7月革命―②悪意ある噂
……なぜ自分は、革命下のフランスで、敷石を剥がしているのか。
……しかも、子どもの監視つきで。
考えれば考えるほど、わけがわからなかった。照りつける夏の日差しが、一層、思考を奪う。
もくもくと手を動かしていると、手元が翳った。
女の子が、覗き込んでいた。
「案外、やるじゃない」
彼女はつぶやいた。
「コルネイユは、敷石を、割っちゃうの」
コルネイユが誰かわからないが、とりあえず、褒められたようだった。
「まず、四隅を剥がすんだ。それから、辺の漆喰をひとつ、丁寧に剥がす。そこへのみを差し込み、一気に持ち上げる」
アシュラは実演してみせた。
「な。のみの平らな部分を利用するんだ」
女の子は、真似てみた。
途中までうまく言ったのだが、最後に剥がし取るところで、敷石は、やはり割れてしまった。
女の子は、癇癪を起こした。石を持ち上げ、地面に叩きつける。
「いいもん! 割れたって、いいいもん! ヴァレリーに、漆喰に混ぜてもらうから、いんだもん!」
「力が足りないからだな」
細かく跳ねる破片を避けながら、アシュラはつぶやいた。
こんな子どもまで、「革命」に参加しているとは。
「見ろよ、おい! 拳銃を手に入れたぜ!
嬉しげな声が聞こえた。
ぎょっとして目を上げると、さっきの小僧が、旧式の銃を振り回していた。
「危ないじゃないか」
思わず叫んだ。
「危なくなんかないぜ。俺は、前に使ったことがある。これで、王党派の奴らを、皆殺しにしてやるんだ!」
「すごい!」
「見せて!」
わらわらと、子どもたちが集まってくる。
……暴発したらどうするつもりだ?
アシュラは、気が気ではなかった。
「ここにいたのか、アシュラ」
エミールが戻ってきた。
「我々は今から、ルーブルへ向かう。もちろん、君も来るだろう?」
「もちろん!」
「行くぞ!」
元気に答えたのは、子どもたちだった。
エミールは、彼らに、優しく微笑みかけた。
「君らには、後方支援を頼みたい」
「後方支援って、また、要塞に残るんかい?」
小僧が不満そうな声を出した。
「そんなの、いやだ。おれは、ガムランに拳銃を貰った。あんたらと一緒に、戦える!」
「それなら、よし、ガブリエル、お前は来い。だが、後のやつらは、留守番だ!」
「いやよ! ガブリエルが行くなら、私だって!」
「おれも!」
「おいらも!」
「みんな!」
エミールは言った。
真剣な目をしていた。
「みんなにもわかるだろう? 敵の軍隊を寸断することが、勝敗を左右する。この要塞は、ルーブルからの大通りを封鎖するものだ。我々の戦闘を、より容易にする為に、同志諸君の活躍は、不可欠なものなのだ」
「……」
「諸君はここで、敵を寸断してくれ。わかったな」
「わかった!」
子どもたちは、一斉に叫んだ。
あちこちのバリケードから、市民たちが出てくる。
角帽を被った、学生。
日々の労働で鍛えられた強靭な肉体に、みすぼらしい服を着た、労働者。
地味なフロック姿の男は、ブルジョワジーか。
街角ごとに、市民たちは、合流していく。
銃剣を持つもの、拳銃を振り回すもの。一人ひとりが、武器を携えている。夏の日差しの下で、長い銃剣がぎらりと光った。
群衆の上で、幾つもの三色旗が揺れている。
「
武器を取れ
市民たちよ!
」
歌声が湧き出てきた。
ラ・マルセイエーズである。
「君は歌わないのか」
隣を歩いていたエミールが尋ねた。
アシュラは肩を竦めた。
ウィーンでは、この歌を歌っただけで、逮捕される。秘密警察に属するアシュラは、逮捕する側の人間だった。
「歌っているふりだけでもしろ!」
小声で、エミールは命じた。
「自由主義、万歳!」
誰かが叫んだ。
大勢が、それに唱和する。
「ブルボンを倒せ!」
この叫びは、熱狂的に受け容れられた。
「自由主義、万歳!」
「打倒、ブルボン!」
口々に叫びながら、人々は行進していく。
その叫び声が聞こえたのは、ルーブル宮まで、あとわずかに迫った時だった。
「ナポレオン2世、万歳!」
アシュラとエミールは、はっと、顔を見合わせた。
「ナポレオン2世、ばんざい!」
誰かが、唱和した。
「ナポレオン2世……」
ぱらぱらと、エールが続く。
だが、叫び声は、広がっていかない。
「ブルボン王朝を倒せ!」
「自由を我らが手に!」
再び、自由と王朝打倒が取って代わる。
エミールが、ちらりとアシュラの顔を見た。
「ナポレオン2世、ばんざーーーーーい!」
渾身の力をこめ、叫ぶ。
「……、……」
アシュラは、叫ばなかった。
「ナポレオン2世、ばんざーーーーーい!」
エミールが、再び、叫んだ。
「ナポレオン!」
「ナポレオン、ナポレオン!」
続くのは、彼の父を呼ぶ声ばかりだ。
「ナポレオン2世、ばんざーーーーーい!」
エミールが絶叫する。
「ナポレオン! ナポレオン!」
「ナポレオン・ボナパルト!」
「フランス帝国、皇帝ナポレオン!」
「違う! 2世だ!」
誰かが叫んだ。
「
「ユゴー!」
すっかり掠れた声で、エミールがその名を呼んだ。
「来てたのか。あんたが、他の詩人の詩を引き合いに出すなんて!」
「Le Fils de l’Homme」は、去年の夏、パリで出版された、バーセレミーの詩集だ。
ウィーンを訪れ、フランソワの姿を垣間見たバーセレミーの詩は、パリに、爆弾を落としたような衝撃を与えた。
「誰の詩か、なんて、そんなこと、言ってる場合じゃないだろ!」
ユゴーが叫び返した。
「久しぶりだな、アシュラ。だが、挨拶は、後だ」
息を大きく吸い、彼は叫んだ。
「ナポレオン2世、ばんざーーい!」
その声は、低く、だが、よく響いて、民衆の上に轟いた。
「ナポレオン2世!」
「ナポレオン2世、万歳!」
声が、次々と広がっていく。
「ナポレオン2世、ばんざーーーーーい!」
声を枯らし、エミールも叫び続ける。
「ナポレオン2世、万歳!」
「ナポレオン2世、万歳!」
フランソワを呼ぶ声が、パリの街にこだました。
彼のいない、パリの街に。
「……」
無言で、アシュラは歯を食いしばった。
「ナポレオン2世、万歳!」
エミールが叫ぶ。
「ナポレオン2世、万歳!」
ユゴーが唱和する。
「くそっ!」
アシュラは吐き捨てた。
きっと顔を上げた。
「フランソワ、万歳!」
エミールがアシュラの顔を覗き込んだ。ユゴーが微笑む。
「ナポレオン2世、万歳!」
アシュラの声を掻き消すように、二人は同時に叫んだ。
「フランソワ、万歳!」
やけくそのように、アシュラも叫ぶ。
「フランソワ、万歳!」
「ナポレオン2世、万歳! ローマ王、万歳!」
エミールとユゴーが同時に叫ぶ。
「ナポレオン2世……」
「2世……ローマ王?」
「ナポレオン2世、万歳!」
群衆の声が、後を追いかけた。
*
「ナポレオン2世の名は、コールされているか?」
ナポレオンのかつての部下、グルゴー将軍宅で、居合わせた将校の一人が尋ねた。
「いえ、聞こえません」
窓際にいた部下が答える。
「そんなはずはない。フランス帝国唯一の、正統な跡継ぎだぞ、あの方は」
グルゴーが吠えた。
「少しは、その名も、呼ばれているようだ」
遅れて入ってきた将校が言った。禿げ上がった頭を、赤いチーフで拭う。
「だが、民衆が今、一番、熱心なのは、ブルボン王朝を倒すことだ。打倒ブルボン! 誰がつぎの王になるかまで、連中の頭は、回っておらんな」
「何を言う。ナポレオン2世こそ、この国の、希望の星ではないか」
「しかし、我々は、彼について、何を知っているのだ?」
白ひげの将軍が口を挟んだ。
「子どもの頃のローマ王ではない。今、ウィーンにいるライヒシュタット公について、我々は、何を知っているのか」
将軍たちは、顔を見合わせた。
ライヒシュタット公は、ウィーンの
「そのことだが。実は、気になる噂を聞いた」
元将軍が口を挟んだ。杖を頼りに、よろよろと立ち上がろうとする。
「気なる噂?」
「グルゴー。君は、幼い頃の、ローマ王を覚えているか?」
「金色の髪に、青い目、お可愛らしい王子だったぞ」
「そうではなく、中身のことだ」
「中身?」
「確か、
宮殿衛兵だった、元兵士が、つぶやいた。
記憶を探るように、一同、首を捻った。
「うむ。俺も確か、そのようなことを、聞いた覚えがある」
別の一人がつぶやいた。
「皇妃は、
「オーストリア皇帝の長男も、お
揶揄するように、誰かが言った。
グルゴーは苛立った。
「言葉が遅いというのは、よくあることだろう。ローマ王は、パリを離れる頃には、ぺらぺらしゃべっていなかったか?」
「グルゴー。君は、ローマ王としゃべったことがあるか?」
杖にすがった老将軍が、重ねて尋ねた。
「そんなまどろっこしいことができるか。俺は、自分の息子とも喋ったことがないんだぞ。彼が
グルゴーが答えると、杖の老人は、声を張り上げた。
「誰か、ローマ王が、ちゃんと話しているところを見たことがある者はいるか?」
「うーん。よく覚えていないな」
「儂も、記憶にない」
「俺もだ」
ロシア遠征を皮切りに、戦争に明け暮れていた頃だ。凋落し始めた帝国を、必死に支えていた将軍たちには、細かな記憶は抜け落ちていた。
「言葉が遅かったとして、それが、何だと言うのだ?」
しびれを切らして、グルゴーが吠えた。
「この革命は、ナポレオン2世を担ぎ出す、絶好の機会なんだぞ。時間は限られている。言葉が遅いなどという些事に、かかずらわっている場合ではない!」
「儂が巷で聞いた噂では」
杖の老人は、俯いた。
絞り出すような声で続ける。
「ライヒシュタット公には、発達上の問題がある、ということだ。どうやら彼は、まともな成長を遂げていないらしい。それも、……精神の」
「……」
集まった一同は、絶句した。
「嘘だ!」
古くから続く貴族出身の軍人が、叫んだ。
「私は、実際に、ローマ王と話したことがある。彼は、私を、『ワンダフル・アナトール』と呼んでくれて……」
「それならなぜ、オーストリア大使館は、この噂を否定しないのだ?」
立派な身なりの軍人が遮った。
パドヴァ公爵だ。頑固なナポレオン派の彼は、フランスを追放されていた。だが、10年前に、恩赦で帰国を許された。
「ライヒシュタット公に、発達上の問題があるという噂……。許し難い侮辱だ。私は、何度も、オーストリア大使館に足を運んで、噂を否定するよう、要請した。アポニー大使にも、直接会って、話をした。だが、大使は、決して、噂を否定しなかった」
「大使館が、否定しない?」
「オーストリア皇帝の孫だろう? ローマ王は。普通なら、立腹して、否定してくるはずだ」
「外交問題にも発展しかねないからな」
「それなのに、オーストリア大使は、否定しようとしない……」
集まった軍人たちは、顔を見合わせた。
……。
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