11 花咲く緑のシェーンブルン

ゾフィー、優しい美の天使


 シェーンブルン宮殿では、ゾフィーが待ち受けていた。

 宮殿左翼1階にある自分の居室を、ゾフィーは、フランソワに譲り渡した。


 部屋のバルコニーから、直接、庭へ下りることができた。5月のこの時期、整えられた花壇には、花が咲き乱れていた。


 また、室内からも、澄み渡った青い空を背景に、グロリエッテ(シェーンブルン宮殿にある、ギリシア風の建造物)を望むことができる。そして、何よりここは、かつてナポレオンが、使った部屋だった。


 アウステルリッツの戦勝の後。そして、ワグラムでの勝利の後で。

(※1章、またはサイドストーリー「カール大公の恋」、ご参照下さい)


 この部屋の隣の、「漆の間」を、ナポレオンは、書斎として使っていた。「漆の間」も、フランソワが使えるように、整えられていた。




 部屋に入ったフランソワは、部屋の真ん中に、座り心地の良さそうな安楽椅子が置かれているのに気がついた。

 ゾフィーが、家具職人に特注して、作らせたものだ。


「ありがとう。ゾフィー。愛らしく優しい、君は、美の天使だよ」

掠れた声で、フランソワは礼を述べた。


「絶対に良くなるのよ」

わざと高圧的に、ゾフィーは言った。

「そして、フランツ・ヨーゼフだけじゃなくて、お腹の子にも、会ってあげて」


 複雑な顔で、フランソワは微笑んだ。



 ……「私は、ひどく悪いのです。来て下さいと、お母様に伝えて下さい」

 ここへ来る前、プリンスは、ディートリヒシュタイン伯爵に頼んだという。

 ……「プリンスは、お母様に会いさえすれば、もちなおす筈です。今までずっと、そうでしたから!」

 鼻の頭を真っ赤にして、ディートリヒシュタインは、ゾフィーに訴えた。


 パルマのマリー・ルイーゼ義姉から、こちらへ向かうという連絡は、まだ、ない。


 お産の主席医師でもあるマルファッティを、ゾフィーは信頼していた。フランツ・ヨーゼフや、今お腹にいる子を懐妊できたのは、彼がイシュルの温泉を薦めてくれたからだ。


 けれど、フランソワは、あまりにやつれていた。そして、ひどく悲しげだった。



「フランツル……」

 ゾフィーは、たまらない気持ちになった。

 フランソワは、素早く、ゾフィーの不安を読み取ったようだ。

「そんな顔、しないで、ゾフィー」


 ぎくしゃくと立ち上がり、彼女の手を取った。それだけの動作が、ひどく辛そうだ。


「君を悲しませたら、僕は、極悪人だ。あのね、ゾフィー。僕は、それほど悪くないよ。ここシェーンブルンへ来たのは、政府の陰謀さ」

「陰謀?」

思いがけない言葉に、ゾフィーは一瞬、悲しみを忘れた。


 しかつめらしい顔で、フランソワは頷いた。

「そう。例によって、情報を遮断させるためだよ。街では、あることないこと、言われているに違いないからね。きっとどこかの国の陰謀が……」


 街で囁かれているのは、ライヒシュタット公重病説だ。


「フランツル……」

 フランソワは、顔を、くしゃっとしてみせた。

「大丈夫。どこの国にも、逃げはしないさ。僕はいつだって、ここにいる。君のそばに。そうだ! もうすぐイースターだろ? 君のお勤めの手伝いをしてあげる」

「だめよ、フランツル。おとなしくしていなくちゃ」


 本当に、彼は、元気なのかもしれない。

 ゾフィーは、思った。

 そんな気がしたほど、その笑顔は、いつもどおりだった。


 優雅で優しい、包み込むような笑みだ。柔らかい微笑を浮かべ、フランソワは言った。

「お願いだ、ゾフィー。何かさせて。今度は、君のために。僕が元気だって証拠を、見せてあげるから」

 子どもの頃のように、フランソワは、ゾフィーにねだった。


 ゾフィーは、少しでも長く、フランソワと一緒にいたかった。

 この、愛する甥と。

 宮廷で苦楽を共にしてきた、「同志」と。

 いつだって、彼女を慕い、愛してくれた……。





 シェーンブルンに着いた翌日。

 フランソワは、朝の10時から、ゾフィーの、イースターの勤行を手伝った。

 その間中、彼は、以前と同じくらい、元気だった。微笑みも絶やさなかった。


 だが、部屋に戻り、ひどい高熱に襲われた。







 シェーンブルンに来てから、ライヒシュタット公は、毎日、カニンシェンバーグ(※シェーンブルン庭園内、または、近くと思われます)へ通った。そこで彼は、牛の乳のソーダ割りと、ロバの乳のソーダ割りを、交互に飲んだ。


 ミルクのソーダ割りは、マルファッティが主治医になって、最初に処方したものだ。炭酸水は、喉を強化するとされていた。


 フランソワは、2年もの間、ずっと、これを飲み続けていた。

 なにはともあれ、どうしても、声だけは、取り戻したかったからだ。

 声が出なくては、将校としての任務を果たすことができない。


 だが、すぐに、ロバのミルクは、取りやめになった。プリンスの消化に、悪影響を与えたためだ。



 夕方、日が陰ってくる時刻になると、彼は、バルコニーに出て、座った。あるいは、庭に下りる事もあった。

 だが、彼はひどく弱っていて、遠くまで歩くことはできなかった。また、助けを借りなければ、部屋に戻ってくることもできなかった。


 彼は、脚の曲がった、ロココ調のベッドを嫌った。夜になると、有名な父親ナポレオンと同じように、備え付けのキャンプ用ベッドを使った。


 暑く、厳しい夏が、始まる頃だった。


 熱と寒気さむけは、ひっきりなしに彼を遅い、あいかわらず、咳の発作も激しかった。

 だが、あいかわらず、プリンスは、一言の不調も、周囲の者には、打ち明けなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る