麗しの女優
「プリンス、」
フランソワの遊び仲間、グスタフ・ナイペルクが訪れた。
フランソワは、本を読んでいた。
「今夜、女優のテレサ・ペシェの所に行きましょう。終演後に、楽屋で、プリンスのお越しを待っているそうです」
グスタフが言い終わらないうちに、彼の背後で、咳払いが聞こえた。
新しくプリンスの付き人になった、ハルトマン将軍だ。
「行けるわけないだろ」
本から目も上げず、フランソワは言った。
「なぜ?」
負けずに、グスタフも問い返す。
「彼女は大変な人気女優だから、約束を取り付けるのに、大変だったんですよ? 前回、楽屋を尋ねてから、もう、ずいぶん経っています。贔屓の女優なら、もっとしばしば訪れなくては」
「あー、お出かけですかな?」
ハルトマンが近づいてくる。
「お供仕りますぞ」
「いや、いいです。僕がご一緒しますから」
即座にグスタフが断った。
「いやいやいや。その、ぺしぇ? とやらのところに、私もぜひ、ご一緒します」
ウィーンの有名な女優の名も知らないのかと、グスタフは呆れた。
こんな無骨な軍人を連れて行ったら、人気女優は、きっと、気を悪くするに違いない。
「プリンスの為にも、あなたは、来ないほうがいいと思いますよ」
「そういうわけにはいかんのです」
皇帝からハルトマンに渡された指令には、続きがあった。
プリンスの女性関係についての、司令である。
「
異性との接触は、彼にとって有益であると考える。しかし、そうした接触は、より厳しく監督されねばならない。
」
正直、ハルトマンには、意味がわからなかった。
女性との付き合いが、プリンスにとって有益なら、それを禁じることはできない。
厳しく監督?
女性との交際を?
そんなことができるのか。
こんなにおとなしそうで、優美なプリンスではあるが、彼は、ナポレオンの息子である。
ナポレオンといったら、名うての漁色家。その血がプリンスにも流れているとしたら……。
それに、彼の母親は、ナポレオンが死ぬ前から、他の男と関係を持ち、その子どもを二人も生んでいる。
その男の、前の結婚でできた息子の一人が、この、グスタフであるわけだが……。
父親、母親、どっちに似ても、プリンスは、淫蕩な血を受け継いでいるのだ。
……危ない、危ない。
ハルトマンは思った。
社交界デビューをしたばかりのプリンスには、世界が注目しているといっても、過言ではない。
皇帝の孫に、悪い噂が立つのを、みすみす見逃す訳にはいかない。皇帝から直接、命じられているのなら、なおさらだ。
プリンスとの付き合いは、長くなるはずだ。まだ、赴任地にも出立していない今、プリンスの失態……女性関係……を、世間に晒すわけにはいかない。
そういうわけで、プリンスの外出には、彼か配下のモル、スタンのいずれかが、必ず、同行することにしていた。
「僕は行かないよ、グスタフ」
プリンスが、ぱたんと本を閉じた。
「君一人で行くといい」
「だって、プリンス。彼女はあなたを待っているんですよ?」
「彼女が待っているのは、君だよ」
退屈そうに、自分の爪を眺めている。
「前に行った時、彼女は、君ばかり見ていたじゃないか」
「それは……」
……。
もうすぐ20歳だというのに、プリンスには、一向に、浮いた噂がない。
それは、憂うべきことだというのが、グスタフと、もうひとりの遊び仲間、モーリツ・エステルハージの、一致した意見であった。
このまま、軍なんぞへ入ってしまったら、彼は、いったい、どうなってしまうのだろう。
聞く所によると、赴任地は、辺鄙な田舎の駐屯地らしい。
そんな所へ行ってしまったら、まともな女なんかいないのは、火を見るより明らかだ。ましてや軍は、完全な男社会である。
プリンスの、身の上が心配だった。
彼にはぜひ、ウィーンにいるうちに、女友達の一人も作って欲しかった。いやしくも皇族たるもの、それくらいの気概を持って臨んでほしい。
グスタフが目をつけたのは、ウィーンで人気の女優、リスのように愛らしい、ペシェだった。
彼女にケチをつけることのできる男なんか、この世にいない。初めての恋の相手として、まずは、適当であろう。
プリンスの「義理の」兄弟として……血は、一滴も繋がってはいないのだが……グスタフは、大変な努力を要した。
ライヒシュタット公の名で、何度も高価な花を贈り。
スタッフ達にちょっとしたプレゼントを渡し、女優と顔を繋ぐ。すかさず、プリンスを売り込む。彼の美貌と優雅さ、そして、女優のファンであること……。
そうしてやっと、彼を、女優の元へ連れて行くことができた。
初めて訪れた、背の高い貴公子に、女優は、艶やかに微笑みかけた。
プリンスの頬が、さっと赤く染まった。
傍らに控えていたグスタフは、よし、と思った。
彼の残された任務は、頃合いを見て退出し、プリンスと女優を、二人きりにするだけだ。
その後のことは、ペシェがきっとうまくやってくれる筈……。
ペシェは、素早く、傍らに控えたグスタフに視線を投げた。
……この方が、そうね?
彼女の目が問いかけた。
無言で、彼は頷き返した。
グスタフは、成功を確信していた。
それなのに。
「帰る」
ぴしゃりとプリンスは言った。
「え?」
あっけにとられているグスタフとペシェを残し、プリンスは、くるりと後ろを向いた。
そのまま、楽屋を出ていく。
「ちょっと、プリンス!」
やっとのことで彼に追いつき、グスタフは叫んだ。
「なんで……。せっかく、彼女が、微笑みかけてくれたのに!」
「ああ。君にね、グスタフ」
「違います。あなたにです、プリンス!」
「君にだよ。彼女は、君ばかり見ていたじゃないか」
「そんなことは……」
言いかけて、グスタフは、はっとした。
あの、ペシェの一瞥……。
今までのグスタフの努力を彼女が認めてくれて、プリンスのことなら任せてと……、
……あの、微細な合図。
「プリンス、ちが、」
「違わない!」
すたすたと歩きながら、プリンスは、言い放った。
「君の父上は、僕の母上を、横取りしたんだからな! この上、その息子から、侮辱を蒙るなんぞ、まっぴらごめんだ!」
……。
「誤解だって言ったでしょ」
短く削られた爪を見つめているプリンスに、グスタフは叫んだ。
「彼女が待っていたのは、貴方なんです。今夜もあなたのために……」
「なら、花でも贈ってやるといい」
フランソワは、再び、本を開く。
「ただし、君の名前で」
傍らで、ハルトマン将軍が、目を白黒させて、二人のやりとりを眺めていた。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
女優のペシェ(Thérèse Pêche)は、7章「それを僕は献身と呼ぶ」で、グスタフ・ナイペルクが目をつけていた女優です。
私のブログに、肖像画を載せておきます。ご興味のあるかたは、ぜひ。
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-30.html
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