オルタンスの息子たち 1
足早に歩くアシュラの横に、女性が追いついた。
薄汚れた色合いのエプロンをし、灰色のボンネットを被っている。年の頃合いは、母親くらいの年代だろうか。
そんなにグズグズ歩いていたか、と、アシュラはむっとした。彼は、できる限りの早足だったのだ。
「アシュラ・シャイタンね」
横に並び、女性は言った。
ぎょっとして、アシュラは立ち止まった。
女性は、いたずらをしてきたように、生き生きとした表情をしている。
その顔が、びっくりするほど色白で、皺が少ないことに、アシュラは気がついた。
庶民の女などではない。
「もう少し先で、息子が、馬車で待っているの。そこまで、エスコートをお願いするわ」
「貴女は……」
「オルタンス・ド・ボアルネ」
「オルタンス……」
ナポレオンの養女だ。
アシュラは息を呑んだ。
「
スイスの居城から、来たのだ、と、オルタンスは言った。
二人は、並んで、てくてくと歩いていた。彼女が健脚なのに、アシュラは驚いた。
「わざわざスイスから、何しに来てたんですか?」
不審に思い、彼は尋ねた。
「さあ? 旅行かしら」
悪びれることなく、オルタンスが答える。
「そしたら、革命が起こっちゃってね」
「貴女は、フランスには入国できないはずだ」
ナポレオンの一族は、フランスから追放されている。身元が知れたら、大変なことになる。
「大丈夫よ。偽造旅券で来たから。お金さえ出せば、できないことなんて、ないのよ。それが、市民社会というものなの。そういう世の中になったの」
「しかし!」
「そう言えば、あなた、秘密警察官だったわね。でも、固いことは言いっこなしよ。
グラン・サコネは、スイスとフランスの国境の街だ。
ナイペルクを亡くしたマリー・ルイーゼは、この町で、保養をしていた。
かつてのフランス皇妃の滞在ということで、フランス側の地元知事は、パリに早馬を走らせた。しかし、パリでは、気にも留めなかった。
「私も、過去の人だから」
「グラン・サコネは、フランス領じゃない。それに、貴女は、過去の人なんかじゃないでしょう?」
こんな時に、フランスにいるのだ。どうして、過去の人などと言えよう。
だが、オルタンスは、肩を竦めただけだった。
「あなたのことは、
イタリアで会った、ナポレオンの姪を、アシュラは思い出した。
男装の、威勢のいい女性だった。
彼女は、危険だった。エリザ・ナポレオーネ・カメラータは、ナポレオン帝国の再興を夢見ていた。ナポレオンの唯一の正統な後継者である
「ライヒシュタット公は、お元気かしら?」
「彼のことなら、貴女は、よくご存知の筈だ」
オルタンスは、ウィーン宮廷に密偵を入れていた。
子どもの頃、フランソワは、カール大公の子どもたちに、大公は、自分の父親に負けたのだ、と言ったという。
宮廷にいた人間しか、知り得ない話だ。
この逸話を、オルタンスは、知っていた。
彼女が、フランソワの身の回りに、密偵を配備していたとしか、考えられない。
だが今回も、オルタンスは、肩を竦めただけだった。
「エリザ・ナポレオーネは、ニセの肖像画を掴まされたと怒っていたわ。それも、
「多分、画家が勝手にやったのでしょう」
アシュラは即答した。
「彼は、人を騙すようなことは、絶対にしません」
「惚れ込んでいるわね」
「いいえ! 事実ですから!」
「なぜ怒るの? 身の回りの者に慕われるのは、君主としての器を持つ証。ナポレオンも、部下の武将たちに慕われていたわ。ただ、彼には、敵も多かった」
「そうでしょうとも」
「あなたは、ナポレオンは嫌いなのね?」
アシュラは答えなかった。
しばらく、無言で歩いた。
思い出したように、アシュラは言った。
「イタリアで、ルイに会いましたよ」
「ルイ?」
「息子さんの方です。大層、美丈夫な」
「ああ。あの子はまあ、父親っ子で……」
オルタンスは溜息をついた。
「カルボナリなんかに入って」
「彼が、次のボナパルト家の家長になるんですよね? そしてもし再び、ナポレオン人気が再燃したら、次のフランス王は……、」
「いいえ! それは、ローマ王に決まっているでしょう!」
強い口調だった。
我を忘れ、アシュラは言い返した。
「ダメです。フランスなんかに、渡すものか。それに、彼は、ローマ王なんかじゃない。ライヒシュタット公だ」
オルタンスは、いたずらっぽく笑った。
「それは、あなたの意見かしら?」
アシュラは慌てた。あまりにも、おこがましかったと、反省した。
「ライヒシュタット公は、オーストリアで、とても愛されています」
……そうだ。
……だから、エオリアだって。
……エオリア……。
ぎゅっと、アシュラは、奥歯を噛み締めた。
オルタンスは、何も気づかなかったようだ。
「彼が、オーストリアでも好かれているのは、嬉しいことだわ。この話を、あの、グルゴー将軍家に集まった人たちに聞かせてやりたかったわ!」
「グルゴー将軍?」
「役立たずの老人たちよ。いっそ、老害と言っていい。ただ……そうね。わかってる。今は、オーストリアのメッテルニヒと、ことを構えるのは、得策ではない。……状況は危機的だわ」
彼女は項垂れた。
半ばひとり言のように続ける。
「ローマ王……誰も知らない子ども、遠くにいる子ども。おそらく、来ることが許されない子ども。それに対して、ルイ・フィリップは、今、ここにいる。フランスで生まれ育ち、それなりの資質も持っている。彼の即位は、やむをえないことだと思う」
深い深いため息を付いた。
「ああ、私の長男、シャルルが生きていてくれたら!」
オルタンスと、ナポレオンの弟との間に生まれた長男シャルルは、5歳で夭折している。
「あの子が、一番、デキがよかったわ。あの子さえ、生きていてくれたら! だってあの子は……」
なにか言いかけ、オルタンスは、はっと、口を閉じた。
アシュラは、聞き逃さなかった。
「まさか! その
「……」
「ナポレオンとの間の子?」
「しっ!」
素早く、オルタンスは、アシュラの口を封じようとした。
だが、手遅れだった。
「いや、だって、それじゃ、貴女は、ナポレオンと……
諦めたように、オルタンスは、首を横に降った。
「お母様だって、了承していた。彼女に子どもができないから、私が協力したの。
オルタンスは、ナポレオンの弟ルイと結婚したその年に、最初の子シャルルを生んでいる。
そして、
「そうか……それで、ナポレオンは、当初、
ところが、その子は、5歳で夭折してしまった。数年後、ポーランドのマリア・ワレフスカが、ナポレオンの子を産む。それを機に、彼は、ジョセフィーヌと離婚し、マリー・ルイーゼとの結婚に踏み切った……。
「次男のルイは……イタリアであなたが会った……、父親の味方よ。彼は、私を嫌っている」
力なく、オルタンスが嘆いた。
ちなみに、「ルイ」という名は、父と次男、同じ名前だ。二人はイタリアで、共に活動している。
アシュラは、少し、気の毒になった。
「長男が死んで、次男に嫌われたって、貴女には、もうひとり、三男がいるでしょう?」
きっとその子が、国境で、馬車で待っているのだろうと、アシュラは思った。
一番上は夭折してしまったが、まだ、2人の子がいる。たとえ、次男のルイが、母に寄り付かなくても、三男が……。
「あの子は、ダメ! 絶対!」
あまりに苛烈な反応に、アシュラは驚いた。
「あの子は! あの子だけには、ナポレオン帝国を、継がせられない!」
「継がせられない?」
不思議な言い方だと、アシュラは思った。
まるで、それは不可能なことだと、母親自身が、断言しているように聞こえる。
不可能な……あるいは、そうしてはいけないことだと断言するかのように。
「私を嫌っているけど、ナポレオン帝国の継承は、次男のルイに任せるしかない。それなのに、カルボナリなんかに参加して。もし、ルイに何かあったら……」
暗い目で、アシュラを見た。
「だから、私はどうしても、ローマ王を諦めるわけにはいかないの」
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