うのだ。彼自身の、素直で優しい性格が、一緒にいる者の、昂ぶった精神を鎮めさせ、ささくれた心を修復してくれる。
フランツは、決して、陰気な子ではない。本来は、活発で、陽気な性質のようだ。ならず者の中でこそ、その本領を発揮できる、無頼な本性を隠し持っている。
それは、生真面目な者の多いハプスブルク家の人間には、理解できないことだった。フランツの明るさや機知、ウィットに富んだ精神は、ウィーン宮廷のくすんだ壁の中では、非難されるべき筋合いのものだ。
だから、少年は、とてもよく躾けられていた。野生は抑制され、貴公子としての教養と、優美さに置き替えられてきた。
皇帝は、教育の成果に、満足していた。
孫が幼い頃は、皇帝は、彼をよく、執務室に入れて、遊ばせた。積み木や兵隊の玩具で、彼はおとなしく遊んでいた。少し大きくなると、しばしば、乗馬や狩りに連れ出した。これは、皇帝自身の楽しみにもなった。
朝食は、孫と一緒に摂る。政務に忙しい皇帝でも、朝一番の食事なら、プライベートを優先させることができるからだ。
「フランツ。残すのか?」
珍しく夕食を一緒に摂ったある晩。孫の皿を見て、皇帝は声をかけた。
フランツは、りんごのコンポートに、手を伸ばそうとしていた。メインディッシュの仔牛のソテーには、手をつけていない。
「はい、お祖父様」
いたずらを見咎められたかのように、彼は、顔を赤くした。
背は伸び、顔つきも精悍になったが、こんなところは、子どもの頃のままだ。
「だめよ、フランツェン。成長期の若い子が、肉を食べないなんて」
皇妃のカロリーネ・アウグステが、ナプキンで口を抑えながら、口を出す。
「なんだか、お腹がいっぱいで」
「まあ、困ったわね。あなたは今、体をつくる、大切な時期なのよ。それなのに食べないのは、よくないわ。無理をしてでも、お食べなさい」
「はい、お祖母様」
お祖母様というには若すぎる年齢だ。だが、素直に返されて、皇妃カロリーネは、にっこりと笑った。
皇帝の4番目の妻は、孫の母より1歳、若かった。子どものいない彼女は、「フランツェン」を、自分の子どものように、かわいがっている。
……と、彼女自身、そういうふうに、思っていた。
のろのろと、フランツは、フォークに手を伸ばした。
少し、顔色が悪い。
「無理をせずともよい」
皇帝は言った。
「昨夜、夜会に出かけて、風邪でも引いたのだろう。肉は、消化に悪い。スープは、全部飲んだのだな?」
「はい」
その日のスープは、何種類もの肉や魚、各種野菜と豆を、長時間煮込んで、裏ごししたものだった。
オレオ・スープと呼ばれるこのスープは、女帝マリア・テレジアが好んだものだ。精力的に活躍した女帝の好物だけあって、大変滋養がある。
「あれを飲んだのなら、今日は、肉はもうよいだろう。デザートが終わったら、早めにベッドに入って休むが良い」
「お肉を残してしまって、ごめんなさい」
「よいよい。儂が食べよう」
皇帝と皇妃の肉には、グレイヴィーソース(バター、小麦粉、牛乳のソース)がかけられていた。
孫の肉には、甘ずっぱい、すぐりのソースがかかっている。
肉の好きな皇帝は、すでに自分の分を食べ終えていた。給仕がすかさず、空になった皿を下げた。そして、フランツの前から、すぐりのソースのかかった仔牛を運んでくる。
「リヒテンシュタイン家の舞踏会には行けそうか?」
肉を切り分けながら、皇帝は尋ねた。リヒテンシュタイン家の舞踏会は、2週間後に予定されている。
「はい、大丈夫です」
「また、夜会だからな。3月に入ったというのに、寒い日が続く。暖かくして出かけるんだぞ」
孫の頬に、再び赤みが差した。
「はい。ありがとうございます、お祖父様。心配して下さって」
「そうよ、フランツェン。お帽子もちゃんと被って行くのですよ。馬車の中にいても、冷えますからね」
皇妃も口を添えた。
「わかりました、お祖母様」
「約束ですよ?」
「約束します」
きれいな瞳を若い祖母に向け、彼は答えた。
「あのな、フランツェン」
食事が済み、席を立とうとする孫を、皇帝は呼び止めた。
孫は、祖父の言葉をおとなしく待っている。
「あのな……」
皇帝は言いよどんだ。ためらい、続けた。
「……Mの家の舞踏会には行ってはいけないよ。わかったね、フランツ」
「はい、お祖父様」
青い目をわずかに
*
「あら、フランツル。お食事は済んだの?」
食堂から出てきた甥に、ゾフィーは声をかけた。
ゾフィー大公妃。皇帝の次男、F・カール大公の妻である。
彼女は、フランツのことを、「フランツル」と呼ぶ。
皇帝も「フランツ」、彼女の夫も「フランツ・カール」。「フランツ」ばかりで紛らわしいので、甥のことは、愛称で呼ぶことが多い。
最初は、皇妃……彼女の異母姉でもある……と同じように、ゾフィーも、「フランツェン」と呼んでいた。だが、そう呼ばれるたびに、フランツが微妙に顔を曇らせるのに気がついた。
「フランツェンと呼ばれるのは、おいや?」
ある日、思い切って、そう尋ねてみた。
フランツは、顔を赤らめた。
……本当にこの子は、すぐ、顔を赤くする。
かわいい、と、ゾフィーは思った。
「なんだか子どもっぽいから」
フランツは答えた。
ゾフィーは笑いだした。
「皇妃様は、フランツェンと呼ぶわ」
「
「ちょっと。叔母上は、やめてよ」
「え?」
「名前で呼んで頂戴」
きめつけるように、ゾフィーは言った。
「あなたと私は、たった6つしか違わないのよ」
「でも……」
フランツは、ためらっているようだった。
「私を『ゾフィー』と呼んでくれたら、あなたのことも、『フランツェン』とは呼ばないわ。別の名前で呼んで、ちゃんとおとな扱いしてあげる」
14歳の春に、フランツは、声変わりをした。声質そのものは低くなったが、よりソフトで甘い話し方をするようになった。
なんだか急におとなっぽくなったようで、話しかけられると、どきどきする。
そんなフランツを、幼児の頃と同じ呼び方をするのはおかしいと、ゾフィーも思った。
「わかった」
フランツは言った。
「わかったよ。ゾフィー」
ゾフィーが、皇帝の次男、F・カール大公と結婚して、すでに2年が経っていた。
妊娠の気配はない。
まだ若いのだから焦ることはないと思っていたし、皇帝もそう言って下さる。だが、周囲の目は、厳しくなる一方だった。
特に、皇妃……ゾフィーの異母姉……カロリーヌが、露骨だった。
「牛乳や卵をたくさん食べたらいいんじゃないかしら。あまり早起きしないで、体をゆっくり休めて。そうだ! 最近妊娠された方の、体験談を聞くといいわ。私が探してきて、紹介してあげる」
などと、とんでもないことまで言い出す。
皇帝の年齢を考えれば、カロリーヌが妊娠することは、もう、ないだろう。だからこそのおせっかいだということはわかっていた、
それでも、うっとおしかった。
脅迫めいた嫉妬さえ感じる。妊娠できる体で妊娠しないのは、怠慢であると糾弾されているような気が、ゾフィーはするのだ。
実の姉という遠慮のなさが、より一層、逃げ場がなかった。
妊娠しないのは、決して、ゾフィーの怠慢のせいではない。怠慢ということなら、彼女の夫、F・カールの責任の方が、よっぽど大きい。
F・カールは、なにかにつけ、欲の薄い男だった。
……この国の跡継ぎのことなら、心配ないさ。
などと言い出して、ゾフィーを憤慨させる始末だった。
……それじゃ、私がバイエルンから嫁いできた意味がないじゃないの!
ゾフィーに泣かれ、夫は慌てた。平身低頭、謝り続けた。以来、彼女に対して頭が上がらない。
フランツとゾフィーは、ホーフブルク宮殿の長い廊下を、並んで歩いた。
「ねえ、フランツ。マリネリの劇場に連れて行ってくれない?」
ゾフィーには、息抜きが必要だった。
ウィーンの宮廷は、窮屈すぎた。静かに規則正しく時は流れていく。それと知らずに、暗黙のしきたりを破ってしまうと、白い目で見られた。貴族も従者も、堅苦しい人が多かった。滅多に笑わず、冗談の通じない人たちに、彼女は、打ち解けることができない。
実家のバイエルンでは、もっとずっと自由だった。
驚いたことに、ウィーン宮廷で、彼女の他に、息苦しさを感じている人は、いないようだった。
たった一人、甥のフランツルを除いて。
宮廷には、未だに、ナポレオンの息子をよく思っていない輩がいる。そういう連中は、露骨に、彼を疎外し、悪口を言う。それなのに、彼には、盾となってくれる人がいなかった。
異邦人なのは、ゾフィーだけではなかった。
「マリネリの劇場!」
フランツの瞳が輝いた。
「今、あそこで、おもしろい劇をやってるんだよね! 犬が主役で、他にも、主な役はほとんど犬だという……。僕も観たいと思っていたんだ!」
「そう」
ゾフィーは、にんまりと笑った。
「とってもおもしろいって評判よ。それなのに、ワイマールでは、ゲーテがこの劇の上演を拒否したんですって。だから
「ウィーンでは、そんなことはないよね!」
誇らしげにフランツは答えた。
「ウィーンでは、おもしろければ、ちゃんと上演される。そして、きちんと評価され、人気になるんだ」
堅苦しい宮廷とは真逆の文化が、ウィーンの街中では、花開いていた。音楽会。芝居。見せ物や動物園も、人気があった。
ここぞとばかり、ゾフィーは頷いてみせた。
「ねね、行きましょうよ。犬の劇、一緒に観に行きましょう」
「でも、ディートリヒシュタイン先生が何て言うかなあ……」
宮廷劇場の支配人を兼務するディートリヒシュタイン伯爵は、音楽を愛し、芸術を好んでいる。一方、マリネリの劇場は、悲劇やオペラに飽きた客を惹きつけることで、台頭してきた。
こうした庶民向けの劇場は、たくさんある。中でもマリネリの劇場とテアター・アン・デア・ウィーン劇場の評判が高く、大衆だけではなく、貴族も訪れていた。
フランツは首を傾げた。
「犬の劇なんて、ディートリヒシュタイン先生は、いやがるんじゃないかなあ」
「ディートリヒシュタイン先生?」
ゾフィーは眉をつり上げた。
「いやだ、フランツ。何を言ってんの。二人で行くのよ。二人だけで!」
「二人だけで!?」
驚いたように、フランツは息を呑んだ。
「そうよ。あなた、もう、おとなでしょ? いつまでも家庭教師の付き添いがあったら、おかしいでしょ」
再び、フランツの頬に朱が散った。
「そっ、そうだよね……」
「約束よ!」
ゾフィーは強引にフランツの手を取り、小指を絡めた。
「二人で劇場に行くの。ね。フランツ!」
フランツは、途方に暮れたように、ゾフィーの小指と絡んだ自分の指を見ている。絡まりあった小指を、ゾフィーは、軽く振ってみせた。
「……わかった」
とうとう彼は言った。
「わっ! 嬉しい!」
ゾフィーは躍り上がって喜んだ。
「約束よ、フランツル。二人で行きましょ。二人だけで馬車に乗って、出かけましょうよ」
「うん」
「楽しみだわ。早速、御者に言わなくちゃ」
「僕も楽しみだよ」
フランツも、嬉しそうだった。
少し風邪気味だと、彼は言った。身を屈め、ゾフィーの手に、儀礼的なキスをした。
微笑んで、ゾフィーは、それを許した。
おやすみの言葉を残し、彼は、自分の部屋へと去っていった。
*
その夜、皇帝は、不快を覚えた。
容態は次第に重くなり、翌13日から14日の夜にかけて、重篤になった。
最悪の事態を予感し、民衆は、宮殿の周りに集まった。一言も言葉も発せず、頭を垂れ、静かに皇帝の回復を祈った。
幸いなことに、それからすぐに、皇帝は保ち直した。半月後の4月6日には、すっかり回復し、外に出ることができた。
人々は喜び、皇帝の馬車を取り囲んだ。散策に出かける馬車の後について、一緒に走った。
多くの民衆が、続々と集まってきた。通りは人で満ち溢れ、その歓声が、遠くまでこだました。
皇妃と一緒の馬車に乗っていたライヒシュタット公フランツも、民と共にあった。「我らの佳き皇帝」への、人々の温かい歓呼の声は、彼に、深い感銘を与えた。
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