7月革命―④バロネスの怒り
「ルーブル、陥落!」
飛び込んできた兵士が叫んだ。
「パリ市庁舎も、間もなく市民に明け渡される模様です!」
「おお……」
グルゴー将軍邸にどよめきが走った。
「チャンスだ! 神が与え給うた、最大のチャンスだ!」
「ついにこの時が来た。フランス帝国の復活を! ナポレオン、万歳!」
「だが……」
ナポレオンの元部下達は、顔を見合わせた。
「だが、我々は、誰を担ぎ出せばいいのだ?」
「フランス帝国を継ぐものは、誰だ?」
「ナポレオン2世しか、おらんだろう!」
声を励まし、グルゴーが叫んだ。
「オーストリアに、彼の解放を、要求するのだ!」
「彼は、頭がまともでないのだろう?」
元将軍の一人がつぶやいた。
「我々も、皆、
「頭が弱い王を担ぐのではなあ……」
「いかに、
その時、入り口のドアが、ばん、と開いた。
「かっ、……母さん……」
ワンダフル・アナトール。
若き日に、そう呼ばれていたアナトール・モンテスキューが、愕然として、つぶやいた。
「邸でじっとしていて下さいと、あれほどお願いしたではありませんか……」
ドアの前には、美しい白髪の老婦人が、毅然として佇んでいた。
「ローマ王は、非常に聡明で、賢い子どもでした。彼がその後、どんなに歪んだ教育を受けさせられたとしても、その賢さまでを打ち消すことは、できません。不可能です! 彼から、聡明さと、勇気と、フランスへの愛を、打ち消すことは!」
モンテスキュー伯爵夫人だった。
かつて、ローマ王の養育係だった、……そして、彼についてウィーンまで行き、追い返された……、「ママ・キュー」だ。
「ローマ王の明晰な思考は、彼の性質の素直さから来るものです。いうなれば、彼の本質そのものです。それを冒涜するような言動は、この私が、許しません!」
「だが、儂は聞いた」
杖の老人が、よろよろと立ち上がろうとした。よろめき、椅子に腰を落とした。
「ローマ王は、死んで生まれたそうじゃないか。呼吸ができずに、空気が頭に回らない。そうして、脳が破壊されるのは、よくあること」
「誰がそのようなことを!」
「許しません! さあ! その者を、ここへ! この私が、撃ち殺してくれよう」
杖の軍人も、負けてはいなかった。
「出産後の7分間の仮死状態は、本当だった。儂は、デュボワ産科医から、聞いたことがある」
刺し殺さんばかりの視線で、モンテスキュー伯爵夫人は、老人を
「コルヴィサール医師が、完璧に蘇生させました! ご出産に立ち会ったこの私が言うのです。神に誓って、間違いありません!」
「だが……」
杖の老人は、たじろいだ。
「だが、皇妃は、彼の言葉が遅いと、悩んでいたそうではないか」
「あなた方、戦争狂いの男どもに、何がわかるというのです! 子どもの言葉が遅いのは、完全に満たされていた証! ローマ王は、2歳になった途端、それはそれは、饒舌におしゃべりされていましたよ!」
「……」
一同、しんと静まり返った。
モンテスキュー伯爵夫人は、肩を大きく上下させている。
「母さん」
アナトールが立ち上がった。
優しく、老母の肩を抱く。
「もうわかった。わかったから……帰ろう」
「いいえ! 貴方はちっともわかっていません。貴方がた、男どもは……」
「母さんっ!」
「アナトール」
グルゴー将軍が口を出した。心配を装った口調で命じた。
「街は今、騒然としている。ご母堂お一人では危険だ。送っていって差し上げ給え」
「はい」
モンテスキュー伯爵夫人は、きっと顔を上げた。
「とにかく、ローマ王を貶める輩は、この私が容赦しません。その場で、八つ裂きにしてくれる。よろしいか。将軍らも、しかと、お心に留めおかれるよう!」
叫ぶように言うと、傲然と頭をもたげ、部屋から出ていった。
アナトールが慌てて、その後を追う。
「しかしなあ。我々は、今のローマ王を知らないし」
モンテスキュー母子が出ていくと、再び、ナポレオンの部下たちは話し合い始めた。
「彼の、思想信条とか。受けてきた教育とか」
「顔や容姿さえも、な」
「一方で、メッテルニヒと組んでいれば、得るものも多かろう?」
「オーストリアを、敵に回したくない。失うものが、多すぎる」
「我々も、
「私は、決して、今のフランスへ、ローマ王をお迎えしたいわけじゃないのよ」
息子に助けられて馬車に乗ると……それは、がたがた揺れる、みすぼらしい乗り合い馬車だった。普段使っている馬車は、襲撃される恐れがあって、使えないのだ……、モンテスキュー伯爵夫人はつぶやいた。
「こんな争乱の場へ。狂ったような民衆の、ただ中へ! ……頼りになる廷臣もいないというのに」
両手で顔を覆った。
「ナポレオン……。ナポレオン・フランソワ……。神よ。どうか、その名が、彼に、不幸を齎すことのないように……」
アナトールは優しく、母の背をさすった。
*
1830年、7月27日から29日までの3日間の、いわゆる「栄光の3日間」、フランス7月革命は、市民側の勝利に終わった。
シャルル10世は退位した。ブルボン一家は、アメリカの定期船「大英帝国」号他に分乗し、イギリスへ亡命した。
フランスでは、革命の指導者として、77歳のラ・ファイエット将軍が担ぎ出された。彼は、アメリカ独立戦争に参加し、フランス人権宣言を起草した、革命の、象徴的な存在だ。
だが実際に、王座についたのは、オルレアン公、ルイ・フィリップだった。
オルレアン家は、ブルボン家の支流である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます