誤解の解ける時
微かに、アシュラは眉を顰めた。
「殿下。手が熱い。熱があります」
「……誰にも言うな」
激しい勢いで、フランソワが詰め寄る。
「熱が出たとか、咳をするとか……。そんなことがわかったら、お祖父様は、僕を、軍務に就けて下さらない」
「結構。アルプスで療養なさい」
「そんなに悪いわけじゃない。時々だ。時々、ちょっと、体がだるいだけ」
「殿下。あなた、
「粗末になんかしてないよ。お母様がおいたわしかったんだ。パルマの料理人は、まずい料理しか出さないそうだから」
アシュラは、ため息をついた。
「料理がまずくたって、死にはしません」
「だって、ブルボン王朝は倒れただろう? 僕はもう、安全なはずだ」
「新しい王、ルイ・フィリップが、あなたの肖像画を欲しがっているそうです。あなたを識別できるよう、刺客に見せるのかもしれない。それに、敵は、フランスだけじゃない。もっと身近にもいます」
「……メッテルニヒか?」
アシュラは頷いた。
「なんと私は、命を狙われているそうです」
「だから、モルのふりを?」
「ええ。私は、公式には、まだ帰国していないことになっています。ですが、もちろん、宰相の本命は、あなたです。それなのに、
「だって、お母様が……」
ぎろりと睨んで、アシュラはフランソワを黙らせた。
「ヴァーラインの残していったスタッフで、厨房の監視体制を構築し直しました。私も、できる限り、毒味に回ります。ですが、あちこちで催される社交の料理までは、手が回りません。どうか、外では、あまり召し上がりませんよう」
「わかった」
「それと、くれぐれも、無理はいけません」
「わかってる」
「……まあ、じめじめしたウィーンより、湿気の少ないプラハやブルムの方が、肺の為には、いくらかマシでしょう。宮廷生活より、ストレスも少ないだろうし。なにより、メッテルニヒから離れられるし」
「お前も来るんだ、アシュラ」
「行きますとも。行って、あなたの健康状態を、逐一、監視して差し上げます」
ちらりと、フランソワが笑みをこぼした。
アシュラは、仏頂面のままだ。
「今度は、私の質問です。殿下。なぜ、エオリアをふったんです?」
「エオリア? 誰だっけ?」
「シャラメ書店の! あなたがすっかりお見限りの!」
「ああ!」
フランソワの顔に、理解が浮かんだ。すぐに、彼は、顔を顰めた。
「見限ったわけじゃない。行けないんだ。なにせ今や僕には、6人も監視がついているんだぞ。家庭教師3人に、新しく軍の付き人が3人……。一度寝たふりをした後でなくては、うっかり城も、抜け出せやしない。その頃にはもう、本屋は閉まってるだろ?」
「とぼけないで下さい! 私は、知ってますよ? エオリアと二人で、ボートに乗ったでしょ?」
「そうだ! お前、なんだってまた、デタラメな漕ぎ方を、彼女に教えるんだ? おかげで、僕は、軍の渡河教練の時、危うく大恥をかくところだったんだぞ」
「ああっ! やっぱり一緒にボートに乗ったんだ!」
「乗ったよ。だが、ちょっと待て。ふった? 僕が? だってあの娘は、お前の恋人だろう?」
はっと、フランソワは、気がついたようだった。
「さては、お前、彼女にふられたな?」
「いいえ!」
「嘘をつけ。だから言ったろ? 女とパリ……いや、ウィーンは、留守にしたらダメだって」
「あれは、そういう意味だったんですか!」
アシュラの顔に、理解の色が浮かんだ。
フランソワは大きく頷いた。
「彼女を残して一人で出かけた、お前が悪い」
「ですが、ふられたわけではありません! それは、絶対。だって、彼女は、初めから、僕なんか眼中になかったんですから!」
きっぱりと、アシュラは言い放った。目を怒らせて、詰め寄る。
「いったい、誰のせいだと思ってるんですか!」
フランソワは、鼻白んだ。
「お前のせいだろ?」
「いいえ。殿下のせいです!」
「は? なぜ、そうなる」
「殿下だって、彼女のことを、とてもいいって、言ってたじゃないですか!」
「誰のことを?」
「エオリアのことを、です!」
……「殿下は、その……、どう思っておられます? つまり、シャラメ書店の……エオリアのことを」
しどろもどろと尋ねるアシュラに、フランソワは、簡単に答えた。
……「いいんじゃないか」(※1)
……。
アシュラが詰め寄ると、フランソワは首を傾げた。
「そんなこと、言ったっけ?」
「言いました!」
「記憶にないぞ」
「とぼけないで下さい!」
アシュラの剣幕に、フランソワはため息をついた。
「あれは、お前にとっていい、という意味だよ」
「まさか」
あり得ない、と、アシュラは思った。だって自分は、一方的に彼女に恋をして、でも、彼女は……。
フランソワが口を尖らせる。
「彼女は、とてもしっかりしてるように見えた。店の受け応えも、きちんとしていたし、身なりも過美じゃなく、清潔だ」
「その通りです!」
思わずアシュラは叫んだ。
フランソワが、ぱっと顔を赤らめた。
「だから、ちゃらんぽらんなお前には、合ってるんじゃないかと思ったんだ! いろんな女の子の間で、いつもふらふらしているお前に!」
「それって……?」
アシュラは呆然とした。
フランソワは少しためらい、付け加えた。
「もちろん、本当は反対だった。お前は僕より1つ年上なだけだし、結婚なんてまだ早い。もっとよく考えるべきだし、家庭を持ったら、お前はきっと、奥さんの方を大事にするだろう。……僕より」
最後の一言は、ひどく早口だった。熱とは違う赤味が、その頬を覆っている。
「そんな……」
……でも、自分は、エオリアを失った。
……彼女が、本当に好きだったのは……。
崩れ落ちそうになる自分を、アシュラは、どうにか支えた。
「そっ、そもそもなぜ、殿下は、シャラメ書店になんか行ったんです? あんな小汚い、場末の本屋に! これはもう、
「お前と一緒にするなよ」
むっとしたように、フランソワが口を尖らせた。
「あれでけっこう、いい本を揃えてるんだ。特にフランス史関連では、ウィーンでも群を抜いている」
「だって、狭苦しい上に、薄汚れてて、埃だらけじゃないですか。殿下と接点が、まるでないのに……」
シャラメが聞いたら、さぞや激怒するだろうことを、アシュラは口走った。
フランソワが、眉を吊り上げた。
「お前の後を付けていったに決まってるじゃないか」
「……え?」
「お前が、スパイにも私生活がある、なんて言うから……」
「……」
「ほら! ブルク・バスタイで!」(※2)
そういえば、そんなことを言ったような……。
だが、彼の生活は、全て、フランソワの傍らにあった。私生活などと口走ったのは、アシュラの見栄だ。
ふふん、と、フランソワが、鼻で笑った。
「だが、安心しろ。今では、僕にだって、私生活があるんだ」
「それは、もちろん、プロケシュ少佐と……」
「違う! 何を言ってるんだ!」
「それじゃ、グスタフ・ナイペルク……」
「怒るぞ」
「まさかあの、モーリツ・エステルハージじゃないでしょうね!」
「お前……、殺す」
「今のは冗談です。まずは、少し、お休みくださいませ。殿下の、女性との冒険の話は、おいおい、聞かせて下さい」
フランソワは、両手を横に拡げた。無言でアシュラを見つめる。着替えを手伝えと言うのだ。
アシュラは、不服そうに鼻を鳴らした。
「ボタンくらい、自分で外して下さいよ」
「いやだ。お前、やれ。長いこと留守をしていた罰だ」
ため息をつき、アシュラは、白い軍服の金ボタンを、下から外していく。
胸元まで外した。
上着を脱がそうと、カラーに手をかけた。
フランソワは、平然と、されるがままに任せている。
アシュラは首を傾げた。
「おや? コンプレックスは、克服しましたか?」
「何のことだ?」
「首筋の……。そういえば、この頃、開襟のお洋服を召されていることが多かったですね。カラーやクラバットもなしで。陰で見ていて、良いことだと思いました」
「陰で……とっとと出てくればよかったのに」
フランソワはぼやいた。首筋をそっと撫でる。
「この痣は、な。ボナパルト家の遺伝だったんだよ。新しい侍医が言っていた」
「新しい侍医?」
「ああ、お前は知らないんだな。シュタウデンハイム先生は、今年の5月に亡くなられた」
「へえ……。それは……」
シュタウデンハイムは、ベートーヴェンの主治医でもあった医師だ。
しっかりした治療方針を持ち、優秀な医師であった彼は、患者が言いつけに従わないことに我慢がならなかった。
言うことを聞かないベートーヴェンとの間は決裂し、医師は、音楽家の死の床を訪うこともなかった。
「今度の医師は、イタリア人だ。かつて、ルッカにいたことがある。そこで、
「……違います」
きっぱりと、アシュラは否定した。
「違う? これは、ボナパルト家の印ではないとでもいうのか」
フランソワが気色ばむ。
落ち着いた声で、アシュラは応じた。
「イタリアで、私は、エリザ・ナポレオーネと、ナポレオン・ルイに会いました。あなたの従兄姉です。それから、ポーランドで、アレクサンドル・ワレフスキにも」
アレクサンドル・ワレフスキの名が出た時、フランソワの眉が、僅かに顰められた。
彼は、異母兄の存在を知っていた。エルバ島に流された
ゆっくりと、アシュラが語った。
「エリザ・ナポレオーネとルイ・ナポレオンに会ったのは、夏でした。二人の首は、むき出しだった。アレクサンドルに会ったのは冬だったけれども、彼は、首筋の大きく空いた服を着ていました。違う。……彼らの首に、痣なんて、なかった」
「それじゃ、僕にだけ、遺伝したんだろ?」
「腫れて大きくなる痣なんて、聞いたことがない。遺伝なら、なおさらだ」
「……だって、マルファッティが、」
「殿下。気づいていらっしゃるんでしょう? これは、痣なんかじゃありません。
「……」
「あなたの結核は、治まってなんかいない。ヨーハン大公は正しい。それは、一生の病だ」
無言でフランソワは、寝巻きを羽織った。不器用な手つきで、紐を結ぼうとする。
同じく黙ったまま、アシュラが手伝った。結び終えると、フランソワの腕をとり、子どものように、ベッドに寝かせつけた。
もじもじと、フランソワは、上目遣いにアシュラを見上げた。
「さっき、言ったな。……従兄に会ったと」
「はい」
「
「ええ」
「彼らの話を、聞かせてほしい。オーストリアを出て、お前は、どこへ行った? 何を見てきたんだ?」
「ざっくり申し上げますと、イタリアで成熟しすぎた女性に脅され、フランスで道路の敷石をはがし、ポーランドでは、食料泥棒の咎で、危うく軍法会議にかけられるところでした」
「……何をやってきたんだ、お前は」
「そうそう。パリで、殿下にお土産を買いました。ですが、ご忠告です。折りたたみのステッキは、いざという時、役に立ちません。これを御覧なさい」
フランソワは、ステッキをコレクションしている。パリのステッキと聞いて、いそいそと、アシュラの手元を覗き込んできた。
ポケットから、アシュラは、ミツバチを象った、丸いものを取り出した。
フランソワは、不満そうに口を尖らせた。
「なんだ、これは」
「ステッキです」
「ステッキ? これが?」
「正確には、その、握り部分です」
「……。こうなったらもう、ステッキじゃないぞ」
アシュラは、肩を竦めた。
「ワルシャワで壊れちゃったものですから」(※3)
「ワルシャワで?」
「詳しくは、殿下が、横になられたら、お話しします」
アシュラに抑えつけられるようにして、フランソワは布団に潜った。
「さあ、一晩中でも話し続けるがいい」
「眠っておしまいなさい。私の話を聞きながら」
アシュラは言った。
・~・~・~・~・~・~・~・~・
※1
この辺りの二人の齟齬は……6章「名誉は自分で掴み取る」
※2
スパイにも私生活がある……6章「ブルク・バスタイにて 1」
※3
パリで買ったフランソワへのお土産のステッキが、ワルシャワで壊れたいきさつは、8章「ポーランド蜂起 1」
それぞれご参照頂ければ幸いです。
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