墓を飾る昇進
5月13日。
皇帝は孫を、ヴァーサ公の連隊の、大佐に昇進させた。
実績はない。
名ばかりの大佐だ。
つまりこの昇進は……。
フランソワにはわかっていた。
大佐は、彼の墓を飾る称号なのだ。
大佐昇進の4日後、5月17日。
悲しい微笑を浮かべ、プリンスは、ディートリヒシュタインに言った。
「僕は、ひどく悪いのです。来て下さいと、お母様に伝えて下さい」
すぐさま、ディートリヒシュタインは、ペンを執った。嗚咽を漏らしながら、マリー・ルイーゼに、息子の元へ帰ってきてくれるよう、懇願した。
どれだけ彼の病が重いかを、言葉を尽くして書き連ねた。
「
どうか、どうかお願いです、
(中略)
もし、私の言うことが信じられないのなら、どうか、陛下の信頼できる方を、ウィーンへ寄越して下さい。そして、彼の口から、プリンスの病状をお聞きになり、その上で、ご判断下さい。
」
これに対して、19日付で、マリー・ルイーゼは、返事を寄越した。
「
親愛なる伯爵、私もどんなに、ウィーンへ行きたいことでしょう。しかし、イタリアの政情は不安定で、私がパルマを離れれば、大きな批判を招くことでしょう。それに、コレラが、すぐそばまで迫ってきています。
これは、世界にかつて、例のなかったことです。一方では、ウィーンで、息子が病気に罹っています。しかし、パルマも、大変な状況にあります。君主である私が、危機的な状況にある領地を去るのが、どれほど難しいか……。
それに私は今、自分の健康状態も、旅に出れるほど思わしくないのです……。
」
矢継ぎ早に、ディートリヒシュタインは、手紙を書き送った。
5月23日、恐らく、マリー・ルイーゼの返事到着の前……。
「
包み隠さず申し上げます、陛下。プリンスは、非常に大きな危機に瀕しております。苦痛が俄に大きくなっています。病は、急速に進行しています。
」
それでも、マリー・ルイーゼは、ウィーンの息子の元へと、駆けつけようとしなかった。
*
ディートリヒシュタインが、プリンスの危機を知らせる手紙を書いた前日、5月22日。
閉ざされた馬車が、ホーフブルク宮殿から、郊外のシェーンブルン宮殿へ向けて出発した。
ウィーンの街を走り去っていく馬車を見た人々は、あの美しいプリンスは、もう二度と帰ってこないのだ、と囁きあった。
この悲しい道行きを、フランス大使のメゾンも見送っていた。同じ日のうちに、メゾン大使は、知人に書き送った。(※)
「
彼はまるで、儚い影のようでした。生命の兆しの消え失せた、ただその憂愁のみが、もうあと少しだけ、地上に留まっている、まるで、影のようでした。
(中略)
彼が亡くなったなら、あなたは、ここにいる人々よりも、多くの涙を、彼の墓の上に落とすでしょう。しかし、私には、彼らは、彼の死に、困惑さえしないと信ずる、確かな理由があるのです。彼らは、彼の存在を、不快に思っています。
……
」
彼らと複数形になっているが、言うまでもなくこれは、メッテルニヒのことである。
*
動き出した馬車の中で、プリンスは、つらそうにつぶやいた。
「結局僕は、この国にとって、重荷以外のなにものでもなかったんだ」
俯き、付き人のモル男爵は、聞こえないふりをした。
石畳の道が終わった。がらがらという車輪の音が、少し、静かになった。
プリンスは、毛布にくるまっていた。比較的体調の良い日を選んだのだが、それでも、彼は、悪寒に震えていた。
「人生は、始まる前に終わるのだな」
毛布の塊から、細い声が聞こえた。
「いいえ!」
思わずモルは、強く否定した。
その声は、自分のものでない気がした。
*
ホーフブルク宮殿では、プリンスの出ていった部屋を、残された二人の家庭教師が、片付けていた。
フォレスチとオベナウスだ。
「ああ、あ、毛布がこんなによれよれになってしまって」
ベッドに重ねられた毛布を畳みながら、オベナウスが言った。
「こんなにたくさん掛けていて、暑くはなかったのだろうか」
「それでも、殿下は、寒がっておられたよ」
部屋の向こうから、フィレスチが返す。
「熱がひどかったんだ。悪寒の発作は、彼をひどく疲れさせた。咳のせいで、眠ることもできず……」
続けることができず、フォレスチは言葉を途切らせた。
ディートリヒシュタインと同じく、彼は、フランソワがウィーンに来た、初めからの家庭教師だった。
彼が、4歳の時からの付き合いだ。
正確には、ディートリヒシュタインの方が、2ヶ月ほど、早く着任した。そのことを、今でも、フォレスチは残念に思っている。
3人めの家庭教師、亡くなったコリンは、二人がプリンスの家庭教師になった翌年、やってきた。
ディートリヒシュタインや故コリン、そして、今ここにいるオベナウスと違って、フォレスチには、妻も子もいない。
彼にとってプリンスは(皇帝の孫に対して、こうした感情を抱くことが許されるのなら)、実の子どものようなものだった。
彼のことが、愛おしかった。
今の状況が、身を切られるように、辛かった。
「あの子は、本当に我慢強い子だ。今だって、どれほどか苦しいだろうに、自分からは決して、苦痛を訴えてこない」
「……この部屋は暑い。むせかえるようだ」
オベナウスがつぶやき、窓を開けた。
爽やかな5月の薫風が吹き込んでくる。
「今の時期、シェーンブルン宮殿は、花が咲き乱れ、さぞかし美しいことでしょう。郊外の離宮で療養できる殿下は、幸せです」
最初からプリンスの家庭教師だったフォレスチらと違い、オベナウスは、プリンスが、13歳の時からの、家庭教師だった。
コリンの死による、補充だった。
ディートリヒシュタインやフォレスチが採用された頃、メッテルニヒは、まだ、外相に過ぎなかった。ウィーン会議で活躍していたころだ。彼らの任命には、メッテルニヒは関与していない。
だが、オベナウスは違う。オベナウスが家庭教師になったのは、プリンスが13歳の時だった。
彼の採用には、宰相となったメッテルニヒの意見も重視された。
そのため、ライヒシュタット公は、常に、オベナウスとの間に距離を置いてきた。彼を、メッテルニヒのスパイだと疑ったのだ。
それが、オベナウスには、悲しかった。
確かに、メッテルニヒの推奨もあって、プリンスの家庭教師に採用された。しかし、宰相から、特別な指令を受けたわけではない。
それに、スパイというなら、ディートリヒシュタインやフォレスチだって、同じではないか。
政府の官僚でもある彼らは、常に、プリンスの身の回りに神経を尖らせていた。
怪しい人物が接触しないように。
おかしな思想に染まることがないように。
オベナウスも、彼らと同じだった。彼の上司は、ディートリヒシュタインだった。
だから、
オベナウスは、プリンスが子どもの頃から、頻繁に、自分の家庭に招いた。
なんとか、プリンスとの関係を改善しようと思ったのだ。
自分の二人の息子達と一緒に遊ばせもした。兄弟の取っ組み合いの喧嘩は、プリンスには、物珍しかったようだ。
オベナウスは、上の子が大きくなると、軍人の道を歩ませた。将校となったプリンスの元へも、頻繁に出入りさせた。
全ては、あまり良い結果を生まなかった。
プリンスは、オベナウスの息子の、出世には尽力してくれた。だが、友として語らうことは、決してなかった。
やはりどうしても、彼ら父子に、
それが、オベナウスには、残念で仕方がない。
「何度も、ひどい喀血があったと聞きました。しかし私は、彼が具合が悪そうにしているのを、見たことがありません」
枕からカバーを外しながら、オベナウスはこぼした。
「私の前で、彼はいつも、元気なふりをしていたのです。やはりプリンスは、私のことを信頼しておられなかったのでしょうか……」
「君だけじゃないよ、オベナウス先生。プリンスは、3人の軍の付き人にも、決して、具合が悪いと打ち明けなかった。だから、ハルトマン将軍なぞは、プリンスはすっかり良くなったと誤解していたんだ」
机周りを整頓してたフォレスチが言った。
消え入りそうな声で続けた。
「プリンスは、絶対に、弱音を吐かなかった。私にもだ。そして、ディートリヒシュタイン伯爵にも」
「えっ! ディートリヒシュタイン先生にもですか?」
「ああ。だから、彼が初めて具合が悪いと打ち明けた時、伯爵は、冗談だと思ったらしい。プリンスは、季節の変わり目に、ちょくちょく、体調を崩していたからね。
フォレスチは、大きなため息を吐いた。
頭を振って、話題を変える。
「プロケシュ少佐も、モーリツ・エステルハージも、グスタフ・ナイペルクも……。親しい友は、みんな、遠くへ追いやられた。プリンスには、自分の弱さを打ち明けられる人が、いなかったのだ」
フォレスチは、引き出しの書類を束ねていた。紐の端を、きつく引っ張った。
「だがプリンスのそれは、病気だったんだ。決して、弱さなどではなかったというのに」
たまらなくなった。叫ぶようにオベナウスは訴えた。
「私はダメだとしても、ディートリヒシュタイン先生は、あんなに、プリンスには親身になっていらっしゃるじゃないですか! フォレスチ先生、あなたもです!」
静かに、フォレスチは、書類の束から目を上げた。
オベナウスをじっと見つめる。
その眼差しは、悲しげだった。
「忘れたのかね、オベナウス先生。我々は、所詮、
「いいえ!」
オベナウスは叫んだ。
「いいえ、フォレスチ先生! だってあなたは、……あなたは、泣いておられる」
頬を流れ落ちる涙を、袖口で、フォレスチは拭った。
「アルゴスでさえ、あの方に、味方せずにはいられない。あの方のことを、愛さずにいられないのだ……」
「どうか、元気になって戻ってこられますように」
祈るような思いで、オベナウスも口にした。
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