ルイ・ボナパルトの愛情
「おい、聞いたか? チビナポが、死にかけてるぞ」
「ああ、結核だそうだな」
イタリア、ベネティアの酒場。
昼間から、数人の男たちが、管を巻いている。
いずれも、職にあぶれた労働者たちだ。多すぎる時間を、こうして、顔見知りとのおしゃべりに費やしている。
「気の毒になあ。ナポレオンの息子も。全てを持って生まれてきたのに、なにひとつ、意味のあることはさせてもらえなかった。人前に姿を現すことさえ、許されなかった」
「だがよ。ウィーン政府は、ローマ王が結核だなんて、一言も言ってないぜ?」
「秘密なんだろ」
「なぜ秘密にする?」
「知るかよ。いずれにしろ、彼は、郊外の宮殿に隔離されたらしいぜ。医者がひっきりになしに通ってる」
「医者か……。皇帝の孫だもんな。さぞや優秀なお医者先生なんだろうな」
「優秀も優秀だ。あの、マルファッティ先生だ。イタリアが産んだ名医……」
がたんと、椅子の音がした。
酒場の隅で一人で飲んでいた男が立ち上がった。五〇がらみの、陰気な男だ。
男は、無責任に騒いでいる酔っぱらいたちには、目もくれなかった。
無言で勘定を済ませ、立ち去った。
華やかなフィレンツェの、寂れた裏通りを、男は、早足で歩いていた。
彼の名は、ルイ・ボナパルト。
ナポレオンの弟だ。かつてのオランダ王でもある。
カルボナリに参加して、昨年亡くなったナポレオン・ルイ、そしてその弟のシャルル・ルイ(後のナポレオン3世)は、彼の息子たちである。既に離婚しているが、オルタンスは、かつての妻だ。
さかんに活動してた
彼は、ボナパルト一族では珍しく、悲観的で内向的な男だった。ナポレオン帝国の復興など、夢物語だと、親族の、活動への誘いを斥けてきた。
それでもルイは、
純粋に、肉親の情からだった。
だが。
……帝国再建が幻である以上、甥に、残酷な希望を与えたくない。
そんな気持ちから、彼は、甥との接触を、思い留まっていた。
じめじめした裏通りを歩きながら、ルイは唇を噛んだ。
……結核。
……一歩間違えれば、大変なことになる。それなのに、主治医が、あのマルファッティとは!
彼は、マルファッティを知っていた。まだ若かった頃、イタリアで、今は亡き姉のエリザとともに、彼の診療を受けたことがあったからだ。(※1)
……マルファッティの診療は、信用できない。彼の処方する薬は、糖をまぶした粒に過ぎない。ちっとも効かない。
特に、
施術を受け、姉のエリザは、なんだか治ったような気がする、と喜んでいた。マルファッティの治療を信じ、他の医師が勧める療法を、いっさい跳ねのけた。
しかし、少しすると、すぐに、病がぶり返した。しかも、治療されなかった分、重い症状となっていた。
あれは、騙しのテクニックだったとさえ、ルイは思っている。名医の評判を聞き、患者は、治ったような気になる。そして、当然施されるべき治療から遠ざけられてしまう。自分は治ったと信じているから、他の医師の意見を求めようとさえしない。
結果、病は密かに進行し、再び症状を自覚した時には、すでに手遅れになっている。
実際に、この磁気療法に関して、かつてマルファッティは、裁判沙汰にも巻き込まれている。
ルイ・ボナパルトにとって、マルファッティは、最も優しい表現をしても、ヤブ医者だった。
その、ヤブでインチキな医者が、大切な甥の主治医だとは!
ルイはもう、じっとしていられなくなった。
家に帰り着くなり、ペンとインクを取り出し、手紙を書き始めた。
……決して、医師に身を任せてはいけない。
彼は、警告を発した。
そして、自然環境による治療を推奨し、自然に過ごすべきだと書き添えた。
……結核に対する民間療法として、新鮮な空気を取り入れることは、転地療法に継いで大切だとされています。
マルファッティが、民間療法など馬鹿にしきっていることを、ルイ・ボナパルトは知っていた。
ルイの危惧は正しかった。マルファッティは、民間療法どころか、患者が結核であることさえ、認めていない。
家族が、友人が、この病に罹った知恵から、民間では、新鮮な空気は、何より大切と伝わっていた。
病室の窓は、なるべく開けるべきとされた。外気に触れるという意味で、乗馬さえも、是とされていた。
また、できるだけ心労や憂鬱を避け、明るい気分でいるように努めること。
そうしたことを、ルイは、細々と書き記した。
それは、心のこもった、長い手紙になった。(※3)
……さて、これをどうしよう。
相手は、オーストリア皇帝の孫だ。普通に出して、届くものではない。
だいぶ緩んだとはいえ、ルイ・ボナパルトには、秘密警察の監視がついていた。手紙は、間違いなく、途中で没収されるだろう。
どうしたらいいか。
ルイ・ボナパルトには、考えがあった。
*
……前にも、こんなことがあったな。
オーストリア皇帝の古くからの重臣、ザウラウ・在トスカーナ大使は思った。
7月革命直後のことだ。
ナポレオンの上の弟、リュシアンが、やはりこうして、
……あの時は、メッテルニヒを困らせるのが楽しかったな。
リュシアンは、精力的に手紙を書く男だった。口では諦めたようなことを言いながら、ナポレオン帝国再興に、意欲を燃やしていた。
ナポレオンの弟から、甥に会わせろとの手紙を何通も届けられ、メッテルニヒは、相当、いらいらしていたらしい。ウィーンの子飼いの部下が知らせてきた。
ザウラウは、呵々大笑して喜んだものだ。(※4)
……だが、
今まで沈黙を守っていたのが、なによりの証拠だ。
とはいえ、同時にザウラウは、甥を思う肉親の情に打たれた。
密かに報告を受けたところによると、ライヒシュタット公には、もう回復の見込みがないという。
それなら。
……父方の肉親の、優しい情に触れることは、彼の最後の慰めになるのではあるまいか。
いずれにしろ、もはや、ライヒシュタット公に、国家転覆の力があるとは思えない。
「よろしい。私が責任をもって、お届けしましょう」
ザウラウは頷いた。
オーストリア大使の寛大さに胸を打たれ、ルイ・ボナパルトは喜んで帰っていった。
「酒を」
客の姿が見えなくなると、ザウラウは、侍従を呼んだ。
「いけません」
生意気な付き人は、主の命令を、ぴしゃりと断った。
「いけないなどと言うやつがあるか。酒をもってこい。早く!」
「ですが、お酒はダメだと、医者に止められたではありませんか」
大きな声では言えないが、これが、
ザウラウの主治医は、こともあろうに、彼に、禁酒を命じたのだ。
確かに、ここのところ、胃が重く、吐き気やめまいに襲われることが増えてはいたが。
しかし、酒を禁じるとは何事か。
自分の主治医を、ひいては、世界中の医者を、ザウラウは呪った。
甥への手紙で、ルイは、医者を信じるなと書いたという。
なんと立派な意見であろう。
シェーンブルンで療養中の若きプリンスへ、是非、届けなければならぬ、貴重な意見だと、ザウラウは確信した。
「年寄の楽しみを奪うやつは、地獄に堕ちるぞ。いいから持ってこい!」
イタリアにいながら、酒も女も楽しまないなどとは、ザウラウには考えられなかった。
それではまるで、彼の
70歳を過ぎたザウラウに、さすがに女はきつかったが、酒なら、まだ、いくらでもいける。
酒蔵には、上等な酒が溜め込まれていた。あのメッテルニヒが、遅ればせながら、悔恨と、そして、それを上回る敬意……
勝利の美酒を飲み干さずに死ぬつもりは、ザウラウには、毛頭、なかった。
。*⌒*。*゚*⌒*゚*。*⌒*。*゚*⌒*゚*。
※1
今は亡き姉のエリザ
エリザ・ナポレオーネの母です。マルファッティと、エリザとルイ姉弟の接触は、6章「(承前)マルファッティの診断」を、ご参照下さい。
※2 メスリズム
体内の動物磁気の流れを正常にすることを目的に、催眠術を使って、病気が治ったと思わせる療法です。大真面目に施されてはいましたが、当然、治療効果はありません。インチキだという人さえいます。メスリズムは、また、出てきます。
※3
ルイ・ボナパルトの書いた手紙は、5月23日付けでした。ライヒシュタット公がシェーンブルン宮殿で静養を始めた、翌日です。手紙の内容は、マルファッティへの言及以外は、全て、本当です。
フィレンツェの大使館で、この手紙は、なかったものとして葬られました。資料にあった手紙は、たぶん、ルイ・ボナパルトの残した控えだと思います。
※4
リュシアンとザウラウのからみは、8章「ザウラウの意趣返し」を、ご参照下さい。
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