春は近い?


 舞踏会は、盛況だった。

 照明を施した木の下や、屋根のついた通路の下で、人々は、飲み、食べ、そして笑う。


 真ん中にはオーケストラが君臨していた。

 シューベルトの詩情豊かなナイーヴさはどこか遠くへ追いやられ、今や、ヨーゼフ・ランナーとヨハン・シュトラウス(父)のワルツが、全盛を誇っていた。

 音楽に合わせて、人々は、狂ったように踊る。まるで、毒蜘蛛タランチュラに噛まれたかのように。


 特にシュトラウスは、「オーストリアのナポレオン」と呼ばれていた。

 今しも彼は、「黒いムーア人」の別名にふさわしく、神秘的なその指揮棒の先から、魔法のリズムを手繰り寄せていた。オーケストラがそれを増幅させて、ホール中を熱狂の渦に導いている。


 一昔前のガヴォットやメヌエットと違い、ダンスは、男女が密着して踊る。相手を、しっかりと抱きしめることができるのだ。

 かつて、貴族の客間では、禁じられていたことであった。

 ゆえに、ワルツは、「革命的」と言われていた。




 「しかし、ここには、ちゃんとした客しか来ないはずだからな」

ディートリヒシュタインはつぶやいた。

 ……客たちは、ただ、踊りに夢中になっているだけだ。そもそも、ウィーンの官能は、下品でも罪深いものでもないからな。酒に酔うこともない。なにしろ、オーストリアのブドウ酒は軽く、人の意識をはっきりさせるくらいだから。


 しかし、人いきれは、彼を疲れさせた。

 メヌエット世代のディートリヒシュタインには、流行のワルツの、くるくる回る動きが、耐え難かった。見ているだけで、酔ってしまう。


 事実、踊り疲れて倒れてしまう紳士や淑女も続出していた。クラバットを緩め、水を与えられ、やっと、蘇生する。

 また、激しい回転のさなかに、別の踊り手たちとぶつかって、お互いに弾け飛んでしまうこともある。

 ワルツは、危険な舞踏でもあったのだ。



 暫くの間、ディートリヒシュタインは、必死でプリンスの姿を追っていた。しかし、ついに諦め、モーリツに託すことにした。

 少なくとも彼は、名門、エステルハージ家の令息だ。


 「さあ、プリンス。行きましょう」

モーリツが、フランソワの腕を取る。

 ちらりと、フランソワが、ディートリヒシュタインの顔色を窺った。

「行ってきなさい」


 オペラグラスの下で、プリンスは、どんな顔をしたのか。

 すぐに二人は、鳥が飛び立つように、熱狂の渦の中へ飛び込んでいってしまった。



 ……ウィーンのダンス・ホールは、行き過ぎということはない。

 再び、ディートリヒシュタインは、自分に言い聞かせた。

 ……たとえ、プリンスが恋に落ちるようなことがあったとしても……。


 それは、充分に可能性のあることであった。

 人々は互いに押し合い、着飾った若い娘たちが興奮し、笑いながら、青年たちの間をすり抜けていく。


 ディートリヒシュタインは首を横に振った。

 ……いや、恋などというものは、どこにでも転がっているものだ。特に、相手がうちのプリンスとあっては! なにしろ、この私が、一流の教育を授けたのだからな!


 誰も見ていなかったにも関わらず、ディートリヒシュタインは、胸を張った。


 ……少なくとも、ここは、ウィーンだ。プリンスの出会う相手は、他のどこよりも、洗練され、高貴である筈だ。大丈夫。滅多なことは起こらない……。





 「男同士で踊るのもなんですから。プリンス……あの娘なんかどうでしょう。大丈夫。僕の知り合いですから。めんどうなことにはなりませんよ」

 フランソワの耳元で、モーリツが囁いた。


 その令嬢は、仮面をつけていなかった。

 水色のドレスの、大きく空いた胸元に、赤い花を2輪、飾っている。

 つややかな髪は、真ん中で分け、横に垂らしてから、後ろで高く結んでいた。すっきりと描いた眉、少し垂れ気味の目、丸い鼻、愛らしいおちょぼ口……どことなく、東洋的だった。


 どこかで見たような気が、フランソワはした。



 「僕はこの娘と踊ってきますから」

 耳元で、モーリツが囁いた。

 いつの間にか、ピンクのドレスを着た女の子の腕をつかんでいた。

「それじゃ、プリンス、また!」


 引き止める暇もなかった。

 モーリツは、令嬢を抱きしめ、くるくると回りながら、フランソワから離れていってしまった。



 シュトラウスの音楽の奔流の真ん中に、フランソワは一人、残された。

 ディートリヒシュタインとは、とっくにはぐれてしまっている。


 「私と、踊って頂けますわね」

 水色のドレスの令嬢が囁いた。

 にっこりと笑う。

 かわいい、と、フランソワは思った。







 次の日、フランソワは、朝帰りをした。







 プロケシュが訪ねると、プリンスは、まだ寝ていた。

 ……珍しいな。

 いつもなら、彼が、ヘラクレスの12の冒険を象った入り口をくぐらない内に、飛びついてくるというのに。


 「プロケシュ少佐。おはようございます」

侍従に起こされ、プリンスが寝室から下りてきた。

 寝乱れた髪が、うねっている。目も腫れぼったく、肌の色もくすんでいた。

「ハンサムが台無しですね」

思わず、プロケシュはつぶやいた。

「?」


 上着を羽織りかけたまま、プリンスは、怪訝な顔をした。

 プロケシュは、一歩、踏み込んだ。


「昨夜は、お帰りにならなかったと聞きました」

「レドウテン・ホールの後、モーリツの知り合いの家に、踊りに行きました」

プリンスは、眠そうにあくびをした。

「モーリツの、知り合いの女性です」


「女性?」

プロケシュは眉を上げた。

「それはつまり、モーリツ・エステルハージの女友達、ということですか?」


「そうですよ。ナンディーヌ・カロリィという伯爵令嬢です」

「ほう」

「彼女の家でも、ダンス・パーティーが開かれていたのです。ごく、内輪のね。僕は、彼女と踊りました」


 少しも悪びれるところがない。

 プロケシュはため息をついた。


 「尾行なら、まきました!」

プロケシュの憂え顔などものともせず、プリンスは、むしろ誇らしげだった。

「僕とモーリツの計画は、万全でしたから! まず、ディートリヒシュタイン先生が目を回してリタイアし、それから、人混みに紛れて、ハルトマン将軍も、僕らの姿を見失ったんです! 僕とモーリツの、想定通りでした! 誰一人、僕らの後をついてくることはできませんでした!」



 今では、フランソワの監視役は、6人になっていた。

 ディートリヒシュタイン伯爵ら、元からこの任に当たっていた、家庭教師の3人と。

 ハルトマン元帥ら、新たに就任した軍人、3名。

 外出は、この6人の誰かが、必ず、アテンドする。アテンドを断られれば、こっそりと尾行する。

 息が詰まりそうだと、常々、フランソワは嘆いていた。



「しかし殿下。遊んでいる場合じゃないでしょう……」

 ……護衛をまくのは、危なくないか?


 プリンスの監視役は、同時に、護衛の役も、兼ねているのだ。

 プロケシュは、苦言を呈そうとした。

 しかし、フランソワは、嬉しそうに笑っている。


「彼女の家でも、僕とモーリツは、決して、オペラグラスを外しませんでした。僕らの正体は、誰にもわからなかったはずです……」

 ふいに、その目が、ぼんやりとした光を帯びた。

「二人の青年は、つけてきた看守を撒いて、踊りに出かけます。彼らの正体を知るものは、その家の主である令嬢だけ。狂ったように踊る人たちは、誰一人、彼らの正体を知らないのです。二人は、神秘的な、謎の存在なんです……」


 ……また、プリンスの夢想癖が始まった。

 プリンスは、プロケシュを、煙に巻こうとしているのだ。

 彼は、素早く後ろを振り返った。


「あのね、プロケシュ少佐。僕らの……僕とモーリツの……ささやかな冒険で、わかったことがあるんです」

「わかったこと?」

「僕につけられた監視は、間違いなく、緩んでいます」


きらきらと目を輝かせている。


「彼らをまくことは、たやすい。ウィーンを脱出できる日は、近いのかもしれません。その時は、一緒に来てくれますよね、少佐!」


 春が近い。

 やはりどうも、彼は、浮ついているようだ。

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