7月革命―③絵のない絵本と自由の女神


 「伏せろ!」

誰かが叫んだ。


 アシュラの右脇にいた人が倒れた。

 一瞬遅れて、胸から血が吹き出した。


「気をつけろ! スイス人の傭兵だ!」


 ルーブル宮殿の高い擁壁から、兵士たちが、市民に銃口を向けていた。

 すぐに、城門から、兵士たちが出てきた。銃剣を構え、市民たちに斬りつける。

 あっというまに、激しい戦闘が始まった。




 「おらおら、俺は、拳銃を持ってるぞ!」

ガブリエルが、拳銃を振りかざす。

 ぱんぱんぱん、と乾いた音がした。


 ……あいつ、撃ちやがった。


 驚いたことに、通りの向こうで、兵士が倒れた。

「……あたった」

呆然と、カブリエルがつぶやく。


「馬鹿、油断するな!」

 ガブリエルに襲いかかろうとした兵士に、アシュラは体当たりした。

 彼は、武器を持っていなかった。ユゴーやエミールとも、とっくにはぐれ、戦闘の只中に放り出されていた。


 子どもと見て侮ったのか、再び、銃剣を持った兵士が、ガブリエルに襲いかかろうとしている。


 ……もう、どうにでもなれ!

 アシュラは、拾った棒きれを振り回し、突っ込んでいった。

 とりあえず、ガブリエルは、拳銃を持っている。だからきっと、なんとかなる。


 一向に、ガブリエルの銃声は、聞こえてこない。敵兵は、銃剣を握り直し、新たに出現したアシュラに向かって切りつけてくる。

 最初の一撃を、危うく躱した。だが、相手は傭兵プロだ。このままでは、やられる。


 切羽詰まって、アシュラは叫んだ。 

「ガブリエーール! とっとと、撃ってくれ! このままじゃもたない! 援護しろ!」


「あれ? あれ?」

 ガブリエルは引き金を引くのだが、弾が出ない。

 既に撃ち尽くしているのだ。


「考えなしに撃つからだ!」

 アシュラは叫んだ。両手で高く構えた棒を、まっすぐに、振り下ろす。フェンシングでは考えられない剣さばきだ。

 ほとんど、道端の喧嘩と同じだ。


 だが、脳天に堅い棒の殴打を受け、相手は、ひるんだ。その隙に、アシュラは、ガブリエルの腕を握った。

「来い!」

「どこへ?」

「決まってる。逃げるんだ!」

「いやだ!」

 わめく子どもを小脇に抱え、アシュラは走り出した。


「離せ! 俺も戦うんだ!!」

「うるさい! 黙れ!」


 我ながら、驚くべき馬鹿力だった。しかし、考えているヒマなどない。

 城門の向こうに、市民の姿が見えた。門を占拠し、立て籠もっているようだ。

 そこをめざし、一目散に走った。


「行け! 戦え!」

 アシュラの前に、人が立ちはだかった。

 女だった。はだけた胸に、乳飲み子を抱えている。

 武器は持っていなかった。アシュラは彼女を押しのけ、ひたすら走った。





 城門の中は、市民たちでごった返していた。彼らは、スイス人傭兵を追い出し、占拠に成功していた。

 だが、辺りは、惨憺たる有様だった。


 「ジャン! ジャン!」

女が泣きながら、荷馬車に凭れた男に取りすがっている。男のシャツは、血で、どす黒く汚れていた。その向こうでは、別の男が、手足を長く投げ出し、仰向けに倒れている。


 壁の上に顔を出すようにして、市民たちが銃で応戦していた。


 「離せよ!」

アシュラの腕の中で、ガブリエルが身を捩った。

「俺は、フランスの自由の為に戦う」

「だって、お前、武器もないのに、」

「武器なら、ある!」

ガブリエルは、倒れている男の手から、三色旗をもぎ取った。

「勝手にしろ!」

 アシュラは毒づいた。


 そもそも、自分がなぜ、この小僧を助けたか、不明だった。

 つい昨日まで子どもだったアシュラは、別の子どもの為に、自分を犠牲にしようとは思わない。

 それも知り合ったばかりの、薄汚い小僧っ子を。

 ただ、体が勝手に動いてしまっただけだ。


 アシュラは溜息をついて、辺りを見回した。とにかく一刻も早く、ここから離れなければいけない。


 そこは、まさに、愁嘆場だった。

 大勢の市民が、傷を負い、倒れている。血の匂いが、濃厚に満ちあふれていた。

 だが、何よりも恐ろしかったのは、倒れている者たちの中に、裸や下着姿の者がいることだった。

 同胞の死体から、衣服や所持品を奪い取っていった輩がいる……。


 さっさと逃げ出そうと、アシュラは思った。フランスも、フランス人も、大嫌いだった。

 とっとと、おさらばしたい。

 スイス人の傭兵達は、外国人だけあって、逃げ足が早かった。彼らを見習おうと思った。


 その時、歌声がした。

 「ラ・マルセイエーズ」だ。

 擁壁の上に、ガブリエルが立っていた。三色旗を振り回し、彼は、力の限り、「ラ・マルセイエーズ」を歌っていた。


「あんな目立つものを!」

 青、白、赤の三色旗は、とにかく目立つ。


 銃声が轟いた。


 歌声が途切れた。

 ガブリエルの体が崩折れた。





 「宮殿、陥落!」

「ルーブル宮が、陥落したぞ!」

歓声が轟いた。


 アシュラは、ガブリエルを背負い、宮殿の中を、がむしゃらに突き進んでいた。

「医者は! 医者はいないか!」

叫びながら、ごった返す市民たちの中を、進んでいく。


 背中のガブリエルは静かだった。ぴくりとも動く気配が感じられない。生暖かい血の感触が、背中に張り付いている。


 ……急がなくては。

 ……手遅れになる前に。


 「こっちだ、アシュラ!」

誰かが、名を呼んだ。

 エミールだった。傍らに、ユゴーの姿もあった。


「無事だったか、アシュラ。我々はついに王宮を奪い……」

エミールの声が途絶えた。

「それは……ガブリエルか?」


「医者を!」

アシュラは繰り返した。

 エミールの体に触れ、エミールは静かに首を横に降った。アシュラの全身から、力が抜けた。



 ひどく立派な広間だった。

 磨きたてられた床が輝き、天井には、壮大な絵が描かれている。


 中央に集まっていた人々が、さっと割れた。

 そこには、座面の広い、赤いビロード張りの王座が置かれていた。


「ここに」

 王座の前にいた、若い男が言った。アシュラの知らない男だ。

「この子は、革命の為に戦って、死んだのだ。この子こそが、王座に座るべきだ」

男は言った。


 吸い寄せられるように、アシュラは、王座に近づいた。金の脚で支えられたビロードに背を向けて跪き、恐ろしい背中の重荷を、下ろした。


「かわいそうに。彼の母親は、どんなに嘆くだろう……」

若い男がつぶやいた。

「その子に、母親はいないよ」

答えたのは、ユゴーだった。

「母親のいない子どもなんて、いるもんか!」

奮然と、若い男が言い返す。


 ユゴーは肩を竦めた。

「強いて言うなら、彼の母親は、パリの街だ。この子は、浮浪児なんだよ」

「だから、俺は、ガブリエルを連れてきた。パリの為に戦うことが、この子の運命を上向けると信じて……」

エミールがつぶやいた。血を吐くような声だった。


 かつて、大勢のルイやシャルルが座った王座に、今、命を失ったガブリエルが、凭れ掛かっていた。

 最後まで、三色旗を振り回し、「ラ・マルセイエーズ」を歌っていたガブリエルが。


 「王座の上で死ぬのが、この子の運命だったんだ。なんと数奇な宿命だろう」

若い男が口にした。


 低い声で、アシュラは、吐き捨てた。

「王座というものは、木枠に繻子しゅすを貼り付けた、玩具に過ぎないんじゃなかったのか?」

「それは、ナポレオンの……」

言いかけたユゴーを遮り、エミールが名を呼んだ。

「アシュラ……」


 きっ、と、アシュラは振り返った。

「なあ、エミール。ユゴー。君らは、本当に、この椅子に、を座らせたいのか? 子どもガブリエルの血で汚れた、この椅子に?」


 誰も答えなかった。

 静まり返った死の部屋から、アシュラは、外へと出ていった。








王座の前にいた若い男は、名前を、アンデルセンといいます。

「絵のない絵本」第5夜は、1830年のフランス7月革命を題材に書かれたものです。



また、有名なドラクロワの『民衆を導く自由の女神』も、この7月革命を描いたものです。

(「民衆を導く自由の女神」で検索いただくと、wikiのページが出てきます)



なお、実在する作家、ヴィクトル・ユゴーは、この時期「日和っていた」ので、実際には、7月革命には、参加していなかったと思われます。

しかし、後に記しますように、彼が、ナポレオン2世擁立派であったことは、間違いありません。



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