大義は立つ


 「フランツ」

そっと呼びかける声がした。

「ヨーハン大公!」

思わずフランツは、声を上げた。


 アルプスに籠りがちな、祖父の弟ヨーハン大公だった。


「珍しいじゃないですか! あなたが、ホーフブルク宮殿街中まで出てくるなんて! さては、いよいよ、奥方に愛想をつかされたとか?」


 だが、ヨーハン大公は、フランソワの軽口に、乗ってこなかった。


「俺がここにいるのは、誰にも知られちゃいけないんだ。時間がない。一度しか言わないから、よく聞け」

「……?」


 フランソワはあっけに取られた。

 いつもは飄々としているヨーハンの顔が、緊張で強張っていた。


「トスカーナのザウラウ侯から、伝言だ。『モデナ大公の地位が空白になっている』」

「モデナ? パルマの……母上の国の、隣国だ!」


 思わず、フランソワは叫んだ。

 ヨーハンは頷いた。


「イタリアの蜂起は、最初に、モデナから起きたんだ。身の危険を感じたモデナ大公フランチェスコ4世は、すぐさま、亡命した」

「母上は……、母上はまだ、イタリアに留まっておいでです!」

「マリー・ルイーゼのことは、どうでもいい!」


 大公は声を荒らげた。

 すぐにまた、声を潜める。


「いや、どうでもよくないか。ザウラウは言うのだ。今なら、大義は立つ。だが、お前が向かうのは、パルマではない。隣国モデナだ。モデナから、パルマを攻略するのだ。フランチェスコ4世は、ウィーンへ亡命途上だ。モデナ大公位は、今、空位だ」

「待って下さい、おじさん!」


「ウィーンから、イタリア暴動の鎮圧軍が、出動する。連隊には、ザウラウ侯の息のかかった部隊が連なっている。彼らには、モデナ鎮圧の任が課されている。その連中が、お前を匿い、モデナまで行動を共にするはずだ。部隊がモデナに入ったら、すぐに、トスカーナから、援軍が向かう」



 ザウラウは今、在トスカーナの、ウィーン大使を務めている。(※6章「年寄りの冷水」参照下さい)

 トスカーナは、モデナと国境を接している。その上、トスカーナ大公は、オーストリア皇帝の甥だ。

 トスカーナ大使として、ザウラウは、たやすく援軍を、モデナに派遣できるだろう。



 「もちろん、暴徒を鎮圧したからといって、すぐさまモデナ大公位が転がり込んでくるとは限らない。亡命したフランチェスコの反論もあろう。だが、ザウラウには、勝算があるようだ」


 ヨーハンは、少しだけ不満を浮かべた。


「彼は、お前の人気に、絶大な自信を持っている。他人の人気を誇るのは、奇妙な心理だが」


 それは、フランソワの人気ではない。

 父、ナポレオンの人気……。

 それにあやかることは、ヨーハンにとって、まったくもって、不本意だった。


 ヨーハンはため息を吐き、頭を横に振った。


「事後の収拾まで、ザウラウは考えている。皇帝の説得は、私と……、必要なら、カール大公兄上にも依頼する。マリー・ルイーゼが心配なのは、皇帝も同じだ。ただ、皇帝は、お前の身を案じている。だから、宰相メッテルニヒの言いなりになった」


「しかし……そんなことをしたら、ヨーハン大公、あなただって……カール大公も……」

「大丈夫だ、フランツ。皇帝の弟達カール大公と私は、そんなに脆弱ではない。いざとなったら、私達に味方をする者は多い」

「僕は、でも……」


「これは、皇帝に対する裏切りなどではない」

フランソワのためらいの根源を見抜き、きっぱりと、ヨーハンは言い放った。

「お前は言った。自分の体調を押しても、軍歴を積む必要がある、と。若い時には、思い切った無茶が、必要な時もある。もし、今が、その時だと、思うのなら……」


 大公のためらいが感じられた。

 フランソワは息を飲んだ。


「だが、覚えておいてくれ、フランツ。私は、この話に賛成はしない。お前の咳は、治まっているかのように見える。だがそれは、お前が、隠しているだけだ。肺の病は、消えることはない。もうすぐ春だ。山里の雪も溶ける。お前は、アルプスへ来るべきだ。肺の療養に、専念すべきなのだ」

「いやです」


 即答だった。

 深い溜め息を、ヨーハンはついた。


「前にも言ったが、私は、皇帝には、お前を解放する意思が、ないんだと思う。メッテルニヒが、許さないからだ。それは、今回、お前につけられた3人の軍人を見ても、明らかだ。お前の能力は、彼らを軽く凌駕している。彼らには、お前を高めることなんて、できやしないし、お前も、彼らに親近感を抱くことはないだろう。彼らと一緒にいても、いいことはない」

「……」


「お前が、アルプスへ来ることを望む。イタリアで戦うのではなく。だが、俺は、お前が、ウィーンに閉じ込められたままでいることを、よしとしない。ザウラウは、忠臣だ。ああ見えて、思慮深い面もある。もし、お前が……」


 ヨーハンは、顔を上げた。

 瞳が奥に引っ込んで膨らみ、目の縁が、赤らんで見えた。

 ためらいと。

 葛藤と。

 それが、ひしひしと、伝わってきた。


 大変な努力を動員し、彼は伝えた。


「イタリア鎮圧軍は、アルザー通りに駐屯している。出立は、明日の晩だ。お前は、行ってもいいし、行かないですませることもできる。ただし、この話は、誰にもするな。プロケシュにもだ」

「僕は、彼を、副官にするつもりです!」

「彼を連れてはいけない。秘密を知る者は、少ないに限る」

「あなたは、少佐を知らない。けれど僕は、知っている! 彼は、僕の親友です」

「若いな」


 ヨーハンは、首を振った。

「ならば、こう言おう。それは、プロケシュの破滅に繋がる。計画が失敗すれば、彼は、銃殺だ」

「……」


「アルプスへ来い」

ヨーハンは繰り返した。

「いいえ」

フランソワは答えた。








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