イタリア蜂起


 中部イタリアのモデナ公国のフランチェスコ4世は、野心を持っていた。

 オーストリアの支配から離れたいという、野心である。


 彼のモデナ公国は、小さな国だ。その上、モデナは、隣国のパルマと同じく、オーストリアの直接支配を受けている。

 ……せめて、パルマまでが、わが領土だったら。


 パルマの公主は、マリー・ルイーゼだ。皇帝の娘である。かつてフランス皇妃であったにもかかわらず、彼女は、今の境遇に満足しきっているようだった。



 ……やっぱりあの時、妹の言う通り、強引にでも、彼女をモノにしておくべきだったか。


 フランチェスコの妹は、皇帝の2番めの妻だった。マリア・ルドヴィカ。かわいそうに、ウィーン会議の無理が祟って、一人の子を生むこともなく、肺病で亡くなった。まだ、29歳だった。

 このマリア・ルドヴィカが、生前、義理の娘マリー・ルイーゼとの結婚を、しきりと打診してきたのだ。もう、20年も昔のことだ。



 当時、フランチェスコは、31歳だった。マリー・ルイーゼは、18歳。ナポレオンとの戦争の間、義理の母マリア・ルドヴィカや、年の近い弟妹とともに、あちこちを逃げ回っていた。


 1809年、ヴァグラムでカール大公が、敗北した年。

 マリー・ルイーゼとフランチェスコは、ブダ(ハンガリー地方の都市)にいた。その年のクリスマスまでの間、フランチェスコは彼女と、ほぼ、毎日のように、顔を合わせていた。


 レース編みをする彼女とおしゃべりしたり、彼女のピアノに合わせ、下手な歌を披露したり。


 「あなたには、私を幸せにする資質がおありです……」

クリスマスの朝、ぽっと顔を赤らめ、マリー・ルイーゼは言った。



 皇妃マリア・ルドヴィカは、積極的に、フランチェスコ義理の娘マリー・ルイーゼの仲をとりもった。


 母娘とはいえ、マリア・ルドヴィカとマリー・ルイーゼは、4歳しか年が離れていない。そもそも親戚なので、幼い頃から行き来がある。

(*皇帝とマリア・ルドヴィカは従兄妹同士です)


 マリー・ルイーゼは、皇帝の新しい妻を、「愛するママリーベ・ママ」と呼んで慕った。


 今思えばマリア・ルドヴィカは、ナポレオンの結婚相手の候補に、マリー・ルイーゼの名が上がっていることを知っていたのだろう。(※1)

 仲のよい義理の娘が、恐ろしい人食い鬼の餌食となることを、なんとか阻止しようと画策していたのだ。

 だから、自分の兄フランチェスコに接近させ、皇帝にもこの恋を認めさせようとしていた……。


 しかし、情勢は、皇帝の娘マリー・ルイーゼに、愛だの恋だのにうつつを抜かすことを許さぬほどに切迫していた。

 マリー・ルイーゼはナポレオンの妻となり、そして……。


 ……しかしまあ、彼女と結婚しなくてよかった。

 フランチェスコは思う。

 ナポレオンの没落後、彼女は、パルマに領土を得た。そして、夫の生存中から私生児を生み、あまつさえ、その子らの父、一介の臣下に過ぎぬ片目の将軍と極秘に結婚していた……。



 一方、ウィーン会議により、フランチェスコにも、失った領土の代わりに、モデナ公国が与えられた。


 小さな小さな領土だ。

 そして、オーストリアの直接支配を受けている。彼の権限は、ごくわずかだ。


 フランチェスコは、支配されることが嫌いだった、それは、強権を持った母ベアトリーチェ(※2)への反感だったかもしれない。

 母は、娘、皇妃マリア・ルドヴィカの死後も、ウィーンに居続けた。息子の治めるモデナへは、帰って来ようとしなかった。


 フランチェスコのオーストリアへの反感は、この母との確執が、源流かもしれない。


 彼はいつの間にか、反オーストリア運動の指導者になりたいという夢想を抱くようになった。


 ひそかに彼は、カルボナリと手を結び、中部イタリア、あわよくば北部イタリアを含めた地方の統一を目論んだ。


 だが、ことは、フランチェスコの思惑を超えて、展開していった。

 フランス7月革命、ギリシア・ベルギーの独立は、イタリアのカルボナリに、大きな影響を与えた。


 カルボナリ外交担当エンリーコ・ミズレイは、フランスやイギリスのカルボナリと手を結び、さらに、フランスの新王、ルイ・フィリップの応援を要請した。

 また、同じくカルボナリの内政担当者チーロ・メノッティは、革命委員会を組織し、ルイ・ボナパルトナポレオンの弟と接触し、ボナパルニストを呼び込んだ。


 ……このままでは、モデナ公国は、イタリア革命の温床になってしまう。

 フランチェスコは怯えた。


 彼は、ちょっとオーストリアに歯向かいたかっただけで、革命など、考えたこともなかった。

 革命など起こして、フランスのようになってしまったらどうするのだ。

 公主の自分は、ギロチンにかけられるかもしれない!


 フランチェスコは、カルボナリの内政担当、チーロ・メノッティを逮捕した。

 直後、教皇領のボローニャで、蜂起が起きた。


 モデナ公フランチェスコ4世は、ウィーンへ亡命した。

 皮肉なことに、あんなに嫌っていたオーストリアの保護を求めたのだ。



 逃亡に先立ち、彼は、隣国パルマのマリー・ルイーゼ……彼を慕ってくれた、かつての少女……に早馬の伝令を飛ばした。


 2月3日に、革命が起きる。

 警戒されたし。



 2月3日は、カルボナリの内政担当者、チーロ・メノッティが逮捕された日である。







 マリー・ルイーゼは、この、かつての想い人からの伝令を、初めは信じられない思いで受け取った。

 イタリアは、それほど、平和だった。

 だが、すぐにボローニャで蜂起が起き、暴動は、イタリア中部に広がっていった。

 パルマ公主として、警戒が必要だった。




 2月12日の夕刻。

 パルマ首相官邸を、大勢の群衆が取り囲んだ。

 彼らが持っていたのは、赤、白、緑のイタリア解放運動の旗だった。

 公主マリー・ルイーゼとの面会を求める彼らに、彼女は、代表団との面談を通達した。


 30人の代表団が、官邸の彼女の執務室までやってきた。

 男ばかりだった。

 彼らは、イタリア民族の独立と自由を求め、オーストリア人の退去を申し渡した。

 マリー・ルイーゼは、きっぱりと拒絶した。


 この1831年のイタリア蜂起は、穏健派の蜂起だった。

 1時間に及ぶ会見の末、解放運動の代表団は、何の成果もないまま、引き上げていった。




 その夜。

 マリー・ルイーゼは、二人の子ども……アルベルティーナとヴィルヘルムと共に、数人の供を連れ、ひそかに宮殿を出た。

 寒い2月のイタリアを、裏道ばかり選んで歩いた。

 夜通し歩き、ピアチェンツァに到着した。

 オーストリア軍の駐留地である。

 彼女パルマ公主は、父の国オーストリアに、軍隊の出動を要請した。








*~*~*~*~*~*~*~*~*~*


※1 

ナポレオンを嫌うマリア・ルドヴィカの態度は、1章「結婚のプロコトル 1」で、ベルティエ将軍の目を通して描かれています。


※2 ベアトリーチェ

2章「おいで、フランツェン」で、ザクセン王女と、幼いフランソワの取りっこをしていたあのおばさまです。

この小説では、他にも、亡くなった娘、皇妃マリア・ルドヴィカの寝室へマルファッティ医師を招き入れ、それゆえ彼は、赤い黴を発見した、という役割を担ってもらっています。







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