ウィーンの悲しみと母の判断



 アルザー通りの兵舎は、悲しみに包まれていた。


「隊長は、我々と寝起きを共にされていた」

「厳しい訓練も、一緒になって、汗を流しておられた」

「覚えているか? 兵舎を去る時、あの方は、我々に向かって、手を振っておられた。いつまでも、いつまでも」


兵士は、言葉を切った。

「また、すぐ戻る、と」


 軍服を着崩した兵士が頷いた。

「いいか。俺は、農家の三男坊だ。耕す土地がなく、都会に出てきた。行くところがないから、軍に入った。お前らだって、似たようなもんだろう? あの方が手を振って別れを惜しまれたのは、そんな俺達なんだ」


「……」

「……」


 兵たちは、沈み込んだ。


 「なんだなんだ、湿っぽい!」

赤茶色の髪をした兵士が叫んだ。

「結核は、治るのだ! 俺の兄は、子どもの頃、結核を患ったが、未だにぴんぴんしているぞ。栄養だ! 栄養さえ良ければ、結核なんて、治る病だ!」


 若い兵士たちは、はっと、息を呑んだ。

 すぐに、水を得た魚のように、騒ぎ出す。


「そうだ! あまり召し上がらず、それも、質素な食事ばかりだったが、曲がりなりにも、あの方は、皇族だ。いざとなったら、いくらだって、栄養がつけられる」

「高価な薬だって、買えるぞ。ウィーンきっての、名医の治療も受けられる筈!」

「お若いからな。俺よりもまだ、若い。彼は、絶対、大丈夫だ」


「治るまで、大威張りで、好きなだけ寝ておられるがいい。なにしろ皇族なんだからな、あの方は!」

「俺たちのハンサム・デュークだからな。若い娘っ子だってよりどりみどり、可愛い娘に、つきっきりで看病してもらえば、どんな病気だって、治らないわけがない!」

「俺は知っているぞ。結核には、気候のいい地方での療養が、一番なんだ! 皇族だもの、ナポリへだって……」


 叫びかけ、年若い兵士は黙り込んだ。


 大柄な兵士が立ち上がった。

 若い兵士に近づき、その頭を、ぽかりと叩いた。







 「お母さん、大変!」

遊びに行っていた妹娘が、家の中へ駆け込んできた。

「カフェで、フランツとお友達に会ったの! あのね。ライヒシュタット公が! ライヒシュタット公が!」


「アンゲラ! 静かにおし」

姉娘がたしなめた。

「だって、ハンサム・デュークライヒシュタット公がっ!」


 なおも甲高い声で、妹が喚く。姉は、両耳を手で塞いだ。


「それ以上言わないで! 私だって悲しいのよ! 連隊の指揮を執るお姿は、あんなに凛々しかったのに。絵から抜け出したような、ステキな将校だったのに!」

いやいやをするように、耳を塞いだまま、頭を左右に振る。

「あれからまだ、1年も経っていないのよ……」


 しかし、妹を黙らせることはできなかった。姉の耳元で、妹が騒ぎ立てる。

「すんごい、痩せちゃったんだって。もう、がりがりで、幽霊みたいだったって。フランツが見たの」


「お黙りっ!」

姉娘は、妹の口を塞ごうとした。


「お母さん。結核って、治らない病気なの?」

姉の手から逃れ、妹は、部屋の隅にいる母に、問いかけた。

「そんなことないわよね? ナポリへ行けば治るのよ。カフェのみんなが、話してたもん!」

「ナポリ? 彼がイタリアへなんか、行けるわけないでしょ!」

言い捨てて、姉娘は、静かに泣き出した。



 「アンゲラ。クラウディーネ。こっちへおいで」

部屋の隅に設えられた祭壇の前で、母親が呼んだ。祭壇には、聖母の像が安置されている。

「さあ、マリア様にお祈りしましょう。彼の病が癒えるように。暖かいナポリで、療養に専念できますように」


 聖母の前にひざまずき、3人の女性は、真剣に祈りを捧げた。







 もちろん、プリンスのイタリア療養の許可は下りなかった。

 この頃、ウィーンのある貴婦人(マリー・ルイーゼの幼友達でもあった)が、知人に書き送っている。


ウィーンの全ての人々は、ライヒシュタット公の病状について話し合っています。彼には、穏やかな気候のイタリアでの療養が必要なのです。しかし、政治的な事情が、それを許しません。


 政治的な事情とは、宰相メッテルニヒのことである。







 熱と咳は、激しさを増すばかりだった。

 ウィーンの新聞、フランスの新聞も、ライヒシュタット公は結核だと騒ぎ立てた。

 パリの日刊紙などは、彼を、葬りかねない勢いだった。


 そんな中で、マルファッティら医師団は、結核という言葉を排除し続けた。

 新聞初め、街なかの情報は全て、慎重に、フランソワから遠ざけられた。







 4月の終わりに、ひどい喀血があった。


 ……いや、まだ希望はある。

 ディートリヒシュタインは思った。

 ……プリンスは、いつだって、お母様の顔を見れば、元気になった。

 ……子どもの頃から。ずっと。

 ……だから、マリー・ルイーゼ様さえ、いらしてくれたら!


 最後の希望を、ディートリヒシュタインは、母親に繋いだ。彼は、パルマのマリー・ルイーゼに帰ってきてくれるよう、手紙を書いた。







 マリー・ルイーゼの元には、メッテルニヒから、最善の治療を保証するという信書が来ていた。


 侍医のマルファッティと付き人のハルトマン将軍からも、プリンスの病状に関する、詳細な報告が来ていた。


 マルファッティは、肺にはいかなる腫れも結節も見当たらない、と報告してきた。その上で医師は、新聞の無責任な煽り記事に惑わされないように、と、警告していた。


 ハルトマン将軍もまた、定期的に、報告を寄越した。最新の報告では、症状は、悪化していないだけでなく、医師のおかげで改善してきている、とあった。

 大きな喀血はあったが、その出血は、患者を解放に導いたようだ、プリンスは食欲も戻り、よく眠れている、毎日のように外出するし、自分の足で歩いてもいる、まるで、病気が再発する前に戻ったかのようだ、というのだ。


 ハルトマンは、単純な軍人だった。彼は、医者の権威を疑うことがなかった。将軍は、マルファッティ医師の言うことを、鵜呑みにしたのだ。




 マリー・ルイーゼは、これらの報告書について、パルマの医師に相談した。

 心配なかろうと、パルマの侍医は上奏した。


 帰ってこいとうるさく言ってくるディートリヒシュタインに、マリー・ルイーゼは、返事を書いた。

 幼い頃から、ことこまかに、プリンスの不調を報告してきた元家庭教師だ。


パルマでは、コレラが流行の兆しを見せています。もし、息子の病室が悪化しても、私は、ウィーンへは、行けません。パルマの君主として、私は、最愛の者への愛情を犠牲にしても、この国の人々と、危険を分かち合わねばなりません。それは、君主としての義務ですから。








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