大事に家に飾られた、小さなかわいい奥さん



 乗っていた白い雄馬から、プリンスは、ひらりと下りた。長い脚を馬の尻の後方に回す、優雅な下り方だ。馬には、馬具がつけられていなかった。


 そばで、黒髪の若い男が、感嘆したように見守っていた。プリンスと一緒でなければ、こちらも、相当な美男といってよかろう。

 目鼻立ちがくっきりとした、彫りの深い顔立ちをしている。その動作は、なよやかで優しい。

 新しい付き人のモル大尉だ。ハルトマン将軍の下に配されている。




 モルは、男爵の称号を持っていた。プリンスより14歳年上の、34歳である。

 モルの母親はイタリア人だったが、父は、ドイツ人である。オーストリアの行政官だった。


 モルは、パヴィア(北イタリア)の軍事学校で訓練を受けた。パヴィアは、1796年からウィーン会議までナポレオンの支配下にあった。モルの学んだ軍事学校も、ナポレオンが創設したものだ。


 その後、カール大公の歩兵隊を経て、イタリアのピエモンテで短い期間、戦闘に参加した。それから、パルマ及びピエモンテ公国の地図を作るための、測量部官に抜擢された。


 任が果てると、中尉に昇進し、モラヴィアに赴任していた。

 今年(1830年)、彼は、ザルツブルクで、連隊大尉にまで昇進したが、そこで、ウィーンに呼び戻された。

 皇帝から、ライヒシュタット公の付き人に任命されたのだ。


 父の設立した学校で学び、母の治める国パルマの地図を作った……そんなことが、プリンスには、この新しい付き人モルに親しみを感じるきっかけとなったようだ。


 初めてモルに対面した時、フランソワは、彼が、ウィーン・ドイツ語を話すのに気がついた。

 モルはイタリアで生まれたが、初等教育は、ウィーンで受けていた。


 彼が、完璧なウィーン・ドイツ語を話すことは、家庭教師のディートリヒシュタインにも好印象を与えた。加えて、端正な容姿も、家庭教師の気に入った。


 ……モルは精神、知識、しっかりした性格を持っています。秘密主義ではありますが、極めて進取的です。 私は、彼が大好きです。

 ライヒシュタット公は、初対面のモルについて、パルマの母親に書き送っている。




 プリンスは、笑いながら、無造作にモルの肩を叩いた。そして、長い脚で、二段飛ばしに、階段を駆け上がっていく。

 その後姿を、モルは、いつまでも見つめていた。


 「うーん、ありゃ、ゲイだな」

階上のプリンスの部屋の窓から、一部始終を見ていたプロケシュは、思わずひとり言をつぶやいた。モルは、プロケシュより、2つ、年下だ。


 ……「見目麗しい、よい軍人だ」

 家庭教師のディートリヒシュタインは、そう評していた。

 何より、モルは貴族である。彼は、男爵位を持っていた。そこが、家庭教師には、何より、大事だった。


 ディートリヒシュタインは今、プリンスの住居部分のキッチンにいる。さきほどプロケシュが覗いたら、テーブルの前に腰を下ろして、しきりとうなっていた。


 春になったら、プリンスは、ブルノへ赴任する。家庭教師達は、ついていくことができない。

 ディートリヒシュタインは、プリンスが、ブルノへ持っていく物の、リストを作っているのだ。


 ……モル男爵は、プリンスに、本物の愛情を捧げているようだな。

去っていくプリンスを見つめ、いつまでも立ち去らないモルを見下ろし、プロケシュはそう、感じた。


 彼は、偏見は持ってはいなかった。

 むしろ、女性のいないプリンスの身の回りに、細やかに心配りのできる人間がついていることは、よいことではないかと、思った。

 モルなら、献身的な愛情を持って、プリンスに仕えるだろう。




 「プロケシュ少佐!」

嬉しそうな声が聞こえた。

 階段を駆け上り、プリンスが帰ってきたのだ。

「お待たせしたんじゃなければいいんですが!」

「待ってませんよ」

振り返って、プロケシュは答えた。


「よかった! ……馬を、選びに行ってきたんです」

プリンスは、晴れ晴れとした顔をしていた。

「あちこちから、業者たちが良い馬を見繕ってきてくれたので。どの馬にするかは、僕が、決めていいのです」

 誇らしそうだった。

 プロケシュは、思わず微笑んだ。

「で、どんな馬にお決めになったんですか?」

「まだ、決めてはいません。じっくり選ぼうと思って」


 ライヒシュタット公爵家は、大公家ほどは、資金が潤沢ではない。必要なものを購入する際も、吟味が必要だと、プリンスは語った。


 彼は、上着を脱いだ。

 襟で掴んで閉じてから、椅子に放る。


「それにしても、馬売りというのは、すごいものですね。目つきが鋭くて、ぴしぴしと、値付けをしていくんです」

「ああ、市井のやつらですね。彼らは、生活がかかっていますから」

「僕の新しい付き人のスタンもそうなんです。彼は、僕が支払う俸給だけで、生活を賄っていかなくてはならない。僕は、彼に、充分な給料を支払ってあげられるかな……」

俄に、心配そうな顔になった。

「パルマのお母様に頼んでみようかな。少しは、彼の給料の足しになるかもしれない……」


 あまりに情けない顔になったので、プロケシュは笑いだした。


「そんなことは、心配なさらなくてもいいんですよ」

「そうでしょうか」

「お金のことは、なんとかなるもんです。それが、世間というものです」

「僕なんかね、」


 クラバットの結び目を確かめながら、プリンスが、歩み寄ってきた。


「まるで、大事に家に飾られた、小さなかわいい奥さんみたいでしたよ!」

「へ?」

「自分がまるで、何も知らない、貞節な処女のような気がしました。あの、荒くれの馬商人達の中にいるとね!」(※)


 プロケシュは爆笑した。

 自分の言ったことが、友を笑わせたのだとわかり、プリンスは、嬉しそうな顔になった。


「まだ、ブルノで住む家は、決まっていないんです。ああ、早く辞令が来るといいのにな。本当に待ち遠しい……」

「春になったら、いよいよですね」


 プリンスの健康状態は安定していないと、医者のマルファッティは言う。

 だが、こうしていると、まるで健康のように、プロケシュには見えた。

 実際、彼といると、プリンスは、いつも元気だった。声に張りがあり、咳も殆どしない。


「そしたら、少佐」

プリンスが、プロケシュの手を握った。

「副官の件ですね。もちろん、お受け致します」


 もう、何度も、プリンスには念を押されている。その都度、プロケシュは、受諾している。

 それなのに……。


「ありがとう、少佐」

 握りしめた両手が熱い。


「プリンス」

思い切って、プロケシュは、言った。

「このようなことは、あまりなさらない方が、よろしいと思いますよ」


「え?」

プリンスは、不思議そうな顔をした。その手を、プロケシュは、そっと外す。

「先日、マルモン元帥の手も、握ったでしょう?」


 プロケシュは、ディートリヒシュタイン伯爵から聞いていた。



 ……。


 「プリンスには、どうしても逃したくない人がいると、手を握りしめるという、癖があるのです」


 英国大使のパーティーで、マルモン元帥と会った話をした後、ディートリヒシュタインは、頭を振った。


「私は、一度も、握られたことはありませんが。まあ、私は、どこかへ出掛けても、必ず帰ってきますし。プリンスは、それをよくわかっておいでです」

やや残念そうに、言いおいてから、付け加えた。

「昔は、むしろ私の方が、彼の手を、しっかりと握っていたものです。だってそうしないと、すぐに、どこかへ走っていってしまいますからね!」


 ……。



 「男性だけです!」

心外そうに、プリンスは言った。

「女性に対しては、決して、そのような非礼はしません!」

「男性に対しても、です」


 人との距離の取り方がよくわかっていないだけだということは、プロケシュにもわかっていた。

 それでも、言わずに済ませることはできないと思った。


 彼のために。

 春になったら、軍での生活が始まるのだから。


 男社会の軍には、モルのような兵士も多いだろう。それを考えると、プロケシュは、不安を覚えずにはいられない。



 「普通の人は、手は、握らないものなのですか?」

自信なさげに、プリンスが尋ねた。

「僕に手を握られて、あなたは、不快でしたか、プロケシュ少佐?」

「いいえ」

にっこりと笑って、プロケシュは否定した。

「とても誇らしく、嬉しく感じました」

「よかった……」


 真から安堵したように、プリンスは吐息を漏らした。


「ママ・キュー。フランスのレディーたち。エミール。母上……。レオポルディーネ叔母様に、ライナー大公。幼い頃、僕の好きだった人たちは、次々といなくなってしまって……僕一人、ウィーンに残されました。子どもっぽいことをして、ごめんなさい、プロケシュ少佐。なるべく早く、大人になりますから。どうぞ僕を、見限らないで」


「見限ったりするものですか。自信をお持ちなさい、プリンス。貴方は、私が出会った中で、最も魅力あるプリンスです」


 羞じらいを含みながら、プリンスが笑った。まるで、花が綻んだようだった。





 「あ。またお邪魔しちゃったかな?」

ごく軽薄な声が聞こえた。


 放蕩者と名高い、エステルハージ家の御曹司、モーリツが入ってきた。


「何か用でも?」

むっとしたように、プリンスが振り返る。

「用がなくちゃ、来ちゃいけないんですか?」

「そんなこともないけど……」


 モーリツ・エステルハージは、フランソワより、4歳、年上だった。エステルハージ家は、ウィーンではリヒテンシュタイン家と並ぶ名門だ。


「ハルトマン将軍を探しててね。きっとここだろうと思ったんですよ」

「ハルトマンなら、非番だよ。今日は、モルの担当だから」

「モル? いないじゃないですか」

「帰ってもらった。少佐が来る日だから」


 にっこり笑って、プリンスは、プロケシュを顧みた。


 長いことプリンスの後ろ姿を見送っていたモル男爵の姿を思い出し、再びプロケシュは、複雑な気持ちになった。


 モーリツは、プリンスの傍らの椅子に、どっかと腰を下ろした。

「なあんだ。せっかく来たのに、無駄足踏んじゃったわけか」

「ハルトマンに、何か用?」

プリンスが尋ねた。


「ああ、それ……彼、メッテルニヒから、舞踏会のリストアップをするよう、命じられたんですって? プリンス、あなたが参加する」



 社交界にデビューしたプリンスは、冬の間、ウィーンのあちこちで催されるパーティーや舞踏会に出席する必要があった。

 しかし、そうした催しは、星の数ほどもある。とてもではないが、全部に顔を出せるものではない。

 そこで、宰相メッテルニヒは、新しい付き人のハルトマンに、プリンスが出席すべき舞踏会をリストアップするよう、命じたのだ。



 椅子にだらしなく凭れかかっているモーリツを、プリンスは、肩越しに、ちらと顧みた。


 やおら席を立つと、紙の束を持ってきた。

 無言でそれを、テーブルの上に投げ出す。


 この冬、催される、ウィーン社交界の催し物の一覧だった。


「それなら、ハルトマンは、僕に丸投げしていったよ。自分より僕のほうが、こうしたことに詳しいだろうから、って」


 思わず、モーリツとプロケシュは、顔を見合わせた。

 ……宰相から任された仕事を、他ならぬプリンスに押しつけるなんて。


「僕は、尊敬できる軍人を選んでくださいって、お祖父様にお願いしてあったんだ」

ぶつぶつとプリンスが言っている。

「それなのに……」


「ハルトマンが来てしまった。これはまた、恐ろしい人選ですね」

同調して、モーリツが毒づいた。


 プロケシュも、全く、同感だった。


「で、このリストがどうしたんだい、モーリツ」

「あなたを、ぜひ、参加させたい舞踏会がありまして。何、若い者だけの、気楽な集まりですよ。ここ。ここ、空いてますか? 2月15日」

「空いてるけど……」

「なら、決まり。レドウテン・ホールの仮面舞踏会です。しっかり、空けといて下さいよ」


「レドウテン・ホール……宮廷の外れですね」

 プロケシュが口を出した。

 モーリツが笑顔を向ける。

「あなたも来ますか、プロケシュ少佐」

「遠慮しときます」

貴族でないプロケシュには、居心地が悪いだけだ。


 ……仮面舞踏会。

 プロケシュには、想像もつかない。顔を隠して踊ると、楽しいのか?


 途端に、フランソワが心細そうな顔になった。


「君は、来るんだよね、モーリツ」

「もちろん!」

尊大に、モーリツは、笑った。







「大事に家に飾られた、小さなかわいい奥さん」「何も知らない、貞節な処女」

馬選びは、本当にあったシーンです。フランソワは、母親への手紙で、自分をこのように例えて、仰天したマリー・ルイーゼは、危うく失神しそうになった、と、家庭教師のディートリヒシュタインに、手紙で訴えています。

プリンスはきっと、この後、家庭教師に叱られたんでしょうね……。

ナイペルクとの結婚(と、ナポレオン生存中に産んだ子どもが2人いること)がバレてから、マリー・ルイーゼは、まだ一度も、ウィーンに来ていません。私には、彼女のほうが、よっぽど……(言わぬが花)。


あ。モルに対するプロケシュの評価(?)も、この通りです。フランス語から英語に翻訳した本には、"a gay likeable officer" と書いてありました。




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