不滅のナポレオンの血を引く王
おやすみの挨拶をして、ハルトマン元帥は帰っていった。家庭教師達は、非番だ。
この頃、秘密警察の監視は緩んでいることは知っている。
フランソワは、むっくりとベッドから起き上がった。
明かりを点けずに、白い軍服に着替えた。外套を羽織る。
腰に佩びる剣は、決まっていた。大きく反り返った、ナポレオンの剣。17歳で大尉に昇進したお祝いに、母のマリー・ルイーゼから渡されたものだ。
足音を忍ばせ、剣が保管してある部屋へ向かおうとした時……。
「お止めなさい、馬鹿な真似は」
暗がりの中に、誰かが立ちふさがっていた。
「!」
モルに見つかったのかと思った。
だが、モルの勤務は、朝からだ。
違う。この影は、モルではない。
もっと、ふてぶてしい、ずっと、やさぐれた……。
「アシュラ!」
「はい、私です。殿下。あなただけですよ。最初から、私だってわかったのは」
「アシュラ! いつ帰ってきた? 今までどこにいたんだ? いや、そんなことはどうでもいい。ちょうどいい。アルザー通りまで行くぞ。僕について来い」
「アルザー通りの、そのまた先でしょ。イタリアだ。あなたが行こうとしているのは」
「知っているのか」
「ずっと、殿下のおそばにいましたから。熟練のスパイにとって、人払いや密談など、何の意味もありません」
「なら、なおさら、お前をここに残していくわけにはいかないな!」
「だから、馬鹿な真似は止めろと言っているんです」
「馬鹿な真似? お前、口が過ぎるぞ」
「そうですか? 馬鹿に馬鹿と申し上げて、何が悪いんです?」
「その馬鹿とは、僕のことか?」
「御意」
「お前……っ、もう、いい! 邪魔だ。そこをどけっ!」
「どきません」
「どけ!」
強引にすり抜けようとした。
その両腕を、アシュラが掴む。
もみあい、二人は床に倒れた。
「殿下! 何か!」
外から侍従の声が聞こえた。
アシュラの胸の音が高まった。
彼は、下に倒れ込んだフランソワの気配を窺っている。
「……なんでもない」
床に横たわったまま、平静を装い、フランソワは答えた。
「ですが、今、何か大きな音が……」
寝室の、閉じたドアの向こうに、人の気配がする。
「ベッドから落ちただけだ」
「ベッドから……大丈夫ですか?」
「大過ない。下がれ」
「はい」
ドアの向こうの、人の気配が消えた。
アシュラが、長い吐息を吐いた。
「降りろよ」
低い声で、フランソワが、怒りの声を発した。
「そしたら、殿下は、イタリアへ行くでしょ」
負けずに、だが小声で、アシュラも言い返す。フランソワの両足の上に乗り、しっかりと、その両手を抑えつけている。
「僕は戦う」
フランソワは、なんとかアシュラを振り落とそうと暴れた。
「もし、
「ウィーンの市民に……銃を向ける?」
大変なショックを、アシュラは受けたようだ。思わず、両手の力が緩む。
「殿下! なんてことを!」
ここぞとばかりに、フランソワは、床に押し付けられていた手を振りほどいた。
力いっぱい、相手を押し戻す。
「だってそうだろ? 大事なものを守るために、戦うんだ。そのためなら、死んだっていい!」
「軍隊と戦ったら……、死ぬのは、市民です」
再び、アシュラが拘束しようとする。もみ合って倒れた時に、上になった立場を利用して、フランソワの自由を奪おうとする。
「ナポレオンの息子が、市民に剣を向けるなんて! あってはならぬことです!」
「お前、いつもは僕が、ナポレオンの息子だというと怒るじゃないか!」
「今回ばかりは特別です。あなたの父親は、革命の継承者ですからね!」
めちゃくちゃに振り回す腕を避け、肩を抑えつけた。
「どうしちゃったんですか、殿下! 宮廷の派手な演出より、福祉を優先させようとするあなたが! 外出の時は、いつも小銭を持ち歩いて、貧しい者に分け与えるあなたが!」
でも、アシュラにはわかっていた。
軍務につけず、監視され、なにもさせてもらえない……。その逼塞感と息苦しさが、彼を追い詰めたのだ。
燃えるような目が、下から睨んだ。
「母上を、お守りするんだ!」
「彼女はすでに、オーストリア軍と共にいますよ。あのね。今、イタリアなんぞへ行ったら、あなた、本当に、ただの馬鹿ですよ?」
「だから、バカバカ言うなと言ったろ!」
「モデナで起きた蜂起は、反オーストリア蜂起です。すぐに、同じオーストリアの支配を受けるパルマにも広がった」
「知っている。母上の危機なんだ。すぐに行かなくちゃならない。おい! 僕の上から降りろ!」
「パルマは、問題ではありません。問題は、モデナにイタリア統一の為の革命政府ができ、その動きが、ボローニャなど、教皇領にまで広がっていること」
「パルマが問題なんだ!」
「そして、革命政府が、ボナパルニストと手を結んだこと」
「……なんだって!」
暗闇の中で、夜目にもフランソワの顔が青ざめたことがわかった。
深い吐息を、アシュラは吐いた。
「ああ、やっぱり、知らなかったんですね? あなた、この頃、シャラメの書店にも顔を出さないから……。革命政府は、オーストリアの支配からの、イタリア解放を望んでいます」
「許すことの出来ない、反逆だ」
「彼らは、イタリアの統一と、自分たちの統治者を求めている。ちなみにそれは、『不滅のナポレオンの血を引く王』だそうです」
驚きに、フランソワの声が掠れた。
「不滅のナポレオンの……、血を引く王?」
「あなたではありません」
即座に、アシュラは言い放った。
「恐らくそれは、ナポレオン・ルイ。ナポレオンの弟の次男、あなたの従兄ですよ」
「従兄……」
イタリアで、ナポレオン・ルイに会ったと、アシュラは告げた。
ボナパルト家の時代を担う彼は、伯父ジョセフの娘と結婚し、カルボナリと共に活動している、と。
フランソワは、すっかりおとなしくなっていた。
アシュラは、静かに、彼の上から下りた。
「大変失礼を致しました。殿下、あなたが、暴れるものですから」
フランソワは、横たわったままだ。
「それじゃ、僕は……僕は、従兄と戦うところだったのか?」
「それに、あなたを支持する者達とも。中には、正統な跡継ぎじゃないといやだ、ってやつも、いるんです。ナポレオンの甥じゃなくて、2世じゃないとダメだ、ってやつもね!」
「僕は、オーストリア軍を率いて……?」
「今、モデナへ行くなら、そうなります。イタリアにとって、白い軍服は、オーストリアの圧政の証」
フランソワは、右掌で顔を覆った。
左手は、長く床に投げ出したままだ。
「さ、殿下。おわかりなら、起き上がって下さい。床は、冷とうございましょう?」
「僕は……」
「殿下。あなた、
「……」
「ウィーンの……ウィーンだけじゃなく……民に、銃を向けるなどと、もう二度と、おっしゃらないで下さい」
静かな声で、アシュラは諭した。
「誓って申し述べましょう。その時、彼らが奉じているのは、あなたですよ、殿下。革命の継承者、ナポレオンの血を引く、あなたなんです!」
「だが、僕は、オーストリア皇室の一員だ! 僕は、
一瞬だけ高くなった声が、絶望を孕む。
「僕は、いったい、どうしたら……」
床に長く伸びたフランソワの左手を、アシュラはつかんだ。顔を覆っている右手を、引きはがす。
両手に力を込めて、一気に、彼の体を引き起こした。
「まずは、起き上がることです。プロケシュ少佐に相談なさい。僕も、彼に賛成です。慌ててはいけない。じっくり時を読むことです。長生きをして、ね!」
「……お前、プロケシュ少佐の味方なのか?」
「どちらかというと」
「よかった。ヨーハン大公も、グスタフも、彼を嫌うんだ」
プロケシュの名が出た途端、フランソワの声が明るくなった。希望の火が灯ったようだ。
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