母の危機



 フランソワが、母の危機を知ったのは、パルマ官邸の占拠から、だいぶ後のことだった。



 「お母様が暴徒に!」

プロケシュが訪れると、彼は、興奮しきっていた。

「お母様は、たったひとりで、暴徒どもに対峙なさったんです! 荒くれの恐ろしい野蛮人どもに! そして、オーストリア軍の駐屯地まで、夜通し歩いて避難なさった!」


「ご無事で何よりでした」

プロケシュが肯うと、フランソワは、一層、ヒートアップした。


「お母様は、なんて勇敢なんだろう! ああ! その時僕は、イタリアの駐屯地ピアチェンツァにいたかった! お母様を守って差し上げたかった! ……いや、今からでも遅くない。僕は、パルマへ行かなくちゃ。お母様の国を、取り返して差し上げなくては!」



 「殿下は、パルマへ行かれるべきです」

 驚くべき言葉を、家庭教師のディートリヒシュタインが吐いた。

 いつも通りの謹厳な顔のまま、彼は続けた。

「親の危機を救うのは、子の役目。是非とも、皇帝にお願いして、パルマへ派遣してもらうがよろしい」


「僕も、ディートリヒシュタイン先生のご意見に賛成です」

 若干のためらいを覚えつつ、プロケシュも賛成した。


 ためらいには、理由があった。

 中部イタリアの蜂起は、すなわち、イタリア独立の動きだ。

 影響を与えたのは、ギリシア・ベルギーの独立。そして、フランス7月革命。


 これは、革命の萌芽なのだ。イタリア独立の、民族自決の、止められない流れの先駆けなのだ。

 それを、ナポレオンの息子が鎮圧に向かうなどということがあってもいいのか。


 しかし、この機を逃したら、プリンスは、永遠にウィーンから出られないような気が、プロケシュにはしてならない。

 なにより、20歳になった彼を、いつまでも閉じ込めておくなど、あってはならないことだ。



「ありがとう、ディートリヒシュタイン先生。プロケシュ少佐」

 プリンスの目が潤んだ。

 しかし、青い目から、涙がこぼれることはなかった。


「イタリアには、ぜひ、ご一緒に」

プロケシュは申し出た。


 ……どう転ぶかなんて、わかったもんじゃない。

 この際、革命の是非は、プロケシュには、どうでもよかった。

 大切なのは……、


 ……その時、プリンスが、ナポレオンの期待を裏切ることのないように。

 なぜならナポレオンこそが、彼の心の拠り所だから。


 ……しかし、オーストリアと敵対することのないように。

 なぜなら彼は、祖父オーストリア皇帝を敬愛しているから。


 プロケシュとしては、全力で、彼をサポートするつもりだった。彼にとって、護るべきは、歴史の必然などではない。大切な友……生身の彼だ。


 プリンスはうなずき、しっかりとした足取りで、皇帝の執務室へ向かった。





 皇帝は、孫のイタリア出兵を許さなかった。

 それは、彼が信頼する宰相、メッテルニヒも、同じ意見だった。


 イタリアのカルボナリは今や、ボナパルニストと手を結んでいる。

 そこに、ナポレオンの息子がオーストリア軍とともに登場したら、どういうことになるか。

 大変な混乱になることは、間違いなかった。


 ……プリンスは、カルボナリにさらわれ、処刑されてしまうかもしれません。

 深刻な顔で、宰相は、囁いた。

 皇帝は、震え上がった。





 祖父の皇帝は、困惑していた。

 フランソワは激昂していた。母の援助に出動を許されなかったからだ。その激情ぶりは、目に余るものがあった。

 いくら、マリー・ルイーゼは、安全な場所にいると説得しても、自分が彼女を助けに行くと言ってきかない。


 頬は、内気さからではなく、感情の高ぶりで真っ赤に染まり、青い目を燃え立たせて、出動を要請する。

 こんなに感情を露わにする孫を、皇帝は、初めてみた。


 フランソワの激高は、何日も続いた。

 今まで決して、祖父である皇帝に逆らったことなどなかったのに……。



 「フランツ」

人払いして、皇帝は囁いた。

「遠い将来、お前を待っているのは、イタリアではない。フランスだ」


「なんですって、お祖父様?」

フランソワは、虚を衝かれたようだった。


 さらに皇帝は言い募る。

「それは、今ではないかもしれん。だが、オルレアンの末裔ルイ・フィリップや否や、お前は、フランス国境の街ストラスブールからパリへ、姿を現すことになるだろう」


「フランスの軍隊が僕を呼ぶのなら、僕は、直ちに、彼の国に足を踏み入れましょう。しかし、」

 フランソワは、毅然として、祖父を見返した。

「しかし僕は、の軍隊を引き連れて、かの国の土を踏むつもりは、毛頭、ありません!」


「……よその国の軍隊」

悲しそうに、皇帝は繰り返した。



 さすがに言い過ぎたかと、フランソワも、反省しようだった。

 オーストリアは、彼の母の国である。そしてまた、彼を育てた国でもある。親戚や、知り合いも多い。

 それを、よその国だなんて……。


 感情が高ぶりすぎているからだろう。

 皇帝は、痛ましく思った。

 知らず、彼は、つぶやいていた。


「フランツ。なぜお前は、もう少しだけ、年長じゃなかったんだ?」

 祖父の言葉の調子に、フランソワは、耳をそばだてた。

「お祖父様。それは、どういう……?」


 はっと、皇帝は、我に帰った。

 彼は、先のフランスの7月革命のことを考えていた。しかし、皇帝の真意は、孫に知られてはならないことだった。


 「7月革命のことですね?」

それなのに、フランソワが、踏み込んできた。


 皇帝は、孫が、フランス父の国への愛と、オーストリア母の国への忠誠の間で揺れていることを知っていた。

 皇帝自身も、フランソワを通して、フランスの国への足がかりを得ることを望んでいた。


 ……余人は戦をすべし。幸いなるかなオーストリア、汝はまぐわうべし。

 ハプスブルクの家憲は、フランスとの間で、何度も、潰えている。


 まず、皇帝の叔母、マリー・アントワネットが処刑された。

 そして、その娘、マリー・テレーズと、皇帝の弟カールの間でも。……マリー・テレーズはフランスブルボン家に忠誠を誓い、父方の従兄アングレーム公を選んだ。


 そして、皇帝の娘マリー・ルイーゼと、ナポレオンの婚姻……。



 完膚なきまでに潰れたフランスとの血の繋がり。フランスへの版図拡大の夢に、再び、機会が訪れるのかもしれない。


 皇帝の孫、フランソワによって。


 だが、それは、今ではない。

 血気に逸る孫に、先走らせてはいけない。



 皇帝は、言った。

「あの時、もし、フランスの人々が、真からお前を欲していたら。そしてもし、同盟国の同意が得られていたら。儂は、すぐさま、お前をフランスの王位に就けただろうに」

「……」


誇りを傷つけられた目で、孫は、祖父を見つめた。







 「お祖父様は、僕を、子ども扱いしていらっしゃる」

プロケシュに、フランソワは嘆いた。

「同盟国の同意? イギリスやロシアの? そんなの、得られるはずがない! あいつらが、ナポレオンの息子を、フランスの王位に就けることを、許すものか!」


「……」

 プロケシュは、答える言葉がなかった。

 全くそのとおりだと思ったからだ。


「僕は、フランスの王になりたいわけじゃない! 僕は、愛するものを守る為に戦いたいんだ! それなのに僕は、お母様を守ることさえできないのか!」


 母のために、彼は、自分の軍を率いて戦いたかった。



 フランソワの熱狂と絶望は、留まることをしらなかった。

 彼は、まるで、絶え間のない熱に侵されているようだった。落ち着かず、何をすることもできない日々を送った。

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